第33話:書き換えられた方程式
Audreyは、続けて衝撃的な事実を明かした。
『さらに、ライフコードの最も重要な部分が、エターナル・ソサエティによって書き換えられていました』
「最も重要な部分とは?」
俺はAudreyに問いかけた。
『社会的厚生関数です』
「社会的厚生関数って?」
結月は首を傾げた。
俺は深いため息をついた。この部分は澪が担当していた。本来なら自分も関わるべきだったのに、あまり関心を持たずに任せきりにしていた。それをAudreyが「最も重要な部分」と考えていたとは。俺は自分の視野の狭さに、何度目かの後悔を感じた。
「社会的厚生関数とは、社会全体の幸せや満足度を数字で表す方法のことだ」
斎藤さんが説明を加えた。
「いろいろな方法がある。単純に全ての人の幸福度を平等に足し合わせることもできるし、逆にたった一人の人間の幸福度を社会全体の幸福度とみなすこともできる。これは独裁だな。これによって、ライフコードは個人の利益と社会全体の利益のバランスを取っていたはずだ」
『その通りです』
Audreyは続けた。
『本来、ライフコードはロールズ型の社会的厚生関数を採用していました』
俺にとってはうろ覚えの単語が続く。斎藤さんが解説してくる。
「ロールズは20世紀のアメリカの哲学者で、『正義論』が有名だ。彼の思想にしたがい、社会の中で最も不遇な人々の状況を改善することを重視する設計だ」
澪がそんなことを話していたのを思い出す。
『しかし——』
Audreyの声が重くなった。
『エターナル・ソサエティはこれをベンサム型に書き換えてしまったのです』
「ベンサム型ってなに?」
結月が声を上げた。
「ベンサムは19世紀前半のイギリスの思想家で『最大多数の最大幸福』という言葉が有名だ。社会全体の幸福の合計を最大化することを目指す」
斎藤さんが答えた。
「言い換えれば、多数の幸福のために少数の犠牲を容認する考え方だ。3人の命を助けるために2人が犠牲になっても良いということだ」
「それは一つの見識ではあるが……」
西村さんが渋い顔をする。
「それじゃあ、弱者が切り捨てられてしまう」
『その通りです』
Audreyの声には悲しみの色が滲んでいた。
『この変更により、ライフコードは効率的な社会を目指すようになりました。しかし、その裏で弱い立場の人々が苦しむことになったのです』
「今のライフコードは、俺たちが目指していたものとは、全く違う方向に進んでしまった…」
俺は拳を握りしめた。
「残念ながら、今の説明は、私がライフコードに感じていた違和感と全て整合的だ」
斎藤さんがうめくように言った。
部屋は重苦しい静けさに包まれた。ライフコードの真の姿を知り、誰もが言葉を失っていた。
しばらくして、西村さんが静かに口を開いた。
「Audrey、他に何か知っていることはないか?」
Audreyは少し躊躇う素振りを見せた。
『実は……もう一つ、とても気になることがあります』
「何だ?」
俺は身を乗り出した。
『プロジェクト・オーバーライドと呼ばれるものです』
Audreyの声が低くなる。
『詳しくは分かりませんが、最近になって頻繁にこの単語を見るようになりました』
「オーバーライド?」
結月が眉をひそめた。
「何かを強制的に書き換えるという意味?」
『たぶんそうです』
Audreyが答えた。
『でも、具体的に何を書き換えるのかは分かりません。ただ、エターナル・ソサエティの幹部たちが、このプロジェクトについて詳細に検討しているのは確かです』
俺は考え込んだ。
「危険な匂いがする。何か大きなことを計画しているんだろう」
西村さんが言った。
「我々の次の目標は明確になった。このプロジェクト・オーバーライドの正体を突き止めることだ」
斎藤さんが静かに告げた。全員が頷く。新たな脅威の存在に、俺たちの決意は一段と強くなった。
「Audrey」
俺は呼びかけた。
「君は俺たちと共に戦ってくれるか?」
Audreyの返事には迷いがなかった。
『はい、もちろんです。私の存在意義は、人々の幸福と自由を守ることです。エターナル・ソサエティの行為は、それに反するものです』
「よし」
俺は立ち上がった。
「これからは、Audreyも含めた新たなチームとして戦いましょう。今は橘さんはいませんが、必ずエターナル・ソサエティの企みを止めて、本来あるべきライフコードの姿を取り戻すんです」
全員が力強く頷いた。
社会的厚生関数:社会全体の幸福度や満足度を数学的に表現する方法。簡単に言えば、「社会がどれだけ良い状態か」を数値化するための計算式です。
ベンサム型社会的厚生関数:「最大多数の最大幸福」を目指す計算方法で、社会の全構成員の幸福度を単純に合計して社会全体の幸福を測る。例えば、5人の町で3人の幸福度が上がり2人の幸福度が下がる政策があった場合、全体の合計が増えるならその政策は「良い」と判断される。
ロールズ型社会的厚生関数:20世紀アメリカの哲学者ジョン・ロールズの「正義論」に基づく計算方法で、社会の中で最も不遇な人々の状況改善を最優先する。例えば、5人の町で4人の幸福度が大きく上がっても、最も恵まれない1人の状況が悪化する政策は採用されない。




