第11話:希望の廃墟
ほかに誰もいないオフィスで、俺と澪さんは時に話し合いながら、デスクの整理を続けていた。エターナル・ソサエティの謎、社会からの孤立、そしてライフコードそのものの歪み。これらの問題が巨大な壁のように、俺たちに立ちはだかっていた。
使い慣れた物理キーボード、個人的な写真を表示していた半透明のフォトスタンド、そして数々の思い出が詰まった、3Dプリンタで作った自作のオブジェクト。全てを一つの箱に詰めていく。その一つ一つが、入社からこれまでの日々を象徴しているように懐かしく思えた。
俺たちはその箱を持って健康管理室に立ち寄った。御厨博士が待っていてくれた。
「二人ともすまない。私の力が足りなかった」
御厨博士が落胆した声で言う。
「そんなことありません。今までありがとうございました」
澪さんが静かな声で答えた。
「あと、これを預かっていてくれますか」
俺は御厨博士に私物を詰めた箱を差し出した。
「これからも、できる限りサポートする」
御厨博士は精一杯の優しい表情で言った。
言葉にできない感謝の念が込め、俺たちは深々と頭を下げた。
挨拶を終えた俺たちは、一旦デスクに戻ると静かにオフィスを見回した。ここで過ごした日々が次々と思い出される。喜びも、苦しみも、全てが懐かしい記憶となって胸に響いた。全てをやり終えたはずなのに、立ち去ることができなかった。
「じゃあ、行こうか、樹くん」
澪さんが優しく声をかけ、肩を叩いてくれた。
俺はなんとも言えない寂しさを胸に押し込めて、強く頷いた。
二人はエレベーターに乗り、地上階へと向かった。夜も更けており、ビルはほとんど無人だった。二人の足音だけが静寂を破り、冷たい空気の中に響いていく。
ロビーに着くと、俺たちは足を止めた。入り口の前で、最後にもう一度振り返る。
「ここで、全てが始まったんだな」
俺は静かにつぶやいた。
「ここからまた、新しく始まるのよ」
澪さんが強く言った。
俺たちは顔を見合わせ、小さく頷き合う。そして、首にかけていた社員証を外すとエントランス横のダストシュートに投げ込んだ。音もなく、ガラス製マイクロチップが埋め込まれたカードが、ダストシュートの底に吸い込まれていった。
その瞬間、俺の心に不思議な変化が起こった。これまでの全てを捨て、新たな道を歩み始める決意が、突然固まった。
「さあ、行こう」
俺は静かに、しかし力強く言った。
澪さんが頷く。
「迷わず行けよ、行けば分かるさ」
澪さんがほんの少し笑みを浮かべて言った。何かの格言だろうか。
俺たちは肩を並べて、ビルの外へと歩き出した。夜の街の喧騒が、俺たちを出迎えた。新たな旅路は、こうして幕を開けた。
暗い夜空の下、二つの影が街へと消えていく。前途は不透明だが、互いの存在が大きな希望となっていた。
俺は澪さんの横顔を見た。彼女の目には強い決意の色が宿っている。これから先、どんな困難が待ち受けているかわからない。でも、今はただ前を向いて歩くしかないのだ。
街の喧騒が耳に届いてくる。人々の笑い声、電動車のモーターの音、街ゆく人々のデバイスから聞こえる様々な通知音。かつては当たり前だった日常の音が、今は異質なものに感じられた。
俺たちは無言で歩き続けた。かつての同僚たちは、今頃どうしているだろう。家族は。友人たちは。彼らは、この歪んだシステムの中で、本当に幸せなのだろうか。
「澪さん」
俺は立ち止まって言った。
「最初の一歩として、まずは『拠点』を作らないと」
「そうね」
澪さんも足を止める。
「でも、評価値がマイナスの私たちじゃ、部屋も貸してもらえないわね」
俺は周りを見回した。高層ビルの谷間に、築50年は超えようかという10階建て程度の一つの古いビルが目に入る。
「あそこはどうでしょう?」
澪さんが目を細めて見る。
「廃ビル?」
「ええ。少なくとも、しばらくの間は過ごせそうです」
二人でその廃ビルに向かう。東京の人口は2030年代後半から急激に減少し始め、再開発の速度を空きビルが生まれる速度が上回っている。結果、いまや街中のあちこちに廃ビルが放置されたままになっていた。
ビルの裏口の扉には鍵が掛かっているようだった。俺は15分ほど電子的に色々試したが、最終的には澪さんが蹴破った。
「力こそパワーって、ニーチェの言葉だったかな」
澪さんが明るく笑った。
多分、というか確実に違うと思いつつ、俺は澪さんの明るさと、意外な行動力に感心した。
中は埃だらけで、いたる所にゴミが散らばっている。ただ、雨風はしのげそうだし、建物の状態は思ったほど悪くない。
「ここで『作戦』を立てましょう」
俺は自分を鼓舞するように続けた。
「エターナル・ソサエティの正体を暴き、ライフコードの真実を世に知らしめる方法について」
澪さんは室内を見回しながら頷いた。
「そうね。でも、まずは明日の食べ物と水の確保かな。あと…エアコン的な何か」
確かに暑い。現実的な問題が、次々と眼前に現れてくる。マイナスの評価値で生きていくことの難しさを、身をもって感じ始めていた。
「まあ、何とかなりますよ」
俺は強がって言った。
「俺には、プログラミングの腕がある。澪さんには…」
俺は言葉を止めた。
「何よ」
澪さんは微笑みながら俺の方を見た。その笑顔に、俺は勇気づけられた。俺にはない発想と行動力、そして何より、この状況下でも前向きでいられる精神力。
「…まあ、いろいろ…」
言葉にするのが照れくさくて、俺はごまかした。
「蹴りとかね」
澪さんが軽やかに笑った。
俺たちは、埃っぽい床に腰を下ろした。窓から見える夜空に、かすかに星の光が瞬いたような気がした。
「新しい夜明けが来るまで、ここが家ですね」
俺は静かに言った。
澪さんは黙って頷いた。2049年8月、俺たちの長い夜が、今始まろうとしていた。希望の光は、まだ消えていない。




