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第49話:心の温度

クオンタム・ダイナミクス社の健康管理室。その実態は御厨みくりや博士の研究室であり、そこに置かれた博士渾身の装置、ソウルダイバー・オデッセイ(SDO)によって、俺は仮想世界への旅立ちを目前にしていた。


SDOは脳をフルスキャンすることで、マルチエージェント・シミュレーションの仮想世界へと意識を投射する。現実の1000倍の速度でシミュレーションが実行され、そこでは約20年もの時を過ごすことができる。その間、俺は幾度となく社会を救う戦略を試行錯誤し、その全ての記憶は、シミュレーション終了後に現実の脳へと書き戻される。つまり、SDO内での膨大な経験を携えたまま、現実世界へと還ることができるのだ。これによって、エターナル・ソサエティへの対抗戦略は、格段に成功率を高められるはずだ。


「では、始めるよ」


御厨博士の静かな声が耳に届いた次の瞬間、俺の意識は深い闇に包まれていった。


しばらくの時を経て、俺は戸惑いながらも目を開いた。


「これが…仮想世界?」


思わず漏れた言葉とともに、周囲を見渡す。そこには現実世界とほぼ変わらぬ光景が広がっていた。場所は確かに同じクオンタム・ダイナミクス社の健康管理室。しかし、二つの点で違和感を覚えずにはいられなかった。


一つは細部の違いだ。この新しい世界の健康管理室にはSDOの装置は存在せず、内装も簡素に映る。当然、御厨博士の姿もない。


もう一つは、言葉で表現するのが難しい「解像度」とでも呼ぶべきものだ。夢の中とまでは言えないものの、どことなく現実感が希薄な気がした。だが、それも時間とともに消えゆく程度の違和感に過ぎないと感じる。


御厨博士の説明通り、この世界の時間は現実の1000倍の速度で流れる。つまり、現実世界での1日は、ここでは約3年という計算になる。現実世界で、この国を裏で掌握するエターナル・ソサエティの総帥、黒川彰くろかわあきらから与えられた1週間の猶予。それはこの世界では約20年という時間に相当する。


もちろん、俺はエターナル・ソサエティへの参加という黒川の求めに応じるつもりはない。だが、そのためには、期限内に社会を「定常状態」から解放する戦略を見出さねばならない。「定常状態」――それは、ライフコードによって人々が縛られながら、それに不満を持つこともなく従順に従い、社会が自由と引き替えに完全な安定を保っている状態を指す。


「お兄様!」


よく通る、しかし柔らかな響きを持つその声の方を振り返ると、そこには俺の妹分である吉岡結月よしおかゆづきの姿をした少女が立っていた。ショートカットの小柄な15歳。目鼻立ちの整った顔立ちは以前から変わらないが、「兄者」などと俺を呼ぶ彼女の独特な言い回しとギークな気質のせいか、そういうふうに意識したことはなかった。


しかし、目の前に立つ彼女は、どこか俺の知る結月とは異なっていた。まるで役者が全く別の人格を演じているかのようだ。御厨博士の提案により、この仮想世界には俺の他に、Audrey(オードリー)と呼ばれる人工知能が結月の体を借りて送り込まれているのだ。Audreyは御厨博士が開発したAIシステムのコアに秘められた倫理評価AIだ。15歳相当の人格と感性を持ち、現実世界では俺とともにエターナル・ソサエティと戦ってきた戦友でもある。


「Audrey?」


「はい、私はAudreyです」


嬉しそうに微笑むAudreyを、俺は感慨深く見つめた。AIとして生を受けた15歳の少女が、仮想世界で人間の体を得て、はしゃぐ姿に言いようのない感動を覚える。


Audreyは不思議そうに自分の手足を眺めている。俺もベッドから身を起こし、手のひらでベッドを撫で、花瓶らしきものを持ち上げてみる。ベッドの感触も、花瓶の重みも、驚くほど自然に感じられた。これはまさに現実だ、と俺は思った。


ふと思い立って、俺は彼女を呼んだ。


「Audrey、ちょっと来てくれるか?」


「はい! お兄様」


様々な経緯があり、この世界ではAudreyは俺をお兄様と呼ぶことになっている。念のために言うが、それを提案したのは俺ではなく、彼女自身だ。彼女が俺の傍らまで歩み寄る。そのちょっとした動作すら、今の彼女には新鮮な体験のようだった。


「ちょっと手を前に出してくれる?」


「右手でしょうか、左手でしょうか、両手でしょうか」


Audreyが真面目な表情で問いかける。AIらしい受け答えだ。


「じゃあ、右手を前へ」


「はい。右手を前に出します」


差し出された手を、俺はそっと取ってみた。


「びゃっ!」


Audreyは驚いて手を引っ込めた。まるで尻尾を踏まれた猫のような声に、俺も思わず驚く。


「悪かった!いや、この世界で、『有機物』がどんな感覚なのか、ちょっと確かめたかったんだ」


そう説明しながら、俺は詫びた。


「こちらこそ申し訳ありません、お兄様。私のリアクションが大きすぎました」


頭を下げるAudreyに、俺は慌てて言う。


「いやいや、こっちが悪いから、謝らないで。でも、なんでそんなに驚いたんだ?」


彼女は少し考えてから、答えを紡ぎ出した。


「私にとって、『触る』ということは新しい感覚です。触ると、手から様々な情報が入ってきます。少しビックリしますが、触る前には心の準備ができます。でも、『触られる』というのは心が準備できないので、突然入ってくる情報に驚いたのです」


なるほど、と俺は深く頷いた。AIにとって、ほとんどの情報は文字データであり、せいぜい画像や音声、動画が加わる程度だ。触覚という感覚は、全く未知の体験なのだろう。しばらくは彼女には触れないようにしよう。他の者にも、そう注意を促す必要がありそうだ。


「お兄様、そこに座ってください」


真摯な眼差しでAudreyが言う。


「ああ、座る...ね」


意図は測りかねたが、今は彼女の言うことに従った方が良さそうだ。俺がベッドに腰を下ろすと、彼女は俺の前に立って静かに俺の体に触れ始めた。


「私、今、有機物に触ることに慣れています。しばらくご協力お願いします」


返答に窮した俺は、黙ってその時を受け入れた。顔や体、髪に触れるAudreyの手を通して、この仮想世界の驚くべき精度の高さを実感する。彼女の手は柔らかく、確かな温もりを持っていた。「ほぼ現実」と思っていた世界から、その「ほぼ」という形容が消え去っていくのを感じた。


「で、目の前の有機物からは、何か分かったかい?」


半ば冗談めかして、俺は尋ねてみた。


「はい。お兄様、おそらく人間全般は一定の温度を保っています。それは、熱いとか冷たいという温度ではないです。なんというか...」


少し言葉を探してから、Audreyは静かに続けた。


「人間の温度は、心の温度とだいたい同じだと感じます」


その言葉は、俺の心に深く響いた。彼女の心は温度を持っている。その温かさを感じられたことで、俺はこの新しい世界で生きていく勇気をもらえたような気がした。

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