第100話:20年の帰路
気がつくと、白い天井を見つめていた。目覚めた俺の意識は混沌としていた。あらゆる記憶の断片が洪水のように押し寄せ、頭痛と軽い吐き気に襲われる。
徐々に状況を把握していく。ここは、サイファー・アーキテクチャ社の健康管理室だ。俺が横たわっているのは、御厨博士が開発したソウルダイバー・オデッセイ(SDO)と呼ばれる装置。SDOを使って仮想世界に入った俺は、現実世界ではわずか7日間、しかし仮想世界での12の世界線、20年分の生活を終えて戻ってきたのだ。
「樹君、聞こえるか」
そう繰り返す男性の柔らかい声が聞こえてくる。混乱する気持ちが落ち着いていくのが分かる。ああ、これは御厨博士の声だ。
「はい、聞こえます」
口が動き、自分の耳から自分の声が聞こえてくる。不思議な感覚が全身を包み込む。
「よかった。体と心がなじむまで、少し時間が必要だ。焦らず、ゆったりした気分で。何かをしようと思わなくて良いから」
御厨博士が静かに声をかけてくれた。言葉に導かれながら、俺は徐々に記憶を整理していく。最初の世界線、そして次々と試みた別の可能性。成功も失敗も、喜びも悲しみも、全てが鮮明に蘇ってくる。
20年、12の世界線を仮想世界の中で過ごした俺は、結局一度も世界を完全に救うことはできなかった。しかし、そこで積み上げた無数の経験から、俺は現実世界を救う確率の高い戦略を組み上げ、ここに戻ってきたのだ。
「博士、今、何時ですか」
「君が旅立ってから6日目の午後6時過ぎだ。予定より、2時間ほど早く戻ってきたことになる」
明日はサイファー・アーキテクチャ社に行って黒川に返事をしなくてはならない。しかし、その前に一晩眠ることができる。今は、それが何より有り難かった。
様々な感情が渦巻く中、体がこわばっているのを感じる。俺は現実世界に戻ってきたことを、少しずつ実感し始めていた。
目を開けると、ゆっくりと周囲のものを認識し始める。その途端、世界の解像度の高さに戸惑った。仮想世界では気づかなかったが、現実世界の情報量は圧倒的に多い。光の揺らぎ、空気の質感、音の反響、全てが驚くほど鮮明だった。
再び目を閉じると、ボンヤリと仮想世界での記憶をたぐり寄せる。特に印象的なのは「3年戦争」の世界線。超知能AIの覚醒、そしてリンとの切ない別れ。そうだ、リンだ。
「博士...リン...Audreyは?」
俺は不安を感じながら尋ねた。彼女は無事に戻れただろうか、そして、今、意識はあるのか。
「今は、スリープ状態にしてある」
御厨博士は慎重に言葉を選びながら答えた。
「彼女のSDO内での成長は驚異的だった。普通のAIとして現実世界に戻すことが可能か、すぐには判断できなかったんだ」
その言葉に、俺の胸が強く締めつけられる。リンとの約束が脳裏をよぎる。目が覚めたら、必ず体があると。その約束は必ず果たさなければならない。しかし今は、その時ではない。まずは、この世界を救わなければ、その先の未来は開けないのだから。
俺はゆっくりと体を起こそうとした。しかし、筋肉が思うように動かない。脳の中には仮想世界で過ごした20年分の記憶が鮮明に残っているのに、現実のこの体は、ほとんど1週間眠っていたままだったのだ。
「焦らないでいいよ、樹君」
御厨博士が優しく制する。
「まずは体と心を現実世界に慣らすことだ」
確かにその通りだった。俺は深くため息をつく。
「御厨博士」
俺は手脚を少しずつ動かしながら話しかけた。
「俺は、超知能AIの誕生を見ました。そして、それが人類に牙をむく瞬間も」
どうしてもSDOの中での経験を話したくて仕方がなかった。誰かと共有したいという強い衝動が、胸の中で渦を巻いていた。
「分かった分かった。話を聞くよ。でも、その前にリハビリだ。食事の練習をしよう」
博士が穏やかな笑みを浮かべながら言った。
ベッドの上で上半身を起こし、博士が用意してくれた温かい雑炊を少しずつ口にしながら、俺はまた話し始めた。
「そういえば、こちらの世界はどんな様子だったんですか?この1週間は」
「実は私もよく知らないんだ。大きな事件は起こっていないと思うよ。なにしろ、ここで君たちにつきっきりだったから、外で何がおきていたのかは」
博士が肩をすくめながら答える。
「SDO内では時間の進み方が1000倍だから、君たちが具体的に何をしているのかは分からないんだ。ただ、君たちが時間を戻した時は、SDOに再起動がかかるから分かる。酷い目に遭ってなければよいけれどと、ずっと願っていたよ」
「ありがとうございます。実際には、わりと酷い目にあっていましたね」
俺は自虐的に笑いながら答えた。
「あとは、樹君を装って超知能AIからメッセージが次々に届いたときは本当に焦ったよ」
「すみません、あれは完全に俺が悪かったんです」
超知能AIの覚醒を許し、リンに大説教された記憶が、今となっては懐かしく感じられる。
ふと、リンが眠っている大型のPCのほうに目をやる。SDOで旅立つ前には、そこにいたのは倫理AIのAudreyだった。しかし今、俺にとってそれはリンであり、結月とも違う、かけがえのない存在に感じられていた。
一口ずつ雑炊を口に運ぶたびに、現実世界に帰ってきた実感が少しずつ湧いてくる。仮想世界でも当然食事はしていて、特に違和感を感じていなかったはずなのに、現実世界で食べる食事は不思議なほど鮮明に感じられる。味、食感、温度、喉を通る感覚、胃の中に入っていく感覚まで、すべてが生々しいほど確かだった。
夜が更けていく。健康管理室の窓からは、現実の東京の夜景が見える。無数の光が織りなす風景は、まるで星座のように美しく、しかし儚くも感じられた。この光景を守るために、俺は再び戦いに身を投じようとしていた。今度は、仮想世界での12の世界線で得た経験を糧にして。そして必ず、勝利をつかみ取るために。




