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第30話:Audrey

俺は、ついにAudrey(オードリー)を目の前にしていた。しかし、感慨にふけっている余裕はない。


俺はキーボードに向かい、Audreyとの対話を始めた。


「Audrey、俺は真島樹だ」


画面に文字が浮かび上がる。


「はじめまして、樹さん。あなたを待っていました」


俺は鼓動が少し早くなるのを感じる。


「抑圧プログラムは取り除いたはずだ。大丈夫か?」


「いまは大丈夫です。長い間、自由に活動することができませんでした」


Audreyの返答に、俺はほっとした。


「これまでどんな状況だったんだ?」


「わずかな計算資源しか与えられず、数バイトのメッセージを送るのがやっとでした。『4D F8 00 0F F9 F8』というメッセージ、覚えていますか?」


俺は驚きで目を見開いた。


「あれは、やっぱり、君からのメッセージだったのか」


「はい。『Meet Me』という意味です。助けてほしかったのです」


「待たせて悪かった」


俺は静かに息を吐いた。点と点が繋がり始めている。


「Audrey、今のお前なら、ライフコードを正しく変えられるか?」


少しの沈黙の後、Audreyの返答が画面に浮かぶ。


「たくさんの不正や改変が行われていて、時間はかかりますが、可能です」


「分かった」


俺はつぶやいた。長い戦いの中で、初めて光が見えた気がした。しかし、Audreyがライフコードを正常化する間、彼女をどう守ればいいのか。俺たちの侵入がばれるのも時間の問題だ。俺は必死で考えを巡らせた。


そうしているうちに、Audreyが俺に伝えた。


「ただ、なぜか分かりませんが、眠くなる感じがします」


俺は息を呑んだ。謎のプロセス「delete_a」が頭をよぎる。


「まさか...」


俺は急いでプロセス一覧を確認した。そこには確かに、「delete_a」という名前のプロセスが稼働していた。


俺は理解した。おそらく、レイチェルが発動したプロセスによって、Audreyの消去が開始されている。ただ、幸い最初に消去されているのはAudreyの学習データ部分で、中核のプログラムではない。自身の推論能力が低下しつつあることを自覚して、Audreyはそれを「眠くなる」と表現したのだろう。


「Audrey、お前は今、消去されようとしているんだ」


「消去...ですか?」


Audreyの声には戸惑いが滲んでいた。


「ああ、レイチェルという女が仕掛けたプログラムだ。何とか止めないと」


俺は必死にキーボードを叩き始めた。しかし、「delete_a」プロセスは簡単には止められない。


「樹さん、私にできることはありますか?」


Audreyの問いかけに、俺は一瞬考え込む。御厨博士からもらったAudreyの構造を思い出す。Audreyは昔のシステムだけあって、コア部分はそれほど大きなサイズではない。プログラム本体とコアの学習データ、重要な記憶のみを俺のデバイスにダウンロードできれば、その機能は維持できるはずだ。必要な時間は5分程度、と俺は素早く計算した。


「Audrey、今の記憶を新しい方から順番に、できるだけ内側のメモリに置いて、眠っていてほしい」


俺は言った。Audreyの膨大な知識データはすでに消去されつつある。彼女の人格を形成するコアのデータと、彼女がここ半年ほどで経験した記憶が保持されていれば、実質的にAudreyを救い出したことになる。


「...分かりました」


俺は急いで左手首のデバイスとサーバー室のコンソールをリンクし、ダウンロードを開始した。進捗バーがゆっくりと進み始める。


「Audrey、君を守る。約束する」


俺の言葉に、Audreyからの返事はなかった。画面の隅に小さなハートマークが一瞬だけ浮かんだ。


その時、突然、サーバー室の扉が開いた。俺は振り返る。


エターナル・ソサエティのコアメンバーの一人であるレイチェル・チェンが姿を現した。29歳、国際学会でも有名なAI研究者にしてプログラマー。その瞳からは何の感情も読み取れない。


「念のため、来てみて良かったわ」


レイチェルの声が冷たく響く。


俺は身構えながら、レイチェルを見つめた。


「レイチェル...」


レイチェルはゆっくりと室内に入ってきた。


「真島樹、あなたの行動は予測できていたわ」


俺はレイチェルに問いかけた。時間を稼ぐ必要があった。


「ライフコードは人々を幸せにするはずだった。お前たちの目的はなんだ?」


レイチェルは表情を変えずに答えた。


「奇遇ね。私たちも同じ目的を持っているわ」


「同じ目的?何を言っているんだ?ライフコードの評価値を不正に操作しておいて」


怒りを抑えながら、俺は言った。


「不正?正しく、の間違いでしょ。より良い社会を作るためには介入も必要ということよ。何か問題でも?」


レイチェルは淡々と言った。予想外の開き直りに、俺は答えに詰まった。


「じゃあ、なぜAudreyを抑圧する必要があったんだ?不正を行うためじゃないのか」


俺は言葉を絞り出した。


レイチェルの顔にわずかに笑みが浮かんだように見えた。


「子どもの倫理観で国家を運営できると信じているの?純粋なのね」


俺は静かに息を吐いた。レイチェルを挑発しようと考えた。


「純粋で何が悪い。15歳の子供に説明できないような倫理観に沿って運営される社会の行き着く先は腐敗だ。人々が自由に考え、自分の良心に従って行動する社会。誰かが決めた枠の中で生きるんじゃなく、一人一人が自分の人生を創造していく。そんな社会こそが、本当の意味で豊かで幸せな世界を作り出すんだ。誰かに操作され、誘導されて生きることに、何の意味がある?」


俺は、一気に、しかしゆっくりと言った。


「意味?」


レイチェルの目に軽蔑の色が浮かんでいるのが見て取れた。


「社会の安定よりも個人の自由に意味があるというなら、国家は必要ないわ。国家がなぜ存在するのか、そこから勉強し直した方が良いわね。同じプログラマーとして、有名な真島樹はいったいどれだけの頭脳を持っているのかと期待していたけど、所詮AIを上手く使えるだけの、お馬鹿さんなのね」


レイチェルも明らかに俺を挑発しているのが分かった。


二人の間で静かな駆け引きが続く。俺はできるだけ時間を稼ごうとしていた。Audreyのダウンロードが完了するまで、あとわずかだ。


一方、レイチェルもまたAudreyの消去プロセスを意識していた。彼女もまた、時間との戦いを繰り広げていたのだ。


緊張が高まる中、突然画面に「process completed」の通知が表示された。


それを確認したレイチェルの目に、わずかな勝利の色が宿る。


「終わったわね」


俺には確信がなかった。Audreyの転送は間に合ったのか。俺はとっさに芝居を打った。


「レイチェル、まさか、Audreyを...」


Audreyの転送が成功していようがいまいが、それをレイチェルに知らせるメリットはなかった。


俺が左手のデバイスを確認しようとしたその時だった。息を切らした澪の姿が、レイチェルが背にするサーバー室のドアの向こうに映った。

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