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ヤマダヒフミ自選評論集

探偵とニーチェ

 「超探偵事件簿レインコード」というゲームをやっている。主人公は探偵だ。そこで、ふと「探偵」という存在はなんだろうと疑問に思った。


 私は推理小説はあまり読まない。世評高い「ハサミ男」という作品を読んで、最後のオチに(何だそりゃ)と思って、推理物はもう読みたくないという気持ちになった。今でも気持ちはそれほど変わっていない。


 推理小説とか、ハードボイルド小説といっても色々ある。私は以前、「長いお別れ」というハードボイルドの古典を読んだ。この作品は世界的に評価が高い。


 私は随分以前にこの作品を読んで、たしかに面白かったし、主人公はかっこよかったし、文学性もあると感じたが、それほど深い感銘は受けなかった。…いや、読んだ時には感動したのだが、その感動は私の中に強く残る事はなかった。こう言って良ければ、より高度な文学作品と出会って、相対的に「長いお別れ」の評価が下がっていった。


 ここでは「長いお別れ」批判をしたいわけではない。そうではなく、謎を解く探偵(刑事でも構わない)の立ち位置について考えてみたいだけだ。


 ※

 思えば探偵物を読む時、我々は探偵が急に死ぬなどとは思っていない。探偵が事件に巻き込まれ、危機に会う事はよくある。というか、必ず危機に会う。


 探偵が犯人と誤認され、留置場に入れられるとか、犯人に監禁されるとか、色仕掛けで、綺麗な女に騙されかけるとか、色々な危機がある。しかし、そういうものを追体験する我々は、まさか探偵がそのまま破滅するなどとは思わない。答えは逆で、探偵がいかにしてその危機をくぐり抜けるのか、それを期待して待っている。


 期待して待っていると、実際、探偵は危機を回避したり、突破したりしてくれる。探偵には、信頼できる刑事の仲間がいて助けてくれるとか、探偵は昔、ボクシングをやっていたので、巨漢相手でも殴り合いで勝てるとか、探偵はすり寄ってくる美女の怪しい点を即座に見抜くとか、そんな風にして探偵は危機を突破する。


 探偵物には〇〇シリーズというものがよくある。有名なのは「名探偵コナン」で、「コナン」は毎週テレビでやっている。コナンは二十年以上放映しているようだが、「見た目は子供、頭脳は大人」のコナン君はいつまでも年を取る事がなく、子供のままで居続ける。コナンとその仲間達はまるで永遠のように次々とやってくる殺人事件の謎を解き続ける。


 探偵物の〇〇シリーズの、〇〇の部分は「名探偵コナン」のように、たいていは探偵の名前が入る。「浅見光彦シリーズ」のように、探偵の名前が入る。当然の事だが、シリーズが続く為には、探偵は生き続けなければならない。探偵が死ぬ事は許されない。


 探偵は、やってくる危機を回避し、突破し、謎を解き続ける。だからこそ〇〇シリーズのようなものは可能となる。探偵は一つの「永遠」として作品内に存在している。彼はあたかも、作品内における一人の人間であるように振る舞い、傷ついてみたり、怪我したりするが、それは見せかけだけであり、彼は本当に傷つく事もなく、死ぬ事もない。


 もし探偵が作品の途中で死んでしまったりしたら、視聴者から大量のクレームが来るだろう。実際、探偵物の元祖であるシャーロック・ホームズは、作者コナン・ドイルが作品の途中で死んだ事にしたが、読者からの強い要望によって生き返った。


 探偵はこのように不死を運命づけられている。不死どころか、いつも壮健で、力強い事を求められている。彼が一時的に弱るシーンを見せても、それはかつての強さに戻る為の布石でしかない。探偵が犯人との戦いにおいて怪我を負って、車椅子になるとか、全盲になるとか、そういう事は考えられない。


 「車椅子探偵」や「全盲探偵」というアイデンティティを作る為に、そういうエピソードが最初に入れられる事があっても、作品内において固められた、不死としての探偵のイメージを損なうようなエピソードが作品に入れられる事は決してない。


 探偵はだから、作品内では実際には「メタ」な立場にいると言っていいだろう。彼は、あるいはこう言ってよければ「メタ」な存在と、作品内における一人の相対的な人間としての立場を二重に持っている。彼は、他のキャラクターと同じように傷ついたり、悩んだり、苦しんだりするが、それによって決定的に破滅する事は決して無い。それがいつも担保されている。


 「決定的な破滅」の最たるものはもちろん「死」であり、だから探偵は死ぬ事はない。探偵は死なないからこそ、〇〇シリーズはどこまでも続ける事ができる。探偵は死なない。彼は不死の神のようにしてそこにいる。また、我々エンターテイメントの読者が、こうした作品に求めるのはその不死性なのだろう。


 主人公は様々な危機や苦難に出会うが、へこたれる事はなく、最後には危機を突破する。そこには「もしかしたらこの人は死んでしまうかもしれない」というような、我々の根底を揺さぶる不安はない。我々は探偵が最後には勝つのを知っている。探偵が決して死なず、最後には勝利するのを作品を読む前から知っている。我々はそのような探偵に自分自身を移し入れて読み、作品内の事件の解決にカタルシスを感じる。


 しかし、現実に生きている読者には死がある。まるで、我々は「死」という存在を忘れようとして、探偵物、あるいはそれに類するエンターテイメント作品を読むかのようだ。


 ※

 探偵物に限らないが、我々がエンターテイメント作品を喜んで読む欲望というのは、上述したような「不老不死への願望」があるのだと思う。


 「不老不死への願望」と言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、我々が出会う作品では、主人公がやってくる苦難をくぐり抜け、最後には幸福を得るというストーリーがそのほとんどである。また、特筆すべきは、そうした作品が一回きりで終わるのではなく、「シリーズ物」として持続する事が要求される。


 「名探偵コナン」は、コナンが死ぬ事もなく、年を取る事もなく、絶えず問題を解き続け、更にその作品は延々と続いているという点でエンターテイメント作品としては模範的である。実際には、作者も視聴者も、演じている声優やスタッフも年を取り、いずれは死んでしまう。「名探偵コナン」はまるで、コナンという作品のみが我々の頭上を飛んでいるかのようであり、それは我々の存在を飛び越えて、時間を飛び越えている。考えてみれば不思議な存在だ。


 人が不老不死を欲するのは非常に古くからの欲望であり、「ギルガメシュ叙事詩」に既に現れている。


 結論から言えば、文学とは、決して神にはなれない、つまり不老不死にはなれない人間の姿を神との対比で描いたものであり、エンターテイメント作品とは、人間を神に擬し、その不老不死性に一時的に酔うものだ、と要約できるだろう。


 こう言うと、「いや、文学作品に神の存在が書いてある例は稀だ」と批判を浴びると思う。私は近代の作品でも、神に類するような何かが()という空白の形で描いてあると思う。人間が不老不死ではない、相対的な存在であると認識するにはそれとの対比で、絶対的な存在を想定しなければならない。近代文学の傑作においては、絶対的な存在を想定はしてあるが、その部分は空白にしておいて、その反対の相対的な人間を細かく描いていく。それが近代文学の基本的な構造だと思う。


 ここでこれ以上、文学とエンターテイメントの構造的な話を進めると長大な話になるので、これくらいで切り上げよう。ただ、エンターテイメントというものの本質には人間の不老不死への欲求があるという事が事実としてあると思う。


 私は、エンターテイメント作品における、探偵・主人公の不老不死は、ニーチェ思想と関わりがあるのではないかと思っている。ニーチェがエンターテイメントとの源流だと言えば言い過ぎという事になるので、ニーチェと関わりがあるという程度にとどめておく。


 ※

 ニーチェの思想とは、知っての通り、「神の死」以降をどう生きるかを模索したものだ。私はその思想の妥当性よりも、ニーチェの悲劇的な努力、彼の刻苦勉励による手探りの模索に感銘を受ける。


 ニーチェが超人思想を打ち出したのは有名な話だ。超人とは、神なき世界において、絶対的な存在を目指す事だと規定できるだろう。ただ、彼の超人思想は、彼の理性が健常である時には、客観的な、一般的な思想の形を取っていたが、晩年、彼が狂気に落ち込み、理性を失ってくると、超人という客観的な存在は、「ニーチェ」という具体的な個人と合わさってきてしまう。


 ニーチェ晩年の著作に「この人を見よ」というものがある。「この人」とはニーチェ自身の事で、ニーチェの自画自賛が作品内には溢れている。この自画自賛を読んで、我々は「超人」とはニーチェその人の事を指していたと知る。思想は今や溶解し、半ば狂気に取り憑かれたニーチェは、超人とは自らの事であり、この人物がいかに優れているかを公衆に語る。


 ニーチェは人々に、自らの偉大さを語るが、その彼を「外側」から語る人間は誰もいない。ニーチェは自らの脳内を語るだけであり、その脳は既に病に侵されていた。歴史的事実として見ればその後、ニーチェは精神病者として長い期間を送る。だが、精神病者としてのニーチェを、ニーチェその人は語れない。彼の内面のドラマにおいては、彼は自らを神として称えていたが、現実の彼は精神病者としての十年を送り、そのまま死んでしまったのだった。


 私は別にニーチェに皮肉を言いたいわけではない。「ニーチェはこの程度の奴だった」と言いたいわけではない。ただニーチェの生涯を他人事のように思えないだけだ。我々はみんなこんな風にして死んでいくのではないか。つまり、「自分は凄い」「自分は大丈夫だ」「自分は他人とは違う」などとぶつぶつつぶやきながら、当たり前の一人の人間として大した尊厳もなく死んでいくのである。


 ニーチェは「神の死」の後を生きようとした哲学者だったが、死んだはずの神は舞い戻ってきて、彼の体内で蘇った。神は人間とは違い、絶対的で、死ぬ事はない、超越的な存在だ。しかし殺したはずの超越性はまたブーメランのようにニーチェの手元に戻ってきた。彼は自らの意識の中で、自らの超越性を世界に語らずにはいられなかった。だが、現実の彼は神でもなんでもなかったので、彼は普通の梅毒患者として死に、「この人を見よ」には、彼の天才的妄想だけが刻印された。


 …エンターテイメント作品においては、主人公は死ぬ事はない。あるいは死ぬ事があれば、それはエンターテイメントの心地よさを殺してしまうから、読者はそれを拒否する。我々は不老不死の主人公を望み、彼があらゆる危機や苦難をくぐり抜け、真の幸福を得るのを目撃する。優れたエンタメ作品ではそれが鮮やかに展開される。


 しかしそうした作品は、ニーチェが晩年に見た夢のようなものではないか、と私はふと不安に駆られる。ニーチェが見た幸福な幻想は「この人を見よ」という形で作品になったが、それを描いたニーチェその人を描く悲劇は、ただ歴史的事実として語られるに留まった。


 ニーチェは自らを神であると感じており、ニーチェは脳を病んでおり、それ故にニーチェはニーチェ自身の悲惨を、悲しい宿命を最後まで語り得なかった。それを語るのはニーチェとは違う誰か他の人ーー「他者」だった。だが、ニーチェはこの他者を知り得なかった。


 私はこの時代、エンターテイメント作品に酔っている我々の運命を描く「他者」が、この世界の内部に生まれ得ない、生まれる事を許さない時代の雰囲気というものを危惧している。しかし危惧しようがしまいが、幸福な幻想に蝕まれた我々は自らの不幸を遂に認識しないままに死んでいくのだろう。


 ドラマは、ドラマを欲している我々の全貌を描くべきであり、それを描く事は、ドラマを欲している人間の脳の「内部」だけでは不可能だ。ドラマは誰か「他者」によって描かれるべきものだ。しかし、「他者」を排除し、幸福なエンターテイメントばかり求めている現代の我々を描く「他者」はどこにもこの世界には存在できないだろう。


 そのような我々は、自らを神と擬し、ぶつぶつと独語しつつ、精神病者としての長い生涯を送ったニーチェの晩年のような存在へ近づいていくのではないだろうか。しかも、ニーチェのような孤立無援で戦う天才性を自らの中に蔵する事もなく。私は、病者として孤独に死んでいくニーチェを他人事に思えない。そしてその事は、幸福で楽しく明るい幻想を与えくれるエンターテイメント作品を我々がいつも欲しているという事実と、全く無関係である事柄だとは私には思えない。


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