5.カエサルの“三頭”
ルッカに集まった元老院議員は、およそ二百人にもなった。
二百人のほぼ全員が、数人のスタッフを連れている。高位の官職持ちだと、警士もいる。
さらに、荷物持ちの奴隷たちがいる。
合計して千人を超える人々が、ルッカに集まっていた。
宿泊所が未整備の時代である。地元の有力者の屋敷と、貴族の別荘に分宿している。
カエサルは、初老の男と共に屋敷の回廊を歩く。手すりの向こうには牧草地が広がる。
「これはまた、立派な屋敷ですね」
「気に入ったかね」
「はい。周囲の見晴らしがよいです。これなら敵が近づいても不意打ちを受けることはありません。逃げ道も見つけておきましたよ」
「はっはっは。すっかり、将軍目線だな」
初老の男は、品のよい笑いを浮かべた。男の名はマルクス・リキニウス・クラッスス。
若い頃からのカエサルの資金面での支援者だ。同時に、カエサルの下で働くプブリウスの父親でもある。
ローマきっての大富豪で、この屋敷も会談のために買い取ったものだ。
「本当であれば、ここにプブリウス君を連れてきたかったのですが」
「よい。アレは今は現場に出て経験を積む時だ。男は手元で飼っていただけでは、伸びぬ。自由にさせてやらねばな。失敗も、借金も、得難い経験だ。きみも知っているだろう」
「はい。お世話になりました」
「きみは自由にさせすぎたきらいがあるがな」
「ええっ……」
父クラッススは、恐縮するカエサルの姿に、彼が青年だった頃の姿を重ねる。
カエサルは若い頃から自信満々だった。どうかすると危ういレベルで自信過剰なのだが、父クラッススは、若いカエサルが時折浮かべる、ひどく暗い表情を見逃さなかった。
──こいつ。自分の危うさに気づいておるわ。
騎士階級の三男坊で、若くして経済界で辣腕をふるった父クラッススには、人を見る目があった。カエサルが根拠のない自信家ではなく、リスクをおかしながらも前に進もうとする野心家であると見抜いた。
──借金を返せず、路地裏で刺されて死ぬ未来だけはわしが回避してやろう。
野心家だからといって、成功するとは限らない。
それでも、野心をもたない男は、絶対に成功しない。
カエサルは成功した。執政官になり、今は総督としてガリア征服戦争を成し遂げつつある。ローマの中では知らぬ者のいないこの男を、湯水のように金をまいて、ここまで育ててやったのは自分だという自負が父クラッススにはある。
「それで、息子は今はどこかね?」
「ガリア西部。大西洋側をおさえる場所で冬営させています」
「ひとりかね?」
「わたしが信頼する財務官を一緒につけています」
「財務官か。あの剣闘士のように分厚い青年かね?」
「はい。わたしも、次世代を育てて、あなたに受けた恩を返したくなりまして」
カエサルは四十三歳になる。
ガリア戦争が始まってから、自分が若い世代を育てる側に回ったことを、強く自覚するようになった。
「財務官は……マルクス・アントニウス君だったか。見てくれと違い、細やかな気遣いのできる男だとみたが、違うかね」
「さすがですね。あっています。あともうひとり。若いのをつけています」
「誰だ?」
「ドルイドの青年です。逸材ですよ。次の“三頭”はかれらということになるかもしれません」
「それは会ってみたいものだな……お、我らが“三頭”の残りひとりがきたぞ」
牧草地を馬で突っ切るようにして、男が近づいてくる。
“偉大な”のあだ名で呼ばれるポンペイウスだ。
──さて。ガリアにいる“三頭”は仲良くやっているかな。
ガリア西部。リゲル川(ローヌ川)下流域にある第七軍団の冬営地にて。
「それできみは、何もなすことなく、逃げ帰ってきたというのか!」
青年クラッススことプブリウスは、ドルイドの青年を睨んだ。
「人質の安全を第一とする。これはあなたが決めた交渉の優先順位です」
ドルイドの青年ことウェルキンゲトリクスは、平然と返した。
ガリア人のドルイドであり、カエサルからユリウスの家門をもらったウェルキンゲトリクスは、ローマ軍の外交使節を任されている。
ウェルキンゲトリクスが戻ってきたのは、後のブルゴーニュ地方に勢力をはるヴェネティ族の湊からだ。そこでは食料買い出しに行ったローマ兵が捕らえられていた。
「捕らえられた二人の無事は確認しました。こちらに指輪で捺印したものがあります」
「うん。ウェラニウスとシッリウスの指輪だ。間違いない」
木の皮を剥いで作ったガリア製の紙に捺印された跡を、マルクス・アントニウスが確認する。
「解放の条件は?」
「人質交換です。ヴェネティ族の人質を返すように、という」
「そんな不名誉なことを、カエサルが許すはずがない」
「はい。ですから、名誉を保てる範囲で即座に行動すべきです」
ウェルキンゲトリクスは、一礼してその場を去った。そして、その足でヴェネティ族の人質に会い、話をし、今の境遇について聞き取りをして文書にした。最後に人質に自分の指輪で捺印させる。
「これを持って、またヴェネティ族との交渉に向かいます」
「そうか……ありがとう。よろしく頼む」
その頃には、時間が経過していた分、プブリウスの頭も冷えていた。
人質交渉とは、つまるところ時間稼ぎだ。
時間稼ぎには、関わる全員に「やること」を与えて忙しくするのが一番だ。
ウェルキンゲトリクスを送り出した後、プブリウスはマルクスを呼ぶ。
「手伝え、マルクス。ウェルキンゲトリクスに習って、こちらも忙しくするぞ」
「軍団兵には秣を集めさせている。カエサルが来れば、すぐに動けるように」
「上出来だ。ここは任せた。わたしは南に、ヴェネティ族の支配地の外に向かう」
「なにをする気だ」
「船を建造させ、漕手を集める。名目は、ローマ軍の兵粮や人員の輸送だ」
ヴェネティ族と戦う、とは公言しない。
だが、ヴェネティ族の南でやれば、誰もが「そのこと」を頭に浮かべるだろう。
ヴェネティ族は、このあたりでは有力氏族だ。湊や島をおさえて、利益をあげている。
他の氏族は、単独ではヴェネティ族に太刀打ちできない。だが、ローマ軍に協力する名目であればどうだろう。人質問題で揉めているこの機会に、ヴェネティ族を凋落させれば、自分たちがより上に立てることにならないか。
「ローマ軍の人質が取られていることは、すでに一帯に知られている。ヴェネティ族につくか、ローマ側につくか、踏み絵をさせてやるぞ」
ルッカ会談を終えたカエサルが冬営地に戻ってきた時、若手将校たちは、それぞれの仕事に散っていた。
「報告書をお持ちしました」
残っていたのは、筋トレが趣味のマルクスだけだ。
「ウェルキンゲトリクスは、ヴェネティ族からの人質の親族とわたりをつけています。人質交換の交渉が破局に終わっても、お互い、可能な限り相手の人質を傷つけないようにする、という努力目標を結んでいます」
「うむ」
「プブリウスは、南で現地協力者を募っています。順調ですが、土地が広いので連絡用の騎兵が不足しています」
「わかった。可能な限り騎兵を送れ。わたしが連れてきた騎兵は冬営地に残す」
「冬営地には騎兵が四十二騎、替え馬が百四頭います。この四十二騎と同数の替え馬で臨時の騎兵団を編成してプブリウスに送ります。よろしいでしょうか」
「許可する」
マルクスは、テキパキと報告を続けた。現時点で冬営地に蓄えている兵粮と秣の数。リゲル川(ローヌ川)各地で建造させた船の数と漕手の数。
「……なあ、マルクス」
「はい」
「きみがいてくれて助かるよ」
「ありがとうございます」
カエサル、父クラッスス、ポンペイウスが完成された“三頭”であるとすれば。
マルクス、子クラッスス、ウェルキンゲトリクスは今は未完成の“三頭”だ。
現時点で才走っているのは子クラッススで、役立つのはウェルキンゲトリクスだ。
それでもカエサルは、三人の要石はマルクスだと考えていた。正確な情報分析がなければ、どんな戦略も画餅に終わるからだ。
──この子たちが、どんな風に育つか。楽しみだな。
カエサルは若者たちに夢を託す。