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第104話:独房の意志

東京拘置所、独居房406号室。橘澪たちばなみおは今日も静かに目を覚ました。微かな光が窓から差し込み、6畳ほどの独房を照らしている。


「また新しい一日か」


薄い布団を丁寧に畳み、自分なりの朝の運動を始める。ストレッチから腹筋、背筋、腕立て伏せ。限られた空間でもできる運動を、澪は一日も欠かさず続けていた。


「そろそろ朝食の時間ね」


時計はないが、生活のリズムが完全に体に染み付いている。食事と入浴以外は独房で過ごす毎日。他の収容者との接点は、わずかな食事の時間だけだった。


「おはよう、澪さん」


食事の時間、隣の席に座った中年の女性が穏やかな声をかけてきた。


「おはよう、田中さん」


田中美和子たなかみわこ、よく食事で隣になる女性だ。40代後半から50代だろうかと澪は推測している。人なつっこさと芯の強さを感じさせる女性だった。


いつもなら、他愛のない会話が始まる。しかし今日は、美和子が一歩踏み込んだ質問を投げかけてきた。


「澪さん、その...何をやってここに来たの?」


その言葉に、澪は一瞬戸惑いを見せた。


「いやね、普通の人は、何となく想像できるのさ。でも、あんたは全く分からないんだわ」


美和子が困ったような笑顔を浮かべる。


「何もしていないんです」


澪は即座に答えた。声には芯が通っていた。


「そういう人が多いわよね」


美和子は苦笑する。澪は強く反論した。


「でも本当に何もしていないの。ただ、ライフコードという評価システムに反対しただけ」


「ライフコード?そういうものが出来たの?」


拘置所に入って3年の美和子は、ライフコードについては殆ど何も知らない。外の世界の変化から完全に隔絶されていた。


「人間の行動の一つ一つに点数をつける。それだけのシステムよ」


澪はできるだけ簡潔に説明した。


美和子は眉をひそめた。


「それじゃあ、ここと同じじゃない?」


「そうですね。でも、こことの違いは、社会全体がこうなってしまうこと」


「よく分からないけど、あんたが正しいと私は思うよ。がんばりな」


美和子は優しく微笑んだ。その笑顔に、澪は心が温かくなるのを感じた。


食事といえば、それと並んで入浴の時間は澪にとって貴重な楽しみの一つだった。楽しみと言っても無言で15分間入浴するだけなのだが。ただ、最近は自分の体の「変化」を観察するのが一つの気晴らしになっていた。筋トレの成果が、確実に表れていることが分かる。


独房に戻った澪は、本を広げる。拘置所で借りることの出来る本には、最近のものはほとんどない。一方で、古い本は意外なほど揃っていた。


「これも、ライフコードの影響かもね」


ただ、本が古いことは社会科学を専攻していた澪には大きな障害にはならなかった。本を開きながら、澪は静かに考える。これまで、仕事に追われて心おきなく読めなかった本を、今は存分に読むことができる。マルクスの「資本論」だってロールズの「正義論」だって、ゆっくり時間を掛けて読むことができる。それは澪にとって、この状況での数少ない救いだった。


夕食後、差し入れのボトルコーヒーが届いた。なぜか、送り主の名前は消されていた。しかし、あの日、クオンタム・ダイナミクス社で飲んでいたものと同じ味。間違いなく樹からだと分かる。


「樹…拘束されていないってことよね」


それは何よりの朗報だった。一方で、複雑な思いも抱える。樹に心配されているのは嬉しい。でも、あまり心配しすぎてほしくない。自分は助けを待つような弱い人間ではない。それは樹も分かってくれているはずだ。


「でも、全然大丈夫だからって放置されるのも、何か釈然としないけど」


思わず独り言が漏れる。すぐに自分の手で頬を両側から軽く叩いた。


「この状況で、何言ってるのよ、私」


澪は本を閉じ、おもむろに腹筋運動を始めた。十分な運動ができない環境だからこそ、体力を維持しなければならない。できれば、もっと強くなりたい。幸い、「資本論」や「正義論」はダンベル代わりにも使えた。


「樹、無理、しない、でね」


資本論と正義論を交互に持ち上げながら、澪はリズムをつけてつぶやく。樹のことを知っているからこそ、彼が無理な行動に出ないか心配だった。樹は合理的な人間だ。しかし、時として何か強い衝動に動かされて突っ走るところがある。


夜が更けていく。独房の窓から、月明かりが静かに差し込んでくる。拘束されて7ヶ月。長いようで短い日々。


「明日も、頑張ろう、私」


独房の静けさの中に立ち、窓の外を眺める彼女の心は確かな希望を抱いていた。それは、樹が差し入れてくれたボトルコーヒーのように、小さいけれど確かな温もりを持つ証だった。


その時だった。澪は強い目眩を感じた。


「あれ、どうして」


考える暇も無く、彼女は意識を失った。


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