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第108話:未来への道標

「結月さんの引き渡しですね、分かりました」


その日、黒川の秘書から電話を受けた俺は、すぐにEX-300を呼び出した。俺が結月を直接迎えに行くことになったのだ。仮想世界でのリンとしての結月の「外側」には見慣れていた。しかし、これは現実世界での再会だ。胸の高まりを抑えることができない。


練馬の保護観察施設に到着すると、職員から結月の身柄を引き渡された。結月は相変わらずの短い髪に、やや疲れた表情を浮かべている。しかし、その目は力強く輝いていた。


「兄者、ただいま」


結月が俺に歩み寄る。


「お帰り、ユヅ」


俺は、思わず頭を優しく撫でていた。


結月の顔を見る。強がるような、喜んでいるような、それでいて目は少し潤んでいて、その形容のしようがない表情。それがまた、刻一刻と変わっていく。突然、言いようのない衝動が俺の中にこみ上げてきた。


「...お前、凄く人間だな!」


そう言うやいなや、俺はまるで犬を洗うように結月の頭を両手でグシャグシャかき回していた。


「兄者、やめろよ!なんだよ、オヤジかよ」


結月の顔は怒っていなかった。しかし、「オヤジ」という言葉に俺は自分でも驚くほどの強い衝撃を受けてうなだれた。それは、俺が潜在的に感じていた恐怖だったのかもしれない。SDOを使った仮想世界への旅立ちと帰還、現実世界ではわずか1週間の出来事だ。しかし、精神的にはどうか。20年の経験が、俺の精神年齢を40代にしていても何一つ不思議はなかった。


「冗談だよ兄者。ダメージ入りすぎだろ」


そんな俺の様子を察して、結月がフォローしてくれた。案外気が利く奴だ。しかし、オヤジ化の恐怖は俺の頭の中から消えることはなかった。


俺はEX-300の運転席に乗り込んだ。もうこうなると癖で、自動運転タクシーだからといって後部座席でくつろぐ気にはまったくなれなかった。


そんな俺を見て結月が助手席に乗り込もうとする。俺はジェスチャーで後部座席を指す。これも仮想世界での癖だが、同時に現実世界でも何が起こるか分からないのだから、結月は安全な席に乗せたいと考えていた。


「なんでだよ、兄者。運転手じゃないんだから」


結月が強引に助手席に乗り込んできた。それを説き伏せてまで後部座席に移動させる気にはならなかった。


とりあえず、車を発進させる。


「この後どうする?」


「家に帰るよ。というか、他に行くところはないよ」


結月が即答する。


「それもそうだな...監視も解かれているだろうし」


俺は秋葉原の吉岡家に自分の中の目的地を設定する。ナビは必要なかった。


俺は、吉岡家で気になっていたことをふと思い出す。


「そういえば、ユヅはあの家に一人で住んでるんだよな。その…ご両親は?」


思い切って聞いてみた。俺は「妹分」などというくせに結月のことを知らなすぎる。ただ、状況によっては結月を傷つける質問かもしれない、と危惧していた。


「両親は今はシンガポール。ばあちゃんもそこ。体が悪いから」


その答えに少しほっとする。


「いつから一人暮らし?」


「中学から。いっしょにシンガポールに行こうと言われたんだけど、古いパーツがないんだよ。あそこ」


結月は平然と答える。実に結月らしい返答で、思わず笑ってしまう。


「この前、手紙をくれたよ。でも、会うことはできないみたい。ライフコードがらみでね」


結月の声には諦めが混じっていた。


「心配してくれてたけど」


彼女は窓の外を見つめながら、そう付け加えた。俺は安心した。同時に、こういう状況でも子どもに会うことをためらわせるライフコードを生み出してしまったことに改めて罪悪感を覚えた。


俺は運転しながら、ふと思いついて言った。


「ユヅ、これからどうするの?学校は?高校に行くのはどうだ?」


「今からじゃ入れないよ」


結月が即座に答える。


「いや、入れるはずだよ」


「え?」


「普通に高校生活を送るのも悪くないと思うんだ。部活に入ったり。バスケ部とか」


「なんでバスケ部なんだよ。嫌みかよ」


結月が反論する。確かに、リンのシュート能力はリンならではのものだ。そして高校に入って人間関係を一から学んだ成長も、リンならではだろう。結月が普通の高校に入学することが、彼女にとってベストなのかは俺にも分からなかった。


「ユヅ、疲れている?」


「いや、別に」


「じゃあ、ちょっとだけつきあってくれるか」


俺は思い浮かんだあるアイデアをすぐに実行しようと考えた。


「実は、ユヅに会ってもらいたい人がいるんだ。御厨博士なんだけど」


「ああ、あのおじいちゃんね。Audreyのお父さんか。いいよ」


早速連絡を入れてクオンタム・ダイナミクス社の健康管理室に着くと、御厨博士が温かな笑顔で結月を迎えてくれた。


「吉岡結月さんだね。話には聞いていたよ」


結月は丁寧にお辞儀をした。その時、彼女の目が部屋の隅に置かれた自作PCに留まった。


「あれ、RISC-Vのマイコンボードですよね?」


御厨博士の目が輝いた。


「よく分かったね。君、ハードウェアに興味があるの?」


「ええ、実は5歳ぐらいから自作PCを組んでいて」


結月の声が急に活気づく。


「...とその前に、吉岡さん、そこの台に乗ってくれる?15秒ぐらい。一応、健康診断をしておこう」


「いいですけど、個人情報は暗号化してくれますか?体重とか、スリーサイズとか」


ああ、こいつは相変わらずだ、と頬が緩む。


「もちろんだよ。必要なのは主にバイオメトリクスだね。脈拍、心電図、血糖値などだよ」


御厨博士は特に顔色も変えずにスルーして、健康診断を進めて行く。結果は異常なしだ。


「で、吉岡さんはハードウェアもできるの?」


早速博士が会話を再開する。


「もちろんです。ハードとソフト両方できてこそ真の技術者ですから。でも、最近のPCはパーツが高くて手が出なくて。だから、組み込み系のボードを改造して遊んでました」


「ほう、それは面白い。どんなことをしていたの?」


結月は熱心に自分の経験を語り始めた。センサーを追加してデータを取得したり、LEDマトリクスを制御したり。御厨博士は興味深そうに聞きながら、時折専門的な質問を投げかける。


その会話を聞いていた俺は、結月の技術的な才能の高さを改めて実感していた。確かに、彼女は天才的なハッカーだが、それはソフトウェアだけではなく、ハードウェアへの深い理解があってこそなのだと再認識した。


「樹君」


御厨博士が俺に向き直った。


「これは、高校に行く必要はないかもしれないね。むしろ、大学だ」


結月は驚いた表情を見せた。


「大学?僕が?」


「私の知り合いに、工学部の教授がいてね。特別な才能のある学生の受け入れには柔軟な対応をしてくれる」


御厨博士は結月に優しく微笑みかけた。


「君の才能は特別だよ。それを伸ばす環境を整えてあげたい」


結月の目が輝いた。


俺は黙って二人の会話を聞いていた。この展開は予想外だった。しかし、結月にとってベストの選択肢かもしれない。


「考えておきます」


結月は御厨博士に深々と頭を下げた。



帰り道、俺は結月を「吉岡家」まで送った。


「俺も近くに住んでるから」


吉岡家の前で車を停めながら言う。


「何だよ兄者、秋葉に住んでるの?」


「まあな」


いや、ちょっと前までお前の家に住んでたよ、とは言わなかった。


「何かあったらいつでも呼べよ」


結月はにっこりと笑った。


「ありがとう、兄者」


車から降りる前に、結月が振り返った。


「僕、やってみようと思う。大学に行くの」


その決意に満ちた表情を見て、俺は安心した。拘束されていた彼女が、これから自分の道を歩み始める。こんな目に遭わせた罪滅ぼしを、少しだけできたような気がした。


俺は車を発進させながら、バックミラーに映る結月の姿を見つめた。彼女の未来が、希望に満ちたものであることを願いながら。同時に、まだ救い出せていない仲間たちのことを思い出す。澪、西村さん、斎藤さん。そして、スリープ状態のリン。


まだやるべきことは山積みだ。でも、一歩ずつ確実に前に進んでいる。その確信が、俺の心を強くした。







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