第105話:懐かしい人々
朝、目を開けた瞬間、俺の鼓動が一瞬だけ早くなる。しかし今日も、仮想記憶誘発性解離の症状は現れなかった。手足の感覚は確かにあり、部屋の光も空気もリアルに感じられる。思わずほっと息をつく。それでも、この恐怖との戦いは毎朝続いていた。
秋葉原の近くのマンション、802号室。そこが俺の新しい家だ。新宿の職場からは少し離れているが、仮想世界で20年近くこの街に住んだために愛着が湧いてしまい、他の場所には住む気になれなかった。公共交通機関を使うか自動運転タクシーを呼ぶのがこの世界での当たり前の通勤スタイルだが、俺は今日もEX-300を呼び、自分で運転していた。どうやら、仮想世界の中で「運転」という行為にハマってしまったらしい。仮想世界とは違い、ここでは車を購入する資金はない。拘束されるまでの逃亡生活で、ほとんどの貯金を使い果たしてしまったからだ。
新宿の雑居ビルに到着し、エレベーターで3階まで上がる。「雑居ビル」とは言っても、その外観はごく普通のマンションのようだ。勝手知ったる様子で廊下を進むと、「株式会社ムジーク」の文字が目に留まる。入り口のドアは相変わらず半開きのまま、鍵はかかっていなかった。
「おじゃまします」
声をかけながらドアを開けると、懐かしい男性の声が返ってきた。
「もしかして真島君? 話は聞いてるよ。入って入って」
活力に満ちた声の主を追って、玄関でスリッパに履き替え、奥へと進む。窓際には、元大手動画配信プラットフォームのプロデューサーで、今はムジーク社の社長である平島さんが立っていた。
「やあ、よく来てくれた。驚いただろう? サイファーとは雰囲気が違うだろう?」
平島さんが温かな笑顔で話しかけてきた。仮想世界で20年、この場所で過ごした記憶が、現実と重なって見える。
「そうですね。でも、俺はこの雰囲気、凄く好きです」
俺はそう答えながら部屋を確認する。12畳ほどの空間に、PCに向かって作業する二人の男性の姿が見えた。彼らの姿も、記憶の中のものと少しも変わっていない。
「ああ、名乗り忘れていたね。社長の平島だ」
知っている。差し出された右手を握る。柔らかいが力強い手のひらから、平島さんの人柄が伝わってきた。
「真島樹、プログラマーです。サイファー・アーキテクチャ社からの出向です。よろしくお願いします」
「みんな、ちょっと挨拶を」
平島さんの声に促され、二人の男性が顔を上げた。右側の吉本さんがゆっくりと立ち上がる。吉本さんは総務担当だ。
「吉本です。社長の尻拭いを担当してます」
思わず「いつもお疲れ様です」と返しそうになる。仮想世界での20年間、何度も交わした会話が、喉元まで出かかった。
もう一人は若いインド系の男性、プログラマーのビジェイだ。
「ビジェイ・クマール、ビジェイと呼んでください。私もプログラマーをやってます」
ビジェイは純粋な笑顔で語りかけてきた。その完璧な日本語に、思わず「群馬県出身でしたよね」と返したくなる。そんな言葉を、必死に飲み込んだ。
「ビジェイ、真島君の社員IDカードは?」
平島さんの問いかけに、ビジェイが即座に応じた。
「できています。真島さんどうぞ。まあ、特に使い道はないんですが」
ビジェイは満面の笑顔で社員証を差し出してくれた。確かに、玄関の鍵は開けっ放しなのだから、IDカードの必要性はあまりなさそうだ。
グレーのカードには青字で「Itsuki MASHIMA」と書かれ、ホログラムで俺の写真が貼り付けられている。音符のロゴと共に社名「MUSIK」の文字。このカードは、かつて澪がサイファー・アーキテクチャ社への潜入時に使用するため西村さんが手配してくれたIDカードに瓜二つだった。心臓が高鳴る。
「もしかして、西村さんをご存知ですか?」
俺は平島さんに尋ねる。
「西村って...西村恭平なら昔からの知人だけど」
やはりそうだ。澪の偽造IDカードは西村さんが平島さん経由で作ってもらったものなのだ。
「じゃあ、この人に見覚えはありますか?」
俺は左手首のデバイスから澪の写真を投影する。三人がその写真に見入る。
「あー、彼女、覚えている。あれですよ、IDカードの」
ビジェイが思い出したように言った。
「真島君、彼女の知り合いなの?」
吉本さんが俺に尋ねる。もう隠す必要はない。俺は話を先に進めることにした。
「そうなんです。実は、俺は元はクオンタム・ダイナミクス社にいたんです」
「あー分かる。サイファーじゃないよね」
ビジェイの顔が明るくなる。
「ということは、真島君は西村君が言ってたアレと関係があるの?」
今度は平島さんが俺に尋ねる。「アレ」が何を指すのかは分からないが、否定する意味はなかった。
「そうですね。西村さんとは協力していました」
「分かった。この話は、また今度にしよう」
平島さんが話題を変えてくれた。いずれにせよ、平島さんはある程度の事情を把握した上で受け入れてくれるようだった。仮想世界の中で常に協力してくれたムジークの人々が、現実世界でも味方になってくれることを確信し、俺は心強く思った。




