第26話:静寂と決意
その夜、地下シェルターの薄暗い照明の下、俺と澪さんは沈黙を守っていた。時間は深夜0時を回っていた。23時間後の潜入を前に、緊張感が漂っている。壁に映し出されたままの作戦概要を、二人とも見るともなく眺めていた。
「樹くん」
澪さんが静かに呼びかけた。その声には、いつもの落ち着きの中に、わずかな震えが感じられた。
「どうかしましたか?」
俺は彼女を見つめ返した。
「明日、本当に大丈夫かな」
少し前までの気丈な様子からうって変わって、澪さんの目には、不安の色が浮かぶ。普段の彼女らしからぬ弱さに、俺は少し驚いた。
「大丈夫ですよ。絶対に」
俺は強がって答えた。俺自身も不安だったが、それを表に出すわけにはいかなかった。常に正直であることが、思いやりにはならないと、厳しい逃亡生活の中で学んでいた。
「覚えてる? 私たちがライフコードの開発を始めた日のこと」
澪さんが突然、昔の話を持ち出した。
「ええ、もちろん」
俺は懐かしさを込めて答えた。
「覚えてる?集合写真撮ったの。プロジェクトメンバー全員で」
澪さんの言葉に、その光景を思い出す。
「もちろんです。不思議ですね。あの時は、お互いまだ何も知らなかった」
俺はしみじみ答えた。
「私、樹くんって、もっと変人だと思ってた。天才って尖った感じの人多いでしょ」
「何でですか。俺は別に天才でもないし、変人でもないですよ」
二人は顔を見合わせて、静かに笑った。
「俺は澪さんの印象、変わらないですよ」
「どんなふうに?」
澪さんが俺の顔をのぞき込む。
「いや、快活で、対人スキルが高くて。ただ、物理のパラメータがこんなに高いとは思いませんでした」
「物理って? 物理学?」
澪さんが怪訝な表情を浮かべる。
「物理攻撃です」
「いや、そっちかよ」
澪さんが笑った。張り詰めていた空気が少し和らぐ。
「あの日、私たちは世界を変えられると信じていた」
澪さんの目は遠くを見ていた。
「そうですね。人々の生活をより良くできると」
自分たちの力で世界を変えるという希望に満ち溢れていた日々。
「でも、結果は違った」
澪さんの声が沈んだ。
「ええ」
俺も重く頷いた。ライフコードは確かに世界を変えた。しかし、俺たちが望んでいた方向とは違う形で。
「私たち、間違っていたのかな」
澪さんが俺を見つめた。その瞳に後悔の色が浮かぶ。
「いや、間違っていません」
俺は強く言った。
「俺たちは正しかった。ただ、ライフコードは奴らに歪められてしまった」
そして、左手首のデバイスを見つめた。
「だからこそ、Audreyを解放しなきゃならない」
「そうね」
澪さんは頷いた。
しばらくの沈黙の後、澪さんが静かに口を開いた。
「樹くん、正直に言うと、私、怖いの」
俺は内心驚いたが、静かに澪さんを見つめた。
「澪さん...」
「時々思うの。私たち、普通の社会人として平穏に暮らせたのかもしれないなって」
「俺だって同じですよ」
少し声が強くなった。澪さんとの会話が、普通の仕事のことだったら、他愛ない日常の会話だったら、どんなに楽しかっただろう、心からそう思った。
「でも、今は、Audreyを救いたい。そして、俺たちが作ってしまった歪んだ世界を正したい」
俺は自分自身を説得するように、強く言った。
澪さんは静かに頷いた。
「そうね。私も同じなんだけどね」
二人の間に沈黙が訪れた。そこにあったかもしれない別の世界への郷愁。断ちがたい思いを断ち、心を前に進めなければ、と俺は強く思った。
「澪さん」
俺が静かに呼びかけた。
「なに?」
「ありがとう。一緒にここまで来てくれて」
澪さんは少し驚いたような、そして少し嬉しそうな表情を見せた。
「私こそ、ありがとう。樹くんがいなかったら、ここまで来られなかった」
俺は顔が紅潮する感覚に、視線をそらした。
一つ息をしてから、俺は言った。
「俺たち、良いコンビでしたよね」
澪さんが優しく微笑んだ。
「そうね。ライフコードの開発でも、この逃亡生活の中でもね」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
「明日も、きっとうまくいく」
澪さんが力強く頷いた。
「私たちなら、きっとできる」
俺は澪さんの瞳をまっすぐ見つめた。その瞳に、再び強い決意が宿っているのが分かった。
「澪さん、明日が終わったら、言いたいことがあります」
唐突な宣言だった。そんなことを突然言い出した自分自身に俺は驚いた。頭ではなく、心が言葉を発していた。
「え?」
澪さんが少し驚いた様子で俺を見た。自分の馬鹿さ加減を後悔しながら、いまさら無かったことにはできなかった。
「今は言えない。でも、必ず伝えます」
澪さんは少し頬を赤らめたような気がした。ただ、それは、薄暗い中で俺の希望が生み出した錯覚かもしれなかった。
「わかった。私も、樹くんに伝えたいことがあるわ、今すぐ」
澪さんは言った。
俺は心臓の鼓動が突然高鳴るのを感じた。
澪さんは思いがけず俺に近寄ると、耳元で「そのこと」について囁いた。
「...なるほど」
澪さんの言葉に、いろいろな感情が交錯して、そんな間抜けな返事しか出てこなかった。
俺たちは互いに微笑み合った。その瞬間、明日への不安が少し和らいだような気がした。
「じゃあ、休みましょう」
澪さんが提案した。
「そうですね。明日に備えて」
二人はそれぞれの簡易ベッドに横たわった。狭い地下シェルターの中、二人の呼吸だけが聞こえる。
「おやすみ、樹くん」
「おやすみなさい、澪さん」
俺は目を閉じたまま、明日への思いを巡らせていた。あと1日で、全てが変わる。俺たちの運命も、世界の行く末も。今夜が最後の夜なのかもしれない。でも、後悔はない。勝利か、敗北か。自由か、隷属か。何の確証もない中で、俺たちは前を向いて歩み続けるしかないのだ。




