第46話:別世界への扉
御厨博士は健康管理室の奥に秘められた装置を眺めながら、誇らしげな表情を浮かべた。コンピュータと医療機器が複雑に組み合わされたその姿は、まるで未来からやってきたシステムのようだった。
「これは、マルチエージェント・シミュレーションに入り込むためのシステムだ。名付けて、ソウルダイバー・オデッセイ、SDOだ」
俺は驚きの目を博士に向けた。その眼差しには、技術的な衝撃と、中二病めいたネーミングへの戸惑いが混在していた。
「私が情報科学とともに医学を学んだ理由がここにある」
博士は静かな口調で続けた。
「脳の状態をフルスキャンし、シミュレーション内のエージェントに完全に反映させる技術を開発していたんだ」
御厨博士ならあるいは、とは思う一方で、そんな途方もないことが本当に実現できるのか、俺には半信半疑だった。
「まさか……それって、昔の言葉で言えばフルダイブ型のVRシステムみたいなものですか?」
「いや、これはVRとは本質的に異なる。VRというのは、君がこの世界にいながらにして、シミュレーション世界をのぞき込む、という構造になる」
博士はよどみなく説明を続けた。
「実はこの装置をVR的に使うことも可能だ。しかし、VRモードにすると、シミュレーション内の時間の進み方を、現実世界と1対1に固定しなければならない。脳の処理が追いつかないからだ」
「分かります。シミュレーションが2倍、3倍、10倍の速度で動いたとしても、俺の脳の処理速度は変わりませんからね」
「その通りだ。しかしそれでは、シミュレーション内で10日を過ごせば現実世界でも10日、1年過ごせば現実世界でも1年が過ぎてしまう。我々に残された時間は少ない」
俺は徐々に理解の糸を手繰り寄せていった。御厨博士の生み出した装置は、想像を遥かに超えるとんでもない代物だということが分かりだした。
「つまり、SDOで俺がシミュレーション世界に入り込んだ場合、現実世界の俺とは完全に切り離される、と」
「その通りだ。君の脳の状態を完全にデータ化し、シミュレーション内の君に転送する。つまり、君は今の記憶を持ったまま、仮想世界に転生することになる」
「なるほど。そうすれば、現実の脳の制約は受けなくなる。シミュレーションの実行速度を大幅に加速できる、と」
博士はさらに説明を続けた。
「シミュレータにも手を加えている。君の記憶が転送されるのは特別なエージェントだ。君は開発者なのだから釈迦に説法だと思うが、ライフコードのシミュレータ内のエージェントはある意味簡易的なものだ」
「その通りです。計算機資源を節約するために、個人の行動の再現性を高めるための要素は含まれていますが、その上でできるだけ簡素化して計算量を減らしています」
博士は深く頷いた。
「君が転送されるエージェントは『フルスペック』だ。シミュレーション内でも君の体は五感を持つ。君が見る世界は仮想世界ではあるが、君は自分自身の肉体も含めて、それを現実の世界と感じるだろう」
「そんな事が可能なんですか?」
「可能だ。簡単に言えば、脳も含めた神経系をそのままコンピュータ内に再現しているんだ」
博士の言葉に、俺は想像を巡らせるしかなかった。しかし、天才的な情報技術者であり医者でもある博士なら、それは不可能ではないのかもしれない。
「あと、当然ながら君のエージェントは物理演算の精度も他のエージェントより二桁高くなっている。つまり、壁にめり込んだり、地面に足が埋まったりはしない」
「なるほど」
重要な指摘ではあったが、俺は思わず笑ってしまいそうになった。今時のインディーズゲームでさえ、そんな粗雑な挙動は見られないはずだ。
SDOの驚異的な技術に心を躍らせながらも、俺の胸には消えない不安があった。
「博士、ただ、その場合、現実世界の俺はどうなるんですか」
「良い質問だね」
御厨博士の口元に浮かんだ微笑みに、俺は何か嫌な予感を覚えた。
「基本的には、どうにもならない」
意外な答えに、俺は拍子抜けした。
「脳のデータをコピーしてシミュレーション内に転送するだけだから、君は君のままだ。ただ、しばらくの間、君が現実世界とSDO内に同時に存在することになる」
俺の頭の中で混乱が深まっていく。
「よく分からなくなりました。その場合、最終的に、SDO内の俺はどうなるんですか?現実には戻れないのでしょうか?」
「いや、戻る。そこがSDOの最大の特徴でもある。この技術は双方向なんだ。つまり、SDO内の君の記憶を、最後は現実の君の脳に書き戻すことになる」
その言葉に、俺は戦慄を覚えた。
「そうすると、現実世界の俺の記憶は上書きされると……」
博士は言葉を選びながら、慎重に説明を続けた。
「まあ、そういう言い方もできる。だから、君がSDO内にいる間、現実の君の記憶が進んでもらっては困るんだ。記憶を書き戻すとき、現実の記憶との齟齬はできるだけない方が脳への負担が少なくなる」
博士は真剣な眼差しで俺を見つめた。
「つまり、SDO内に君がいる間、現実世界の君には眠っていてもらうことになる」
俺は理性では納得した。漠然とした不安は残るものの、御厨博士への信頼が、その不安を治めてくれた。
博士は改めて「作戦」について語り始めた。
「樹君、君はこれを使ってシミュレーションの世界に入り、そこで社会を定常状態から抜け出させるための試行錯誤を重ねるんだ。そして、有効な戦略が見つかったら、戻ってくればいい。これで、現実世界ではただ1度だけ実行できる対エターナル・ソサエティの作戦が成功する確率は大幅に高まる」
俺は興奮を抑えきれなかった。現実では一度きりのチャンスを、SDO内では何度でも試行錯誤し、俺は経験を積むことができる。
「君の方が詳しいと思うが、まずはライフコードにアクセスし、今実行されているマルチエージェント・シミュレーションの中から1つの世界を分岐させる。それを、SDO内で実行する」
「なるほど」
俺は深く頷いた。
「ただし」
博士の表情が一転、厳しさを帯びた。
「無限に試行錯誤できるわけではない。君も知っているとおり、ライフコードが走っているのは世界ランキングトップクラスのスーパーコンピュータだが、SDOの計算機単体としての性能はそれほど高くない。シミュレーション内の時間の進み方は現実の1000倍速が精一杯だ。つまり、シミュレーション内の1000日が現実では1日ということだ」
俺は瞬時に計算を始めていた。
「現実世界で俺に残された時間は、黒川に再び会うまでの1週間。つまり、仮想世界では約20年に相当する、と」
御厨博士は静かに頷いた。
「その通りだ。君は、その20年をリミットとして、SDO内で試行錯誤を繰り返し、この世界を定常状態から救い出す方法を模索するんだ」
長い説明を経て、今、ようやく俺の中ですべての歯車が噛み合った。目の前に広がる道のりは険しいが、確かな希望の光も見えていた。SDOという装置が、絶望的な状況を変え、未来への扉を開こうとしているのだ。




