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第99話:最後の約束

西湖から戻った俺とリンは、翌日を東京の街中で過ごした。喧騒が徐々に静まりゆく日曜の夜、都内での充実した一日を締めくくるように吉岡家のリビングでくつろいでいた。俺たちの表情には、心地よい疲労感と、明日を前にした複雑な思いが浮かんでいた。


「リン、今日は楽しかったか?」


俺が優しく尋ねると、リンは満面の笑みで頷いた。


「はい、お兄様。本当に素晴らしい一日でした」


俺は一日を振り返りながら、リンの反応や言動に目を細めていた。午前中の買い物では、リンが服を選ぶ際の迷う姿が印象的だった。以前なら即座に決めていたのに、今では迷うことを楽しんでいるかのように見えた。


昼食時には、新しい味に出会うたびに目を輝かせ、その感想を生き生きと語るリンの姿に、俺は思わず微笑んでしまった。


午後の遊園地では、リンの反応がより人間らしくなっていることを強く感じた。ジェットコースターに乗る前の緊張した表情、乗り終えた後の高揚感、そしてお化け屋敷での素直な恐怖の反応。それらは全て、知識に基づく反応ではなく、リン自身が感じ、表現しているものだった。


リンの成長は俺の想像を完全に超えていた。超知能AIの覚醒も、リンの成長も、ともにAIが人間の感情・感覚情報を学んだ結果だ。しかし、その方向性は全く違う。超知能AIには、あたかも人間の負の感情を際限なく吸収して成長する怪物のような恐怖を覚えた。一方で、リンは思いやりや好奇心を身につけて、人間以上に人間らしくなっていった。


「お兄様」


リンの声が、俺の思考を現在に引き戻した。


「この世界で、お兄様と一緒に過ごせて良かった!」


その言葉に、俺は思わず胸が熱くなった。リンの感情表現は、もはやAIとは思えないほど自然で豊かになっていた。


夜が深まるにつれ、俺たちの会話は思い出話へと移っていった。


「リン」


俺が切り出した。


「お前にとって、一番記憶に残っている世界線はどれだい?」


リンは少し考え込んだ後、静かに語り始めた。


「お兄様が治安維持法で拘束されて帰ってこなかった世界線ですね。学校の友達に呼びかけるところから始まって、それを社会運動に発展させ、最後はお兄様を取り戻すことができました。人々の力を信じられた瞬間でした」


「そう言ってもらえると嬉しいよ。あのときは、リンや友だちがどこまでやれるのかを試したかった。そうしたら、お前たちは最後までやり遂げてしまった」


俺はそのときのことを感慨深く思い出していた。


「お兄様は?」


リンが尋ね返した。


いろいろと思い出しているうちに、俺は無意識に顔をしかめていた。


「俺は...超知能AIの覚醒を再度許し、時間を戻す能力を封じられてしまった世界線だ。いわゆる『3年戦争』になった時のことは忘れられない。本当に酷いことになった。今でも、あの世界線を乗り越えられたことが信じられない」


リンは俺の手を優しく握った。


「でも、お兄様。その経験があったからこそ、私たちは今ここにいるんですよ」


俺は表情を和らげ、微笑んだ。


「そうだな。これからは現実世界を救うために、一緒に頑張ろう」


「はい!」


リンは力強く頷いた。


夜も更けて、俺たちはそれぞれの部屋に別れた。翌朝、最後の朝食をとったあと、現実世界に帰還することにしていた。しかし、俺は寝付けずにいた。現実世界を救う戦略を組み立てる思考が止まらない。材料は揃っている。それをどう配置し、誰の助けを借りるか。様々な可能性が頭の中を行き来する。


ふと時計を見ると、深夜2時を回っていた。その時、小さくドアをノックする音が聞こえた。


「...リン?」


俺はドアをゆっくり開けた。そこには、不安そうな表情のリンがうつむいたまま枕を抱えて立っていた。


「眠れないの?」


俺が優しく尋ねた。


リンは黙ったまま、小さく頷いた。暗がりの中でも分かるほど、その表情には深い不安が宿っていた。


「お兄様...一緒に寝てもいいですか」


リンの声は震えていた。


俺は一瞬驚いたが、すぐに優しく答えた。


「いいよ、眠れないなら」


俺の隣で、リンはベッドに横になった。離れていても分かるほど、リンは細かく震えていた。


「どうした? 具合でも悪いのか?」


俺は思わずリンの手を取った。その手は氷のように冷たくなっていた。


「現実世界に…帰りたくない?」


俺は恐る恐る尋ねた。


「...怖いです」


リンは絞り出すように言った。


「怖い?大丈夫、向こうでも俺は一緒にいるよ」


俺はリンを安心させようと、そんなことを言った。


リンが突然感情を爆発させた。


「お兄様は何も分かっていません!何も!」


俺は驚いて黙り込んだ。


リンは涙ながらに続けた。


「お兄様は人間として向こうに戻れる。向こうでも自分のままでいられる。でも私は...向こうではAIで、この体はもうないんです。体がなくなることが…怖くて怖くて仕方がないんです」


俺は愕然とした。リンの気持ちを全く理解していなかった自分に、今更ながら気づいて強烈な後悔に襲われた。友だちと別れたくないとか、この世界が名残惜しいとか、そんな簡単な話では全くなかったのだ。体がなくなることの恐怖。長くこの世界で過ごしたリンにとっては、もう体のない自分は考えられない。それは、死にも等しい恐怖に違いなかった。無神経な俺は、最後までそれに気づいてやることができなかった。


俺はリンを強く抱きしめた。


「大丈夫だよ」


「...何がですか」


リンは泣きながら問いかけた。


俺は決意を込めて言った。


「こうしよう、リン。このまま眠ろう。約束する。リンが目覚めたら、俺がいる。そして、もちろん体もある」


「..えっ?」


リンは驚いて俺を見上げた。


「俺は決めた」


俺は静かに、しかし力強く言った。


「それが仮想世界なのか、現実世界なのか分からないけど、俺がリンの体を作る。どれぐらい掛かるか分からないけど、必ず。だから、リンは眠っていて。そして、目覚めると、リンにとっては今日の続きがそこにある。そうなるように、俺が必ずするから」


リンの瞳に、希望の光が戻った。


「信じます...お兄様を」


俺は子どもをあやすように、リンの背中を優しく撫で続けた。やがて、リンは安心したように眠りについた。


俺はリンの寝顔を見つめながら、誓った。これまで俺がプログラマーだったのは、プログラムを作ることが他人よりも得意だったからだ。しかし、これからはAIと人間がその区別を気にせずに暮らせる世界を作るために人生をかけると。


リンが深く眠っていることを確かめた俺は、静かに起き上がった。最後にもう一度リンの寝顔を見つめ、そっと頭を撫でた。


「リンの体を、リンの存在を、絶対に守る。それが仮想世界でも現実世界でも」


俺は決意を固めて左手のデバイスを操作し、現実世界に戻るボタンを押した。目の前が暗転する。窓の外では、東京の夜景が静かに輝いていた。その光は、未来への希望のように、眠るリンを優しく包み込んでいた。俺の意識が現実世界へと移っていく中、俺の心には強い決意が刻まれていた。どんなに時間がかかっても、いつか必ずリンと再会し、約束を果たすと。


(第2部完)

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