第102話:揺らぐ境界
前日の夜、遅くまで御厨博士と語り合った俺は、健康管理室のベッドに横になると直ぐに深い眠りに落ちた。しかし、翌朝目が覚めた瞬間、俺は強烈な違和感に襲われた。手足が自分のものではないような、まるで他人の体に入り込んでしまったかのような奇妙な感覚。部屋の光も、空気も、全てが非現実的に感じられ、この世界が虚構なのか、自分の存在が幻なのかも分からなくなった。
「樹君、大丈夫か?」
御厨博士の声が聞こえる。その時、俺の意識が急に歪み始めた。博士の言葉が一瞬永遠のように引き延ばされ、次の瞬間、数分が一気に流れ去ったかのような感覚に襲われる。時間の感覚が完全に狂っていた。
「手が...」
俺は震える声で呟きながら、目の前にある自分の手を見つめた。確かにそこにあるのは俺の手のはずなのに、まるで写真や映像を見ているような不気味な感覚に支配される。
「これを」
御厨博士が小さな錠剤と水を差し出した。
「即効性の抗不安薬だ」
「それと、これも」
続いて、博士は見慣れた琥珀色の錠剤も取り出した。
小さな白い錠剤、続いて琥珀色の錠剤を口に含むと、「あの味」が広がる。その鋭い味覚とともに、これまでの記憶が断片的に浮かんでくる。クオンタム・ダイナミクス社ではじめて御厨博士と会った時、エターナル・ソサエティについて調査をして徹夜になった時、治安維持法で拘束されて獄中にいた時。不思議なことに、強い味覚とともに蘇ったその一つ一つの記憶が、今の俺と現実世界を繋ぎ直してくれているような感覚があった。
「具合はどうだ?」
博士の声が、今度ははっきりと耳に届いてきた。
「少し...落ち着いてきました」
「良かった」
御厨博士は心からの安堵の表情を見せた。
10分ほどすると、まるで氷のように冷たく感じていた自分の指先に、ようやく血が通い始めるのを感じた。
「樹君、申し訳ない。これは私が危惧していた症状ではあるんだ」
博士は慎重に言葉を選びながら説明を始めた。
「仮想世界で20年分の記憶を持って現実世界に戻ってきた君の脳が、現実世界との接続を取り戻そうとしている。しかし、両者の間には僅かではあるが質的な差がある。君の脳は、どちらが現実でどちらが非現実かを判断しようとして混乱しているんだ。いわば『仮想記憶誘発性解離』という症状だ」
時間の経過とともに、周囲の風景に現実感が少しずつ戻ってきた。手足の感覚も、徐々に自分のものとして認識できるようになってきた。冷や汗が引いていくのを感じる。
「これからしばらくは、こういった症状が続くかもしれない。なにしろ、君が人類史上初めての症例だから分かっていないことも多い。これまで、現実世界とほとんど同じ長さを仮想世界で過ごした人間などいなかったのだから。ただ、今回のように、抗不安薬とシジミ日和の併用で、当面の症状は抑えられると考えている」
「抗不安薬は分かります。でも、シジミ日和はどんな効果があるんですか?」
俺は思わず聞き返した。
「記憶は感覚や感情と強く結びついているんだ。強い感覚を追体験することで、付随する記憶が呼び起こされることがある。シジミ日和は、君にとって『強い感覚』として作用するはずだ。そして、鮮明に現実世界の記憶が呼び起こされることで、脳にこの世界こそが現実であると教えるんだ」
博士の説明は不思議と腑に落ちた。そして、ある思いが頭をもたげる。
「博士はこうなることを見越して、俺に早い時期からシジミ日和を投与していたんですか?」
御厨博士は優しく笑いながら答えた。
「実はそうなんだ」
「と言いたいところだが、実際には偶然だね。若い者にシジミ日和をわたすって行為、おじさんぽくていいじゃないか。ちょっとやってみたかったんだよ、こういうの」
やはり、御厨博士は底知れない人物である。
「樹君、今日の午後からの黒川との面談、大丈夫かな。難しければ延期を申し出ても良いと思うが」
博士が真剣な面持ちで問いかける。
「多分、大丈夫だと思います」
正直、恐怖はある。「仮想記憶誘発性解離」は強い恐怖を伴う。またあの症状に襲われたら、という不安は簡単には消えない。ただ、今は、どうしても黒川に会う必要がある。
「気休めだが、症状が出たら、2種類の錠剤で必ず抑えられる。これも気休めだが、この障害で死ぬことはないと保証するよ。気休めで申し訳ないが」
博士が申し訳なさそうに言う。それでもその言葉が、確かな支えになった。
「ありがとうございます。何とかなると思います」
俺は正直な気持ちを込めて答えた。何とかなる、何とかするしかない。そのために現実世界に戻ってきたのだから。そう、全ては、この世界を救うために。




