第114話:突然の再会
その日、国家イノベーション機構へ向かう途中、黒川の秘書からの一本の電話が全てを変えた。
「橘澪が東京警察病院に緊急入院しました」
その言葉を聞いた瞬間、俺の手が震え、ハンドルを握る力が強くなった。
「状態は?」
「詳細は把握しておりませんが、面会は可能です」
俺はすぐさまEX-300の進路を西へと変えた。動揺を抑えきれずにいた。結月を優先して釈放する判断をした時も、斎藤さんが先に釈放された時も、どこかで「澪なら大丈夫」という過信があった。その思い込みが、今、現実によって痛烈に否定されようとしていた。
中野の警察病院に着くと、すぐさま面会受付へと向かった。しかし、規則は厳格だった。面会が可能になる午後2時までの長い待ち時間を埋めるため、近くの公園のカフェに足を運ぶ。
コーヒーを前に、俺は思考を巡らせた。時系列を考えると、黒川は澪の容態を把握しながら、敢えて斎藤さんの釈放を優先したことになる。その事実に気づいた瞬間、怒りで血が逆流するのを感じた。そして、なぜ今になって澪の入院を伝えてきたのか。その意図は明白だった。面会によって澪の状態を知った俺が、釈放への焦りを募らせ、エターナル・ソサエティにさらなる協力をするよう仕向けているのだ。
考えが途切れると、否応なく澪のことが頭を占める。俺自身の6ヶ月の拘束生活でさえ限界だったのに、澪は9ヶ月も耐え続けている。そんな彼女を「大丈夫だろう」と高を括っていた自分に、強い自己嫌悪を覚えた。考えれば考えるほど、不安は高まる。小菅ではなく警察病院に搬送されているということは、容態が相当に深刻なのではないか。
永遠とも思える待ち時間が過ぎ、午後2時ちょうどに再び面会受付を済ませた。5階にある病室へと向かう足取りは、妙に重かった。ナースステーションで澪の部屋番号を聞き、その方向へ歩き出す。しかし今度は、病室に入ることが怖くなっていた。澪はどんな状態で、どんな表情をしているのだろう。確かめたい気持ちと、その結果への恐れが心の中で葛藤していた。
病室は個室だった。扉に名札はない。拘束中の人間だからなのか。周囲を見回すと、私服の男性と目が合う。一目で警官だと分かった。できるだけ平静を装って病室に入る。
ベッドは上半身を起こした状態で、澪は窓の外を眺めていた。その姿を見た瞬間、胸が締め付けられた。ライフコードの開発を手伝ってくれた同僚を、俺は一体何に巻き込んでしまったのか。何という目に遭わせてしまったのか。
ふと澪が顔を向け、目が合った。言葉に詰まる。
「樹」
驚いたような表情で、澪が小さく手を振った。その声は、記憶の中の澪よりも遥かに弱々しかった。様々な感情が押し寄せ、俺は病室の入り口で立ち尽くしていた。
「樹!」
今度は少し強く呼ぶ声に、手招きが加わった。気持ちの整理がつかないまま、うつむきながらベッドに近づく。
「久しぶり、樹。どうしたの?黙り込んで」
澪の言葉に、俺は思わず目を逸らした。
「すまない」
「何が?」
「澪のことを強い人だから、勝手に大丈夫だと思い込んでた。でも、強いからって、一人で抱え込ませるべきじゃなかった」
その瞬間、澪の表情が曇った。
「強い強い、って言うなよ」
何か言葉を続けようとした澪だったが、それを飲み込んで表情を和らげた。
「座りなよ」
「そうだね」
俺はベッドの横の椅子に腰を下ろした。
「みんな元気?」
「分からない。俺は釈放された。6月に」
「拘束されてたの?他の人たちは? 結月ちゃんは大丈夫?」
「結月は少し前に釈放されて、家に戻ってる」
俺は、ただ聞かれたことにだけ答えていた。あの日、サイファー社に潜入し、澪だけが拘束された日から今日までの出来事。仮想世界での経験。そしてこれからの計画。話すべきことが山積みなのに、SDO内の時間を含めて20年ぶりに見る澪の姿に感情が押しつぶされそうで、考えを整理することさえできない。
「それで、体調はどう?」
俺がようやく絞り出した言葉に、澪は明るく答えた。
「絶好調! 元気そうでしょ?」
顔を上げて見ると、確かに、それほど痩せているようにも、顔色が悪いようにも見えなかった。
「明日、退院なの」
澪の静かな声が響く。
「明日!? どれくらい入院してたの?」
「10日くらいかな。たぶん」
俺は表情が険しくなるのを抑えられなかった。退院前日まで澪の入院を知らせなかった黒川の悪意が、はっきりと見えた。
「樹、顔。変になってるよ」
思いがけず、澪が俺の背中を叩いた。意外なほど力強い手の感触。しかし、その感想を口にするのは控えた。
「また拘置所?」
「そうだね」
その言葉に、俺は思わず立ち上がった。
「逃げよう! ここなら警戒も薄い」
澪は人差し指を口の前に立て、周囲を見回した。
「何言ってんの」
小声で自制を促してくる。
「獄中で、また何かあったら」
俺の声が震える。
「後悔しきれない」
澪は小さく首を振った。
「私は大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ。だって...」
病名を聞こうとして、俺は言葉を飲み込んだ。澪が言い出せないものを、こちらから聞くべきではない。そう直感的に感じた。
「心配しないで。信じて。本当に、本当に、大丈夫だから」
澪の声には、不自然なほどの明るさが感じられた。
その後、面会時間が終わるまで、俺は澪が拘束された後の出来事を話した。澪はそれをよく聞いて、時折鋭い質問を投げかけてきた。その様子は、かつての彼女と何も変わらなかった。気がつけば、俺は拘置所から救急搬送された患者という澪の状況を忘れかけていた。
突然、面会時間終了のアナウンスが響き渡った。
最後に何か言おうとしたが、また言葉が出てこない。澪が拘束されたあの日、俺は「必ず助ける」と約束した。今の状況で、同じ言葉を掛けられるほど、俺は図太くなかった。
「樹、またね」
そんな俺の様子を察したのか、澪が片手を上げて笑った。
「そうだね。また、すぐに。元気で」
俺は頷くと、思いを断ち切るように病室を後にした。
エレベーターで病院の出口に向かいながら、俺は再び混乱の渦に飲み込まれていた。澪に会えたこと、少なくとも見た目は元気そうだったことは救いだった。しかし、何一つ澪を励ますような言葉をかけることができなかった。むしろ、澪のほうが俺を気遣ってくれていた。
仮想世界での20年の経験など、聞いてあきれる、と思った。俺は何も成長していない。
病院の1階に戻った俺は、担当医を確認して電話をかけた。
「橘澪の病状について、教えていただけませんか」
電話の向こうで中年らしき医師は、申し訳なさそうに答えた。
「お答えできません」
「家族でも?」
「橘さんの場合は、お答えできないのです」
病院を後にする時、夕暮れの空が不吉なほど赤く染まっていた。獄中での急な体調不良、医師にも話せない病状、そして澪の不自然な明るさ。全てが不穏な予感となって胸の中で渦を巻いていた。
「くそっ」
俺は思わず呟いた。エターナル・ソサエティと戦うための戦略は整っていた。しかし、最も大切な仲間の一人が今、命の危機に瀕しているかもしれないというのに、何もできない。
必ず、助ける。夕焼けに染まる空に向かって誓う。それまでは、絶対に無事でいてくれ。そう願いながら、俺は車のスタートボタンを押した。




