第113話:釈放
8月下旬のある日、国家イノベーション機構の実験室で新たなバックアップシステムの調整に没頭していた俺の右手首のデバイスが震えた。見慣れない番号からの着信に一瞬躊躇したが、直感的に、なにか重要な連絡かもしれないと思い、応答することにした。
「はい、真島です」
「真島君か。今どこだ?大丈夫なのか。斎藤だ」
その声を聞いた瞬間、俺は思わず息を飲んだ。斎藤蓮、俺とともに戦ってくれた元官僚で、昨年12月に俺とともに治安維持法で拘束されていたのだ。
「斎藤さん! 釈放されたんですね」
「ああ。正直、驚いているよ。君に電話が通じるとは思わなかった。まだ拘束されているものと」
斎藤さんの声には安堵と戸惑いが混ざっていた。一方、俺の胸には複雑な感情が渦巻いていた。澪ではなく斎藤さんが解放されたことへの少しの落胆。そして、そんな自分の感情に対する自己嫌悪。
「今日の夜、会えませんか?色々とお話ししたいことがあります」
俺は切り出した。
「ああ。場所は?」
「秋葉原の俺の家です。後で住所とロックの暗証番号を送ります」
その夜、斎藤さんは俺のマンションを訪れた。拘束時よりも痩せた印象だが、その眼差しはむしろ以前より鋭く、心に強い思いを抱いているように感じられた。
「実は俺、6月に開放されたんです。その後、黒川に呼び出されて、エターナル・ソサエティに加わらないかと誘われて」
俺は切り出した。
「それで、今は黒川のところに?」
斎藤さんの声には警戒が滲んでいた。
「いや、実は紆余曲折ありまして」
俺は釈放されてからの経緯を、慎重に言葉を選びながら説明し始めた。
「仮想世界?」
斎藤さんは、俺の説明に目を見開いた。驚きのあまり、一瞬言葉を失ったようだった。
「つまり、SDOという装置で20年分の経験を積んできた、ということかな」
「はい。そこで得た経験を元に判断しました。黒川と対立するよりも、懐に入るのが最善の策だと」
「なるほど」
斎藤さんは深く頷いた。
「それで、今はエターナル・ソサエティの内部に入り込んでいるということですね」
斎藤さんの声が一段と真剣味を帯びる。
「他のメンバーの状況は?」
「結月が先月解放されました。斎藤さんが二番目です。澪と西村さんは、まだ...」
最後の二人の名前を口にする時、俺の声は少し震えていた。
「私が二番目とは意外だな」
斎藤さんの声に驚きが滲む。俺は表情を必死に平静に保った。
「いや、橘さんや西村さんには申し訳ないが、早く解放されたからには、働かせてもらうよ」
斎藤さんの言葉に、俺は希望を感じた。そして、現状の説明を続けた。
まずはビジェイによる評価値表示アプリへの乱数混入計画について。ビジェイとは連絡を密に取りながら、評価値表示アプリの開発を着々と進めている。遠くない時期にアップデートとして配信され、評価値500以下の人々の行動に大きな影響を与えるはずだ。
次に、平島さんによるドラマシリーズ「闇を照らす」の制作状況。制作費の問題は依然として解決していないものの、平島さんは情熱を持って脚本を書き進めており、制作スタッフも徐々に固まりつつあった。
そして近づく次期総選挙の話。山本議員から聞いた、ライフコード導入以降の政治状況の変化について詳しく説明する。
「この国の民主主義は危機に瀕している、と思います」
斎藤さんは深く、そして長く頷いた。その表情には、官僚として培った分析眼で状況を把握しようとする鋭さが宿っていた。
「分かった。できる限りライフコードが選挙に影響しないよう、私なりに手を尽くしてみましょう」
「ありがとうございます」
「それにしても」
斎藤さんの表情が一転して曇る。
「拘束中の人権状況の酷さを、身をもって体験したよ。早急な改善が必要だ。それから」
斎藤さんが言葉を継ぐ。その声には怒りが滲んでいた。
「なにより、治安維持法だ。やはり、これは危険すぎる。早急に手を打たないといけない」
「確かにその通りです。ただ、そこはまだ手が回っていなくて...」
「じゃあ、そこを私に任せてくれないかな?どこまでやれるか分からないが、考えてみたいんだ。これは私自身の問題でもあるからね」
斎藤さんは真摯な表情で続けた。斎藤さんは内閣官房に出向して秘書官をしていた時、国内治安維持法の制定に関わっていた。
「できれば、黒川の手によらず、私たち自身の力で橘さんと西村さんを解放したいものだ」
その言葉に、俺も強く頷いた。確かにそうだ。俺は漠然と、黒川に釈放してもらう順番を考えていた。しかし、待っているだけでは状況は変わらない。自分たちで動かなければならない。
「ただ...」
俺の言葉に即座に斎藤さんが反応した。
「分かっているよ。今は黒川との関係を悪化させたくない、そこは保証する。目立たないように進めるよ」
窓の外では、夜の秋葉原が輝いていた。その光の中に、これから始まる新たな戦いの予感が漂っているように感じられた。
「斎藤さん、これからの戦い、よろしくお願いします」
「ああ、もちろんだ」
マンションの一室、二人の固い握手が、静かな、しかし強い決意を象徴していた。




