8.疫病と飢饉と
刈り取られることなく、雑草に埋もれた麦畑がそこかしこにあった。
──種を蒔くまではしたが、手入れができずに放置したか。
初夏の収穫期もとうに過ぎ、麦畑は茶色く枯れている。
「戦友諸君、急ぐぞ!」
カエサルは、ゆるい隊列で進む軍団兵の脇を、馬を走らせながら鼓舞する。
軍団兵の歩く道は、非舗装道だ。足元には石が散らばり、雨が降ればぬかるむ。
軍団兵は、うつむいて地面をながめ、一歩を踏み出し、また次の一歩を踏み出す。彼らのひとりひとりの背に、三十キログラムの重荷が食い込んでいる。
──顔をあげずとも、歩速でわかる。兵の士気は高い。
出発前に、カエサルは百人隊長を通して弟キケロの冬営地が襲われていることを伝えた。軍団兵の全員が、仲間を救うための戦いだと理解している。
「伝令! 伝令です、カエサル!」
建設中の野営地にまで進んだカエサルの元に、南から軽騎兵が駆けてきた。
ラビエヌスからの書状を携えている。
開いて、読む。眉間に皺がよる。
「サビヌスとコッタの部隊が、壊滅しました。逃げてきた兵の証言です」
最悪の、だが、予測はしていた記述から始まっていた。
続いて、周辺のガリア人の動向が不穏であることや、今すぐに冬営地から部隊を動かすのは危険だと判断する、と書かれていた。
──ガリア人の協力は得られないか。
ガリアの地でのローマ軍の作戦行動は、ガリア人の協力なくしては機能しない。
兵粮にかぎらず、野営地の設営準備、篝火など燃料の調達、水汲みにいたるまで、ガリア人に命じて実行していることは多い。
もちろん、ガリア人の協力なしでも、軍団兵が手分けすれば、同じことができる。
けれどもそれは、軍団兵の時間と精力を消費してのことだ。
加えて、ガリア人に命令することには、踏み絵としての計算もある。
「レミ族に命じて兵粮の調達を行ったところ、届いたのは半分以下でした。それも、レミ族の長老たちが口頭で『全部は無理ですが、このくらいなら可能でしょう』と言った内容の、さらに半分です。レミ族の長老の支配力が低下しています」
ガリア全体に、ローマのために働くことを厭う空気が流れている。
──原因はやはり、疫病と飢饉の恐怖か。
去年から、ガリア中で流行り病が増えている。
麦を蒔いても、手入れができず、作柄が悪化した畑がそこかしこにある。
飢えの恐怖が民草に染み渡り、人々の士気を下げている。
長老に命じられても、誰もがちょっとずつ麦を抜く。このくらいはいいだろうと考える。
──気持ちはわかる。だが、許すわけにはいかん。
ラビエヌスには、冬営地に残る決断を許可する。
カエサルの手持ち兵力は、サマロブリウァから連れてきた一個軍団と、ファビウスの一個軍団の、合わせて二個軍団だ。合計で六千。これに近衛騎兵四百とガリア騎兵が六百になる。
全部で七千。
対する敵は、弟キケロからの伝令では三万以上、ということだったが。
──合計で三万なら、戦士は一万以下だな。
ガリアに、まともな補給の概念はない。
各地の豪族が、馬や牛の背に食料や飼葉を積み上げ、子供や女も利用して運ぶ。
一人の戦士のために、二人以上の世話役が必要なのがガリア軍だ。
マリウスの改革以前は、ローマ軍団も似たようなものだった。軍団兵が必要な物資を全部自分で運び、野営から煮炊きからすべてを自分たちだけで行えるようになったことで、ローマ軍団は軽量化された。隊列は短くなり、行軍距離は伸びた。
──戦士が同数なら、我らの勝ちだ。
翌日から、カエサルは前進速度を落とした。
周囲の村落は中立だ。二個軍団七千の動きは、包囲中のガリア軍に伝わっているとみてよい。
エスコー川の西岸を前進すると、果たして、東岸にガリア軍の斥候の姿がみえた。今日か明日には接敵する。
カエサルは、岸に引き上げられ葦で覆って隠されていた小舟を徴発した。
近くにあった小屋を解体して得た木材を、小舟の上にのせる。
過積載で川底をこする小舟を、軍団兵が綱で引っ張る。
朝の早いうちに目星をつけたガリア人の集落を、野営地として建て直す。
昼前には、全軍をその中に入れた。小舟で運んだ木材で櫓をたてる。
櫓の上に登ったカエサルは、ガリア軍の動きを観察する。
──豪族の寄り合い所帯だな。数は数百から、多いもので千。
ガリアに、まともな指揮系統の概念はない。
ガリア軍は、数騎単位の小さな部隊が、親族同士で集まって編成される。
親族の長老が代表として命令するが、どう実行するかは、各自に任される。
曖昧な命令を、雑に実行するのがガリア軍だ。ゲルマン軍やブリタニア軍も、ガリア軍とほぼ同じといっていい。
勢いがある時はいいが、ひとたび崩れると、立て直しができない。
自分たちでもそれがわかっているせいか、ガリア軍の動きは、慎重だった。
少数の騎兵集団が、思い思いに突撃してきて、すぐに引き返す。
──ここに、ウェルキンゲトリクスがいてくれればなぁ。
有能な“三頭”の若者を思い、カエサルは内心で嘆息する。
一年前に、ローマ軍を離れたウェルキンゲトリクスは、今はガリア各地を回って、ローマとケルトの神々の習合のために働いている。
ドルイドとして顔の広いウェルキンゲトリクスならば、ガリア軍を説得し、降伏させることができただろう。
──いや。今日に百人の命を救うことより、明日に一万人の命を救うほうが大事だ。父親役のわたしが息子の仕事を邪魔してはいけない。
翌朝。再びガリア軍が動きだした。若い騎兵が川を渡ってくる。
稚拙だ。そして、自分たちの稚拙さを理解していない雑さがある。
カエサルは、一度、櫓を下りて部下に命令を伝えると、再び櫓に上がった。
そしてガリア軍が調子にのって野営地に近づくのを待った。
──よし。
櫓に一緒に登った喇叭兵の肩を叩く。
朗々とした喇叭の音が響き渡る。
続いて、野営地の四つの門からも、喇叭の音が聞こえた。
四つの門が一斉に開く。騎兵が槍の穂先をそろえて飛び出す。
わっ、とガリア軍が崩れた。
馬首を翻して、逃げ散る。
──あっけない。
カエサルは、対岸のガリア軍本軍に目を向けた。
早々に撤退の動きをみせている。最初から、若い連中を見殺しにして逃げるつもりだったのだ。
不快ではあったが、カエサルは追撃は控えた。今は味方と合流することが優先される。
弟キケロの冬営地には、その日のうちに到着した。
カエサルは出迎えた弟キケロを激賞し、苦しい戦いに耐えた兵士を褒め称えた。
「カエサル、これをみてください」
弟キケロは、カエサルにガリア軍が残した攻城兵器をみせた。
カエサルが唸る。
「ローマの攻城兵器だな。それも、ちゃんと理解して作っている」
「はい。ガリア軍は、この五年間で、ローマの戦い方を学んでいます」
「サビヌスとコッタの部隊が、どうなったかわかるか?」
「大まかに。兵粮を運ぶ途中で、ガリア軍に襲撃されたようです」
カエサルは、サビヌスとコッタに“焦土作戦”の準備を命じていた。
ゲルマン人が、自分たちの土地の周囲を無人地帯にし、備蓄食糧をゼロにしていたことから、思いついた作戦である。
レヌス川(ライン川)からマース川までの村々から余分の小麦を奪い、この地が反ローマとして立っても、食料不足で戦が続けられないようにする狙いがあった。
結果はその逆となった。略奪に反発したガリア人は、アンビオリクスの元に集い、サビヌスとコッタを襲撃して敗死させたのだ。
カエサルの失策である。
「サビヌスがやりすぎたな」
カエサルは、誠実な法螺吹きとして、サビヌスにすべての罪を押し付けることにした。
ここでカエサルが自分の失敗を認めても、よいことは何もない。
自分の失敗を胸のうちに隠し、カエサルは翌年の戦略を練る。