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第112話:黎明の兆し

国家イノベーション機構の研究室で、俺は量子コンピュータのバックアップシステムの開発を行っていた。バックアップと言っても、量子コンピュータの状態をそのまま通常のメモリにバックアップすることはできない。あくまでも、中間的な計算結果を保存するということになる。大地震を想定したバックアップテストの結果は良好で、その精度の高さに満足感を覚えた。


「真島君、ちょっといいかな」


山下教授が声をかけてきた。教授の机の上には量子コンピュータの詳細な設計図が広げられていた。


「もちろんです」


「君の提案した自動バックアップシステム、とても良いアイデアだよ。ただ、一つ気になることがある」


教授は真剣な表情で続けた。


「この機構の量子コンピュータは、免震装置と台座の制震機能で保護されているんだが、それでも震度に換算すると5を超える地震が引き起こす振動で計算結果は保証できなくなる場合がある」


俺は思わず目を見開いた。


「その程度でもダメなんですか?」


「実は、この振動への脆弱性は、量子コンピュータの宿命とも言えるんだ」


教授は図面を指差しながら説明を続けた。


「量子重ね合わせ状態は、外部からのごくわずかな擾乱でも崩壊してしまう。我々は極低温に保つことで熱による擾乱は防いでいるが、機械的な振動は別問題なんだよ」


「なるほど。では、震度5以上の地震が予測された時点でバックアップを開始する設定に変更しましょう」


「問題は、そこなんだ」


山下教授がひとつ、ため息をつく。


「君も知っているように、量子コンピュータの内部状態は、バックアップを行った時点で完全に復元することができなくなる」


「分かります。『ノークローン定理』と呼ばれるものですね」


「その通りだ。したがって、バックアップといっても、気軽には行えない。バックアップが本当に必要な場合にだけバックアップを行う、その見極めが鍵になる。その際に、震度5というのはあくまでも目安で、厳密にはこの場所の振動の加速度で判断する必要がある」


その指摘は本質的なものだった。俺はそれまで、特定の震度が予想される場合にバックアップを発動すればよいと考えていた。問題は、この場所の量子コンピュータが実際にどの程度振動するかを正確に計算することだった。


俺はしばらく考え込んで、一つの考えに至った。


「各地の地震計をここに直結するのはどうでしょうか。同時に過去のこの場所の地震計のデータも提供してもらうんです。この量子コンピュータだけのための緊急地震速報のシステムのようなものを作ります」


「なるほど」


山下教授が頷く。


「地震が起こった段階で、そのデータを元に、この建物の構造や制震台の特質も考慮に入れて、地震の初期微動から数秒間でこの場所の振動の最大加速度をシミュレーションで求めます。その計算結果に応じて、バックアップの発動を決めるんです。専用のハードウェアを使って実装すれば速度的にも可能だと思います」


しばらく上を向いて考え込んでいた山下教授が口を開いた。


「基本的には、うまくいきそうだ。ただ、直下型地震の場合にどうするか…」


確かに、直下型地震の場合には最大加速度を計算している時間はない。


「これは設計思想の問題になりますが、安全側に考えれば、この場所だけで一定以上の振動を検知した場合には、即座にバックアップに入るのが次善の策かと思います。振動の大きさを見極めてからだと、バックアップを開始してもどのみち間に合わなくなりますから」


「君の言うとおりだ。その方針でいくことにしよう」


山下教授が頷いた。



翌日の午後、久しぶりにサイファー社に呼び出された俺は、黒川のオフィスに向かっていた。このタイミングでの呼び出しは仮想世界では経験していなかった。エレベーターで68階まで上がる間、緊張が高まっていく。


「真島君、よく来てくれた」


黒川は立ち上がって迎えてくれた。その表情には、いつも以上の余裕が感じられた。机の上には国家イノベーション機構からの報告書が置かれている。


「国家イノベーション機構での君の働きぶりは聞いている。実に素晴らしい。あのバックアップシステムは絶妙なタイミングでの提案だった」


黒川は俺の方を真っ直ぐに見つめながら続けた。


「国家の意思決定が地震のたびに長期間止まっていては話にならない。安全保障上の問題にもなる。それを解決してくれた君の功績は大きい」


表情を平静に保ちながら、その言葉の意味を反芻する。黒川は意識的か無意識的かは分からないが、「国家の意思決定」という言葉を使った。それは取りも直さず、量子コンピュータ、つまり超知能AIを国家の意思決定の中枢に据えるという決意の表明に思われた。


「そのお礼といってはなんだが、君の仲間を一人解放する手伝いをさせてもらおう」


俺の心臓が高鳴った。


「では、橘澪さんをお願いします」


俺は間髪入れずに言った。


「それは約束できない。それを決めるのは私ではないのでね」


俺は言い返す言葉を持っていなかった。


サイファー社を出た俺は、その足で平河町へと向かった。吉本さんの紹介で、山本一衆議院議員と会う約束を取り付けていたのだ。夕暮れ時の雑踏をかき分けながら、待ち合わせの喫茶店に向かう。


「遅くなってすみません。真島と申します」


その喫茶店で、俺は深々と頭を下げた。


「はじめまして、衆議院東京2区選出の山本一やまもとはじめ、山本一です、よろしく。僕も今来たところだから」


山本議員は優しく微笑んだ。懐かしい顔だった。


「ライフコード以降、この国は確実に変わってしまった」


他愛ない会話の後、山本議員は静かに語り始めた。


「以前なら、街頭演説をすれば必ず数人は足を止めて話を聞いてくれた。今はもう誰も立ち止まらない。評価値が下がるからだ。この国の民主主義が、静かに、しかし確実に蝕まれているんだよ」


山本議員の言葉には深い憂いが滲んでいた。テーブルの上で、その拳が少し震えているのが見て取れた。


「山本さん」


俺は決意を込めて切り出した。


「SNS上で若者と対話できるシステムを作りませんか? AIを使って、議員さんの考えや人柄を自然な形で伝えられるはずです」


山本議員の目が輝いた。


「そんなことができるのかい?もう少し詳しく聞かせてもらえないか」


俺は仮想世界で威力を発揮した『山本のおっさんbot』の構想を説明した。それは、SNS上で山本議員の主張に関連するつぶやきを見つけると、自動的に返信するシステムだ。時には悩んでいる若者を励ましたりもする。山本議員の過去の著作や演説、国会での発言をAIに読み込ませ、それを基に山本議員の人柄や思考を再現するものだった。


「それは面白い。だが、誰がそんな技術を」


「任せてください。俺が作ります」


「ありがとう、真島君!」


山本議員は絵文字のような笑顔で立ち上がると、俺の手を握った。俺は少し申し訳なくなった。このbotは別に技術的に優れているわけではない。それが仮想世界で効果的だったのは、ひとえに山本議員の人柄と主張が魅力的だからだ。


喫茶店を出ると、夕暮れの街が赤く染まっていた。今日は色々なことがあった。山本議員との新たな協力関係も築けた。そして量子コンピュータの予想以上の脆弱性に、俺は新たな攻略の糸口を見出していた。振動に弱いということは、物理的な方法で量子機械学習AIを止められるかもしれない。その時のために、今のうちにしっかりとシステムの詳細を把握しておく必要があるだろう。


そして何より、近々、誰かが解放される。それが澪であることを俺は強く願った。

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