第103話:交渉の手札
午後、サイファー・アーキテクチャ社に向かう俺の心は複雑だった。朝に「仮想記憶誘発性解離」に襲われた記憶が生々しく残っている。それでも、御厨博士から受け取った抗不安薬とシジミ日和の錠剤を胸ポケットに忍ばせた安心感が、かすかな支えとなっていた。
エレベーターで68階へと上がりながら、俺は深い呼吸を繰り返す。この一瞬一瞬が、12の世界線で何度も経験した瞬間と重なっていく。扉が開くと、黒川のオフィスまでの長い廊下が威圧的に伸びていた。秘書に案内され、俺は重厚な扉の前で立ち止まる。
ノックをすると、中から低い声が響いた。
「どうぞ」
ドアを開けると、黒川彰が大きな机の向こうに座っていた。
「待っていたよ、真島君」
黒川は立ち上がり、俺に向かって歩み寄ると、右手を差し出した。その仕草には、どこか余裕が滲んでいた。
俺は一瞬戸惑ったが、すぐに握手に応じた。仮想世界で何度も学んだ通り、ここで警戒心を見せるのは得策ではない。
「よく来てくれた」
黒川の穏やかな笑顔が迎えた。机の前の来客用の椅子を指し示す黒川の仕草は、まるで古くからの友人を迎えるかのように柔らかい。
「どうぞ、座りたまえ」
俺はゆっくりと腰を下ろした。仮想世界の20年間で、俺は黒川への対応を十分に学んでいた。彼の穏やかな態度に警戒を解いてはいけない。しかし、同時に黒川が俺に対してなぜか寛容な態度をとることについては、どの世界線でも一貫していた。
「真島君、君の答えを聞かせてもらえるかな」
黒川は机に肘をついて前のめりになった。その瞳には、期待の色が浮かんでいた。
「はい」
俺は一呼吸おいて続けた。
「エターナル・ソサエティの計画をお手伝いさせていただきます」
それが、仮想世界での12の世界線での経験から導き出した、俺の最終的な選択だった。黒川のオファーを拒否し、エターナル・ソサエティと真っ向から対立した世界線もあった。しかし、その結果、内部情報から完全に遮断され、超知能AIを含む様々な計画への関与もできなくなるという大きな困難に直面することを、俺は経験していた。黒川に表向き従うことでエターナル・ソサエティの内部に入って作戦を実行する「面従腹背」の戦略が最適解である、というのが俺の出した結論だった。
黒川の表情が満足げに緩む。まるで、最初からそう答えることを知っていたかのような余裕が感じられた。
「良い決断だ。君の才能は、我々にとって大きな力となる」
黒川は立ち上がり、窓際まで歩いた。東京の街並みを見下ろしながら、彼は続けた。
「約束通り、仲間たちの釈放を進めよう。ただし、一人ずつになることは了承してほしい」
「分かりました」
「希望通りに行くかは分からないが、最初に誰を釈放するのがよいか、一応聞かせてくれ」
黒川の質問に俺の迷いはなかった。
「最初に吉岡結月を」
俺は即座に答えた。澪には申し訳ないと思ったが、彼女は強い。最も年少の結月を優先すること以外に、選択肢はなかった。
「吉岡君か。努力してみよう」
俺は表情を変えずに頷いた。
「ところで」
黒川が話題を変えた。
「せっかく天才プログラマーに来てもらったのに申し訳ないのだが、君にはしばらくムジーク社というところで働いてもらいたい。新しいハードウェアの開発に遅れが出ていてね」
俺は思わず表情を明るくした。ムジーク社なら、平島さんやビジェイと再会できる。彼らとの関係は、12の世界線で何度も確かめられていた。信頼できる味方になることを、俺は知っていた。
「分かりました。喜んで」
俺の反応に、黒川は僅かに眉をひそめた。喜びすぎたか。俺は慎重に表情を整え直した。
「その...ムジークという会社で、俺は何をすれば良いでしょうか」
「そうだな」
黒川は少し考え込んだ後、言った。
「君には申し訳ないが、ユーザーインターフェース周りのプログラムでもしていてくれ」
「わかりました」
俺はできるだけ平静を保ちながら頷いた。表面的な仕事を任されたことは、むしろ好都合だった。
「その前に、君を我が社の特任研究員として迎えなければね。今後、ここへの出入りは自由だ」
その後、俺はサイファー社の総務課で社員証などを受け取り、早々に退社した。サイファー社のフロアの様子や社風については、もう十分に理解していた。
俺は、その足で小菅の東京拘置所へと向かった。澪がそこにいるはずだった。俺は、ビジェイを救出するために突入したあの日と同じ道を歩いた。ただし、今回は深夜ではなく夕暮れ時、人間離れした速度で走るのではなく、ゆっくりと歩いて。そして、向かうのは正門ではなく、向かいにある売店だ。
俺はその売店で、ボトルコーヒーを買った。ライフコードの開発中に、何度もクオンタム・ダイナミクス社のストッカーから澪が渡してくれたあのコーヒーと同じものを。
「これを橘澪さんに差し入れたいのですが」
差し入れ窓口で言うと、職員は意外なほどすんなりと受け取ってくれた。澪をこんな目に遭わせておいてまったく罪滅ぼしにはならないが、誰かが自分を気に掛けていてくれるということが支えになると、自分の獄中の経験から学んでいた。
「あと、面会はできますか?」
俺はダメ元で尋ねてみたが、答えは予想通りの拒否だった。俺自身が6ヶ月間、ひとりとして面会者がいなかったのだから、澪も同様の制限下にあるのは明らかだった。
拘置所を後にする時、ふと空を見上げた。夕暮れ時の空が、妙に鮮やかに感じられた。12の世界線では見られなかった色合いだ。現実世界特有の解像度の高さを、俺は今でも慣れない思いで見つめている。
空を見上げながら、俺は今日の黒川との会話を思い出す。仮想世界での黒川の会話と完全に一致はしていないが、ほとんど主旨にはブレがなかった。仮想世界のシミュレーションが現実世界を再現できていることを、俺は心強く思った。それが、あの世界で積んだ経験がこの世界で生かせる大前提なのだから。
夕暮れの空の下、俺は静かに決意を固めた。必ず、全員を救い出す。そして、この世界を救う。それが、リンとの約束を果たすための第一歩なのだから。




