第98話:嘘
長く通った渋谷の高校に着いたリンは、校門をくぐると真っ直ぐに体育館へと向かった。ただ、その足取りは重かった。まるでそこへの到着を一秒でも遅らせようとしているかのように、一歩一歩、ゆっくりと歩いた。
もう部活は始まっている時間だった。体育館に近づくと、生徒たちの声、シューズのきしむ音、ボールがはねる音が響いていた。リンはそれらの音色に、深い郷愁を覚えた。リンは体育館の正面の入り口ではなく、奥にある側面の入り口へと向かった。ドアは大きく開けられていて、向こうには女子バスケットボール部のコートが見えた。
リンはまるで幽霊のように、静かにそこに立って、既に練習が始まったコートを見つめていた。女バスの部員が動きながらボールをまわしている。その中に、ひときわ背の高い富永ひかりの姿を見つけたリンは、鼓動が早くなるのを感じた。何かを言わなければ、と思ったが、何を言えばいいのか、まったく分からなかった。正確に言えば、A、B、Cと言葉を思い浮かべては、どれも自分の気持ちとはかけ離れていることを感じて打ち消し続けていた。
そうしているうちに、偶然、富永ひかりと目があった。リンは心臓が止まりそうになった。まだ、何も思い浮かばない。何を言えばいいのか分からない。ひかりは動きを止めて、リンのほうに一歩ずつ歩み寄ってくる。ひかりとリンのあいだのわずか10m程の距離が縮まる時間を、リンはまるで永遠のように感じていた。
「今日はどうしたリン? お休み?」
ひかりが笑顔で話しかけてくる。
「…うん」
リンはそう答えるのが精一杯だった。
「そっか。体調悪くなかったら、ちょっと見学していきな?」
ひかりはそう言ってリンに微笑むと、背を向けてコートに戻ろうとした。
「ひかりちゃん!」
リンはこれまでで一番の勇気を振り絞って、ひかりを呼び止めた。その声があまりに大きいので、コートの中の誰もがリンのほうを振り返った。
ひかりはリンのほうに戻ってくると、さらに1歩近づいて、リンの肩に手を置いた。
「どうした?リン?」
リンの顔を見たひかりは、明らかにリンの表情が普段とは違うことに気づいた。朗らかさや純粋さではない、何か強い決意のようなものを感じていた。
「ひかりちゃんだけに言うよ、私、もう学校に来ることができない。今日が、最後」
リンは、文字通り絞り出すように、いつもの柔らかいトーンとは全く違う低い声で、そう言った。
ひかりは、リンの様子から、それがリンの力では変えることができない決定事項なのだと悟った。
「イギリスに..帰る?」
ひかりはリンとの距離を埋めるように、リンのほうに顔を近づけた。
「もっと遠く」
リンはそう言った。どうしても、ひかりに嘘をつくことはできなかった。しかし、真実を明かすこともまた、できなかった。
「分かった」
ひかりはそう言うと、それ以上何も聞かず、リンを抱きしめた。
「連絡、してもいいよね」
リンは黙ってうなずいた。しかし、自分を抱きしめてくれているひかりには見えないだろうと思うと、何とか声を絞り出した。
「うん」
その瞬間だった。目の前がぼやけて体育館の中の風景が見えなくなった。涙が溢れて、頬を伝った。リンは、初めて涙に温度があることを知った。そして、それは、想像していたよりも、ずっと熱いものだった。
俺は運転席から、リンを待ちわびながら校門の方を眺めていた。そのうちに、遂に、リンが戻ってきた。その歩みは行きよりもずっとしっかりしていたが、うつむき加減で、機械的なものだった。俺は急いで運転席を降りると、助手席のドアを開けてリンを待った。
「乗りな」
そう言うと、リンは黙ったまま真っ直ぐに助手席に乗り込んで座った。
運転席に戻ると、俺は静かに車を滑り出させた。リンの横顔、目が真っ赤になっていた。俺は、かける言葉を見つけることができなかった。それからしばらく、沈黙の中で車は進んだ。
車窓から流れる景色が徐々に都会から自然の風景へと変わっていく。自分の内側を見つめていたリンの心も、徐々に外へと向けられていった。山梨県に入るころには、リンは目を輝かせながら、通り過ぎる山々や川、田園風景を指さした。
「お兄様、あれが御正体山なんですね!」
「お兄様、見てください、うぐいすがいます!」
リンの観察は尽きることがなかった。俺は彼女のこの純粋な好奇心を心から愛おしく思った。
数時間の道のりを経て、俺たちは目的地に到着した。そこは、澄んだ湖と緑豊かな森に囲まれた静かな山村だった。空気は甘みを含んだように清らかで、都会では感じられない木々の香りが漂っていた。
「すごい…」
リンは息を呑んだ。目の前に広がる景色に圧倒されたようだった。
「富士五湖の一つ、西湖だよ」
俺は説明した。低く広がる緑の野山の向こうに、ひときわ高く富士山が見える。鏡のような水面には、その雄大な姿が見事に映り込んでいた。
「ここで、キャンプをしようと思って。自然の中で過ごす最高の思い出になるはずだ」
リンの顔が喜びで輝いた。
「キャンプですか!本で読んだことはありますが、実際に体験するのは初めてです。とても楽しみです!」
俺たちは協力してテントを張り、キャンプファイアの準備をした。夕暮れ時、湖面に映る富士山の姿を眺めながら、俺たちは静かに語り合った。炎の揺らめきが、俺たちの顔を優しく照らしていた。
「お兄様」
リンが静かに言った。
「この12回の世界線で、私たちは本当に多くのことを経験しましたね。楽しいこともあれば、辛いこともありました」
俺は穏やかに頷いた。
「そうだな。成功も失敗も、全てが俺たちにとって大切な経験だった。これからの人生の糧になるはずだ」
「私、人間らしくなれましたか?」
リンの問いには、不安と希望が半ばしていた。その瞳には、自分の存在意義を問う深い思索が宿っていた。
俺は優しく微笑んだ。
「リン、お前はもう十分人間らしいよ。いや、むしろ人間以上かもしれない。お前の素直さ、思いやり、そして思慮深さは、俺から見ても素晴らしいと思う」
夜が更けていく中、俺たちは満天の星空を見上げた。無数の星が、まるで俺たちがこの仮想世界で重ねた数え切れない経験のように輝いていた。
「お兄様」
リンが静かに、しかし力強く言った。
「私、この経験を一生大切にします。そして、きっとお兄様と一緒に、現実世界でも全力で頑張ります。私たちなら、きっと世界を変えられるはずです」
俺は黙って頷いた。言葉には出せない感謝と決意が、俺たちの間に流れていた。星空の下で交わされた無言の約束が、俺たちの絆をさらに深めた。
翌朝、朝日に照らされた雄大な富士山を背に、俺たちは帰路についた。この週末は、この世界での長い旅の終わりであり、同時に新たな旅の準備でもあった。俺とリンは、現実世界での戦いに向けて、静かに、しかし強い決意を胸に秘めていた。




