3.ベルガエ人の不幸
冬の間、ローマ軍団はウェソンティオ(ブザンソン)に居続けた。
冬営である。
ガリアやゲルマニアでは、メキシコ湾流がくる北部の沿岸部が温かく、アルプスのある南部の内陸部の方が寒い。それでも、雪で閉ざされるほどには寒くはない。冬営をするのは、食えなくなるためだ。
人ではなく、馬が。
「このウェソンティオまでなら、船で兵粮を運べます。ですが、この先は難しい」
ウェルキンゲトリクスはカエサル軍のガリア側の参謀となっていた。
冬営地となったブザンソンには、カエサル軍副将のラビエヌスが残る。
ガリアでの戦争の二年目の作戦について、ふたりは相談する。
「兵粮の輸送に馬が必要です。それも大量に」
「秣が足りないか」
「足りません。事前に連絡を回せるなら、手すきの者に刈らせて積み上げますが……」
ウェルキンゲトリクスは、地面にしゃがみこみ、小石を並べて考える。
「……ダメですね。先に行くほど、しんどくなりますよ」
馬の飼料の問題は、近代になるまで残り続ける。
十八世紀の七年戦争でも、飼料が不足する冬期には戦争が中断する。馬がなければ、大砲と火薬を動かせなくなるからだ。戦列歩兵だけでは、火力が足りない。
「ふーむ……なあ、ウェルキンゲトリスクよ」
「はい」
「その地面に並べた小石には、どういう意味があるんだ? さっきから法則性をみてるんだが、今ひとつ掴めなくてな」
「ああ、これですか。我流のざっくりな計算ですので、ローマ人にはわかりにくいかもしれません」
ウェルキンゲトリクスは、わかりやすいように、縦横の罫線を地面に引いた。
それから小石を並べ直す。
「白い石が、軍団です。右の線が、日数。上の線が、距離。軍団が上の線に行くには、秣が必要です」
下に貯めておいた小石を、ひょい、ひょい、とのけて軍団を斜め上に移動させる。
現代でいえば、旅人算やダイヤグラムと呼ばれるものの原型だ。
「下の小石が、秣の備蓄分か」
「はい」
「秣の備蓄がなくなったら……なるほど。軍団をそのまま横にずらすんだな」
「そうです」
白い石が横にふたつ移動し、それから上に移動する。
「二日かけて周囲の秣を集め、それから移動再開、か」
「はい」
「馬はそれでいいが、人間の兵粮輸送はどうするんだ」
「後から追いかけます」
別の白い石が、下から上へ移動。秣の小石が減る。
「後続の軍団が輸送部隊も兼ねるか。さすがに無防備で前進はさせられんからな」
「これはあくまで概念的なものです。どこに行くかによって、一日の距離は違います」
「そこはカエサルの決定しだいだ」
「カエサルの狙いは、ガリア北部……ベルガエ人でしょうか」
ガリアは三つに分けられる。
北部のベルガエ。
南東部のアキテーヌ。
中央のケルト。
ガリア人は部族ごとに集落を作る。ほとんどのガリア人は集落の中で生まれて死ぬ。
部族間の交流は、森の神に仕えるドルイドの仕事である。
ドルイドには、神に仕えているという、身分保障がある。その上で、付加価値をのせるのが、各自の腕の見せ所だ。
新米のドルイドは、飛脚から始める。部族から部族へ、メッセージを届ける。読み書きができるドルイドなら、メモを取ることでより多くのメッセージを運べる。逆に、読み書きができないのも強みとなる。文書の秘密を保ったまま、届けることができるからだ。
飛脚としての経験を積んだドルイドは、外交使節としての役割も担う。部族間のトラブルを解決するには、状況に応じて相手と交渉できるドルイドが便利だからだ。
部族間を渡り歩いて小遣い稼ぎに成功し、資産を増やしたドルイドには商人としての道も開けている。部族ごとに持っているものと欲しいものは異なる。その差を見抜いて立ち回れば、商人として成功する。
ウェルキンゲトリクスは、資産こそ持っていないが、ドルイドの修行に加え、ユリウス家門をカエサルからもらっている。二重の身分保障があるので、外交使節としての仕事をしている。
「ベルガエ人との交渉は、うまくいきそうか?」
「難しいですね。ベルガエ人はローマを侮っていますし……今になってローマについても、他のガリア諸部族の下風にされてしまうのでは、と疑ってもいます」
「ベルガエ人をアキテーヌ人やケルト人の下にみるとか。カエサルにそんなつもりはないんだがなぁ」
──そりゃそうでしょうよ。
腕を組んで残念がるラビエヌスを、ウェルキンゲトリクスは冷めた目で見た。
カエサルにとって、ガリア人は全員が蛮族だ。ベルガエもアキテーヌもケルトも、皆等しく、文明化されていない連中である。
──それどころか、カエサルには、他のローマ人も自分より劣った存在にしか見えていない気がする。
カエサルの寛容の根拠は、ローマが神々に選ばれていて、自分はさらに特別に選ばれているという自信からきてるのではないか。ウェルキンゲトリクスは、そう疑っている。
──ローマ人の自信過剰にも理由がある。我らケルトの神々は二流の神だ。流行り病を食い止めることもできない。
ウェルキンゲトリクスの中には、鬱屈した思いがある。ドルイドとして、ケルトの神々を信じるがゆえに、無力感が拭えない。
「ウェルキンゲトリクス、おい、ウェルキンゲトリクス」
「……あ、すみません。考え事をしていました」
「そうだろうな。すごい勢いで指だけ動かしてたから、驚いたぞ」
「え……ああ、そう、ですね」
鬱屈したまま、ウェルキンゲトリクスは、機械的に指を動かしていた。
──おや?
先頭の白い石が、思わぬところにまで進んでいた。横軸をみると、あり得ないほどの短期間だ。指を覚えていたまま逆向きに動かし、何があったかを確認する。
──なるほど、ここで間違っていたか。消費した秣の小石が、上の方に集まっていたから、これを消費してさらに進んだわけか……いや、待てよ……
秣を事前に集め、そこまでたどり着ければ、一気に先にすすめる。
秣を集積する場所は、河湊だ。嵩のはる秣を水運で集める。
秣は、人手さえあればすぐに刈り取ることができる。
問題は、どうやって人手を集め、刈り取らせるかだ。
「ラビエヌス。カエサルに文書で連絡が取れますか?」
「できるぞ。何か案が浮かんだようだな」
「はい。事前にひとつ手を打てれば、ほとんど戦わず、移動するだけでベルガエを制圧することができます」
ラビエヌスから文書を受け取ったカエサルの動きは早かった。
護衛と伝令を兼ねる軽騎兵のみを引き連れ、ブザンソンへと駆けつける。
出迎えたのは、ラビエヌスだ。
「お待ちしていました、カエサル」
「ラビエヌス。準備はできてるな?」
「軍団は。ウェルキンゲトリクスの連絡はまだです」
「かまわん。何かトラブルがあっても、進みながら修正していけばいい」
ブザンソンを出たローマ軍は、まずはドゥビス川(ドー川)沿いに西へ。
続いてアラウ川(ソーヌ川)沿いに北へ。
ここまでが中部ガリア、ケルト諸部族の土地だ。カエサルの命に従い、川湊ごとに積み上げられた秣を使って前進する。
「ここまでは順調だな。ウェルキンゲトリクスからの連絡はきたか?」
「はい。レミ族のドルイドが秣を用意してくれるそうです」
「よし、前進だ!」
マトロナ川(マルヌ川)の川湊へ、筏が近づく。秣が満載してある。
筏が桟橋に着く。長柄を持って待ち構えていた男たちが秣に群がり、長柄で引っ掛けて陸揚げする。
ドルイドの杖をもった中年と青年の男がふたり、川岸に立って作業の様子を見守る。
青年の方は、ウェルキンゲトリクスだ。
中年の方は、レミ族のドルイドだ。
「本当にここまで来るんだろうな」
「来ますよ」
「これだけの秣を準備させられたんだ。来てくれないと本当に困るんだが」
「祭祀の準備という名目で集めたんでしょ。大丈夫ですよ」
「長老たちにはバレてるだろうな」
レミ族のドルイドは、不安そうに周囲に目を向ける。
後に、サン・ディジエの街ができる場所だ。今は小さな集落があるだけ。
次々と積み上がる秣を前に、あらためてビビったようだ。
「バレてますか」
「そりゃバレるだろ。祭祀では、こんなに秣を集めないからな」
ドルイドの祭祀では、諸部族の長老たちが方々から集まる。その時に移動手段として使われるのが馬だ。
普通に歩いて旅人が行き来することはない。紀元前一世紀。ガリアの街道は、踏み固めただけの未舗装の道だ。宿場も整備されていない。何泊もできないから、長距離を素早く行き来するには、馬を利用するしかなく、その秣は、祭祀を行う部族が用意する。
「それはよかった」
「よくねぇよ」
「いや、よい話です。つまり、長老たちはローマ軍が来ることを理解し、準備している」
「本当か? おれは何も聞いてないんだが?」
「言ったら、責任問題になりますから。今なら、あなたにすべての責任を押し付ければ、うまくいかなくても、責任を取るのはあなただけでいい」
「よくねぇよ!」
「いや、よい話ですよ。つまり、長老たちはあなたに、それだけの価値があると認めているわけです」
「そうかぁ……?」
レミ族のドルイドは、四十才が間近だ。
特筆するほどの才覚は、ない。けれど、逆恨みをぶつけられる対象になりやすいドルイドでありながら、四十才まで目立たず生きてこられたのは、それだけでも才覚だとウェルキンゲトリクスは考える。レミ族の長老たちも、そこをちゃんと評価しているのだ。
「秣の供給を通して、ローマとレミ族が同盟を結べば、あなたは功労者だ」
「ああうん。わかってる」
「ローマには、寛容の徳があります。悪いことにはなりませんよ」
相手がローマの覇権を受け入れるなら、という言葉を胸の内にのみこむ。
「それなんだがな……」
「なんでしょうか」
「ローマがうちの人質を受け入れる時に、おれもついていって大丈夫かな」
「可能……だとは思いますが……」
人質として選ばれるのは、ほとんどが次世代の若者だ。
なぜ、という顔でウェルキンゲトリクスは、中年のドルイドを見る。
「よかった。昔からな。憧れてたんだ。ギリシア系の詩歌とか楽器とか。ベルガエで主催する祭祀で奉納する楽曲、どこも代わり映えがしなくてな」
中年のドルイドが、夢見る口調でいった。
「では、わたしから、カエサルに口添えしましょう」
「そうか! すまんな!」
中年のドルイドが、底抜けの笑顔になった。
胸を靄つかせ、ウェルキンゲトリクスは立ち上がって杖を振った。
ローマの軽騎兵と、レミ族の騎兵が並んで駆けてきた。先触れだ。
「いやあ、楽しみだ。どんなんだろうな。おれは、複数の同じ楽器で別々のテンポのリズムを鳴らすんじゃないかと思ってる。音に幅が出てきてな。こう、音に唸りのようなものがでてくるんだ」
中年のドルイドが、手をろくろに回して早口でいう。
半分も理解できなかったが、ウェルキンゲトリクスはいかにも興味ありげな顔を作ってうなずいた。
先触れに続いて、将校の一団が近づいてきた。分厚い体格をしている財務官のシルエットには見覚えがあった。筋トレが趣味な上、やたらと数字に細かい男だった。秣の量を確認しにきたのだ。
さらに四日の後。
ベルガエ人の目を集めて賑々しく行軍するローマ軍縦列の少し前方に、カエサルとラビエヌスの姿があった。
「見えてきた。ドゥロコルトルム(ランス)だ」
「すごいですよ、カエサル。ここまで十五日だ。軍勢を率いたまま、ウェソンティオ(ブザンソン)からここまでペースを保ってこられるとは思いませんでした」
「ウェルキンゲトリクスの策が見事に的中したな」
ブザンソンからサン・ディジェまでが二四〇キロメートル。
サン・ディジェからランスまでが一二〇キロメートル。
ローマ軍が一日二十四キロメートルの高いペースで移動できたのは、ウェルキンゲトリクスの手配により、秣の心配が不要だったおかげだ。
人間の歩く速度だけでいえば、一日二十四キロメートルは六時間行軍だ。早朝に先頭が出発し、昼過ぎにはその日の野営地に到着するペースだ。毎日歩いても無理はないが、それは天幕や兵粮などの荷物を、牛馬の背にのせて運べた時に限る。
「レミ族の者たちも、我らローマ軍のために、よくぞ秣を集めてくれました」
「ウェルキンゲトリクスにいわせると、誰のための秣かは、黙ってたみたいだ」
「へえ」
「ドルイドは祭祀のため、秣を集める権限を持っている。祭祀があると、ガリア中の長老たちが馬に乗って移動するからな。ウェルキンゲトリクスはレミ族のドルイドを巻き込んで、秣を集めたのだそうだ」
「さて……あとは、どこでガツン、とローマの偉大さをみせるかだが……」
「連れてきたのは、一個軍団だけですからね」
カエサルは八個軍団を動員している。
ただし、最前線のベルガエまで連れてきているのは第十軍団だけ。三個軍団は、ガリア各地に押さえとして配置し、残る四個軍団は南仏と北伊属州で練成中だ。
いずれ元老院向けの報告書に記載する時には、八個軍団がすべて活躍したと──どの軍団も無駄ではなかったと──手を加えて書く必要があるが、今のところは事実はカエサルだけが把握しておけばよい。
「やはり、技術だな。レミ族の長老たちと相談して、攻城戦を仕掛けてもいい街を見繕ってもらおう」
「では、わたしは工兵たちと打ち合わせして、攻城兵器をすぐに組み立てられるよう手筈を整えておきます」
レミ族との打ち合わせの結果、攻めるのはノビオドゥヌム(ソアソン)に決まった。
不意打ちのように襲来したローマ軍が、またたく間に攻城兵器を組み上げていくのをみて、ソアソンの族長ガルバは震え上がった。
「なんじゃこりゃ……え、こいつら、なんでワシんとこ囲んどるん?」
「やっぱ、あれじゃろ。わしらがローマ嫌いを公言しとったからじゃろ。冬至の祭で集まった時に、ケルトやアキテーヌのヤツらに、わしらベルガエ人が攻めたら、ひ弱なローマ兵なんざ一捻りじゃ、ゆうとったろうが」
「いやいやいや! あんなん、口先だけのことやん! あれだけでカエサルが攻めてくるとか、普通、思わんがな! どうやってここまで来たんや!」
「レミ族がな、秣を提供したらしいで」
「あの裏切り者どもがーっ!」
「いや、むしろありがたいやろ」
「は?」
「ローマ軍な。秣さえこっちが出せば、どこないと行ってくれるんやぞ。こりゃ、ええ機会だと思わんか」
「ええ機会?」
「ネルヴィ族のアホどもな。この機会に、ローマ軍にいわせてやったらええんちゃうか」
「おお、それや!」
ガリア戦争の二年目。カエサルはガリア北部の方々を移動し、人質を受け取った。
最大の戦果となったのは、プブリウス・クラッススが父親のコネを通して大西洋岸のガリア諸部族を味方につけたことだった。
ガリアのヘソにあたるケナブム(オルレアン)を冬営地として定めたカエサルは、報告書でどこまで法螺をふいても大丈夫か考えつつ、南へと向かった。