第45話:希望の細い糸
屋上庭園を後にした俺は、御厨博士が待つクオンタム社の健康管理室の前で足を止めた。右手を胸に当てると、まだ鼓動が高鳴っているのを感じる。深く息を吸って吐き出し、俺は静かにドアをノックした。
「どうぞ」
穏やかな声が返ってきた。その響きに、俺の心は微かな安らぎを覚えた。
ドアを開けると、御厨博士が優しい微笑みで迎えてくれた。その表情と白髪交じりの無造作な髪から感じられる人間らしい温もりに、泣きたくなるような懐かしさが込み上げてくる。
「来てくれてありがとう、樹君。少し痩せたかな」
「ご心配をおかけいたしました」
俺は深々と頭を下げた。そして、拘束された日のこと、獄中での日々、そして今日一日の出来事を、すべて御厨博士に打ち明けた。
「実は、ここに来る前、黒川彰……エターナル・ソサエティのリーダーに呼ばれたんです。ライフコードを改善する手伝いをしないか、と。1週間後、返事をすることになっています」
「黒川彰……」
御厨博士の瞳が遠くを見つめ、何かを思い起こすように曇る。しかし、すぐに俺の方へと視線を戻した。
「それで、君の答えは」
俺は深く息を吐き、強い決意を込めて言い切った。
「彼らは間違っている。黒川と手を組むことはありません。俺自身の手で、ライフコードを清算します」
「清算というのは?」
御厨博士が確認するように問いかける。
「『清算』というのは、一旦ライフコードの運用を完全に停止し、社会から消し去るということです。その先は、まだ分かりません」
御厨博士は真剣な表情で静かに頷いた。
「覚悟は分かった。ただ、見通しは限りなく厳しい」
博士は立ち上がり、窓際へと歩を進めた。夏の夕暮れが染め上げる都市の遠景を見つめながら、深い思考の淵に沈んでいくようだった。
「樹君、定常状態《steady state》という言葉を知っているかい?」
「はい。全てがバランスしていて、安定している状態のことであると理解しています」
定常状態——黒川も繰り返し口にしていた言葉だ。その重みを、今になって痛いほど実感している。
「そう。今の社会は、まさにその状態にある」
博士は静かに説き始めた。その落ち着いた声に導かれ、俺も心を落ち着かせることができた。
「現在、社会は定常状態にある。半円形の器の底にビー玉を置いたように、少し動かしただけでは元の場所に戻ってしまう。大きく揺り動かさなければ、ビー玉を器から取り出すことはできない。つまり、このままでは、皆がライフコードを受け入れ、操られ、しかし不満すら持たない状況が続くだろう」
俺は黙って耳を傾けていた。その説明に、自分たちが直面している課題の巨大さを改めて思い知らされる。
「さらに」
博士の声は重みを増していく。
「我々ふたりだけで社会を大きく動かすことが、まずもって難しい。ほとんど不可能に近いだろう。それに加えて、我々には1度しかチャンスがない。もし失敗すれば、君は再び拘束され、二度と解放されないだろう。つまり、2度目はないんだ」
博士は俺の方を見つめ、その言葉を噛み締めるように語った。
「でも、やるしかないんです」
俺は覚悟を決めてそう返した。具体的なアイデアはまだないが、声に揺るぎない決意を込めた。
「気持ちはわかる」
御厨博士は優しく言ったが、続く言葉は容赦なかった。
「もし、この世界が君のために書かれた『英雄譚』ならば、それでいいのかもしれない。英雄譚は一度きりのチャンスを掴んだ希有な人間の話だ。しかし、現実にはこれは確率の問題だ。わずか1度のチャンスで正解を見つけ出し、成功裏にそれを実行し、社会を定常状態から抜け出させる。その極小の可能性に賭けるのは無責任すぎる」
状況が絶望的に厳しいことは、博士の表情から痛いほど理解できた。俺は言葉を失い、頭の中で様々な思考が渦を巻く。
「では、どうすれば……」
その言葉を待っていたかのように、博士の表情が一変した。俺は、その変化に僅かな希望の光を見出した。
「実は、こんなこともあろうかと」
御厨博士は不思議な人だ。状況に関係なく、突然テンションが上がることがある。その姿に、俺は少なからず戸惑いを覚えた。
「ある準備をしていたんだ」
博士はそう言って、健康管理室の奥の部屋へと俺を導いた。ドアが開くと、そこには想像を超える光景が広がっていた。
最新鋭のコンピュータシステムとMRIのような大がかりな医療機器が並び立つ。その全てが、何か壮大な目的のために組み上げられているように見えた。俺は思わず息を呑んだ。
「これは一体…」
俺の言葉に、博士は満足げな笑みを浮かべた。その表情には、長年の努力が実を結んだ喜びが滲み出ていた。
「君に見せたかったものだよ。我々の、そして人類の希望となるかもしれないものだ」
俺は、目の前に広がる光景に圧倒された。これから何が始まるのか、まだ想像すらつかない。しかし、希望の細い糸がまだ確かに繋がっていることを、俺は感じていた。




