第109話:インドの友人
その日、俺はビジェイと昼食に出かけた。昼下がりの新宿、高級感漂うインド料理店の入り口で、俺の前を颯爽と歩くビジェイが、店のドアマンに左手首のデバイスを見せる。画面に表示された高い評価値を確認したドアマンは、丁重に俺たちを店内へと導いた。
「評価値の偽装、バレないもんですね」
俺は小声で話しかけた。ビジェイはにやりと笑う。
「よく分かるね。偽装って」
スパイスの香り高いカレーが運ばれてくると、ビジェイは優しく言った。
「ここのカレー、あまり辛くないから、大丈夫だよ」
「そうですよね。いいですよね、ここのカレー」
食事をしながら、他愛のない会話が続く。
「ビジェイはインドの出身ですよね」
「インドのビハール州ってところがあって。ブッダガヤの近くの村で育ったんだ。日本に来たのは22歳の時」
「そうなんですね」
俺は何気なく答えるが、ビジェイが怪訝な表情を浮かべた。
「樹って凄いね」
ビジェイが笑った。
「なにがですか?」
「何でも知っているみたいだ」
俺は一瞬、心臓が止まりそうになった。確かに、ビジェイのことは仮想世界で知り尽くしている。ただ、あからさまにそれが分かるのはまずい。
「いえ、それほどでもないですけど」
「いや、凄いよ。例えば、僕の日本語。ほとんどの人はビックリしたり褒めたりするんだけど、樹はそのことについて全然聞いてこない」
ビジェイの日本語が上手いのは俺にとっては当然のことだった。自作のアプリで勉強したことも知っている。ただ、そういう知識を会話もせずに持っているというのは確かにおかしい。さすがにビジェイは鋭い。
「いや、本当に凄いと思いますよ。でも、みんながみんな謎のインド人ってキャラでもおかしいですし」
ビジェイが愉快そうに笑う。
「確かにそうだね」
「あと、樹、敬語はやめようよ。外人には難しいから」
ビジェイがウインクを送る。
「じゃあ、これからはタメ口で」
沈黙が流れた。
難しい。俺は、仮想世界での12の世界線の集大成として今を生きている。しかし、現実世界では俺以外の人間は、当然初めての世界線を生きているのだ。ただ、何も知らない振りをして演技をするのもそれはそれで不自然になってしまう。困った。
「そういえば、樹はプログラミング言語は何を使っている?」
ビジェイが気を利かせたように話題を変えた。
「主にRustを。ビジェイは?」
「僕もRustかな」
俺は思わず眉を上げた。仮想世界ではビジェイは主にTypeScriptXRを使うと答えていたからだ。ビジェイが俺の方を見て、意味ありげに微笑んだ。
「嘘。本当はTypeScriptXRがメイン。最近はUIの仕事が多いからね」
俺は自分の表情が引きつるのを感じた。ビジェイは、間違いなく俺を試している。どこかで本当のことを打ち明けるべきだろう。ビジェイは信頼に値する。少なくとも仮想世界ではずっとそうだった。
俺は本題に入った。
「それで、俺はムジークでは何の仕事をすれば良い?」
ビジェイは表情を引き締めて説明を始めた。
「サイファーから発注が来るのは、主にライフコードのUIまわり、特に評価値の表示部分の仕事。で、いまはそのバリエーション作り。今のライフコードのフェイスはデフォルト1種類だけど、少し自由度を持たせたいらしい。樹にはそれを手伝ってほしい」
「わかった」
俺は意を決して続けた。
「ビジェイ、実は協力してほしいことがあるんだ」
ビジェイが思いがけず目を輝かせる。
「だよね。何?悪いこと?」
「いや、俺にとっては正しいこと…だけど、世間一般からすれば悪いことだね」
「いいじゃん。わくわくするね」
ビジェイが身を乗り出してきた。
「さっき、ビジェイが評価値を偽装してたろ。あれをもっと大規模にやりたい」
俺は周囲を警戒しながら小声で囁いた。ビジェイは笑顔で親指を立てた。
食事を終えて店を出た俺たちは、8月の猛暑の中をムジーク社に向かって並んで歩く。
「ビジェイ、会社に戻ったら詳しく話す。色々言わなくちゃいけないことがあるんだ」
「なんだろう。楽しみだね」
話すなら全てを。それも早い方が良い。ムジークのみんなはそれに値する仲間だ。そう確信していた。




