2.ゲルマン商人アリオウィストス
紀元前一世紀。ゲルマニアの地。
スエビ族のアリオウィストスは、ガリア人の青年を前に、困惑していた。
「外交使節ぅ? 商人じゃないんか。何しにきたんや」
アリオウィストスはゲルマンの有力氏族の長として、交易に携わっている。
アリオウィストスの交易相手は、ガリア人だ。アリオウィストスが運ぶのは馬や毛皮、貴金属の類で、持ち帰るのは地中海から運ばれてきたワインやオリーブ油である。ローマ人は呪いをよくし、穢た存在なので、直接は交易しない。
年に一度、アリオウィストスは集めた交易品を持ってライン河をこえる。行きに一ヶ月、帰りに一ヶ月かかるので、交易の交渉は移動しながら行う。
その年の交渉役は、なかなかやって来なかった。
何度も使者を送り、ようやく交渉役がきたのはライン河を目前にした時である。
外交使節と名乗るガリア人は、カエサルの書状をアリオウィストスに手渡した。
アリオウィストスは、一読して顔を朱にそめた。ゲルマン訛りの強いガリア語で話す。
「なんじゃこりゃ。カエサルは、わしらに喧嘩を売っとるんか。商売すなとか。人質返せとか。ローマの総督がなんでガリアとゲルマンの商売に関わってくんねん」
「まあ。そうなりますよね」
ガリア人の青年は、ため息をついた。
青年は、オーヴェルニュ氏族に属する家の三男だ。次兄が病で倒れた後、読み書きが得意であるという理由で引っ張り出された。食料供出の手配や、軍団野営地の造成などを任せられ、いずれも見事に成し遂げた。そこそこの家柄で、仕事ができ、しかも次兄と違って名誉や慣習を気にせず酷使しても文句がでない。
第十軍団の将校から話を聞いたカエサルが青年に目をつけ、名指しで外交使節になるよう仕事を頼んできたのも、わかろうというものである。
「書状にあるように、ローマ総督はあなたとガリア諸部族との取引をご破産にすることを決めました。ですが、これは結論だけです。前提が飛ばされてるんですよ」
「前提やと?」
「少し前にガリアは、カエサルに恩義を押し売りさせられてまして。恩義の支払いが必要になったんです」
「ヘルヴェティ族の流行り病か」
「はい。流行り病から逃れるため故郷に火を放ってガリアを横断しようとしたヘルヴェティ族を、カエサルが力で止めました」
「病の呪いがこわないんか、あいつら」
「ローマの神は穢に強いですからね」
「それで、なんでわしが巻き込まれとんねん」
「カエサルが取り立てにきたからですよ。ガリア諸部族の誰もが、取り立ててもいい相手を求め、最後にはあなたに悪役を押し付けました」
「ひでぇな」
「ひどいですよ」
書状でカエサルは、ガリア人諸部族がアリオウィストスに支払ってきた年貢という名の分割払いを停止することを宣言し、支払いを確実にするためアリオウィストスが預かっている人質をすぐに解放することを求めてきた。
さらに、この案を受け入れないのであれば、ローマ軍団が懲罰を加えるとあった。
「カエサル、どこまで気づいとんねん」
「全部でしょうね」
「ガリアもクソやが、カエサルはもっとクソやな」
「まったくです」
「お前らガリアのもんは、これでエエんか」
「よくないです。なので、まずはわたしが非公式に相談にのることになりました」
「今年の支払いを延期するんはええ。もう一年くらいは待ったるわい」
アリオウィストスが持ち帰るのは、去年の分の支払いである。ゲルマン社会は通貨が流通していない。現物以外の支払いは受け入れない。そして現物はかさがはるので、取引が成立しても即座には集まらない。かわりに、ガリア人の人質を受け取って持ち帰る。
「だが、人質を返すんは困る。ガリア人は、人質なしだと支払いしてくれんやろ」
「そうですね。口では支払いはすると言っていますが、わたしがみたところ、誰も払わないでしょう」
「だろうと思ったわ、くそったれが!」
アリオウィストスの罵声を聞きつけ、天幕の外から娘がひょっこりと首をのぞかせた。
着ているものは襤褸だが、顔立ちは整っている。ガリア人の少女だ。年齢は十代半ばか。
「旦那さま。怒ってる?」
「おまえには関係ない。いいから食事の支度をしろ」
「うん」
娘は顔を引っ込めた。
交渉役の青年は、声をひそめて聞いた。
「今の娘は、人質ですか?」
「元はな。部族の長だったあいつの父親が急逝し、跡を継いだ親族は支払いを断ってきた。三年待っても支払いがなかったんで、わしの嫁にした」
「なら、使えるかもしれません」
人質と奴隷の境界線は常に曖昧だ。
娘の栄養状態をみるに、アリオウィストスは悪い主人ではない。
「使える? どういうことだ?」
「カエサル総督は書状で、年貢は払わぬ人質も返せと主張していますが、年貢も人質も、実数は把握していません」
「それはそうだろうな」
アリオウィストス本人すら、どちらも知らない。
金銭による取引ではないので、実数は常に浮動している。
「ならば、あの娘に言い含め、人質だったが解放したということにしましょう。後で戻ってくるようにするのです」
「ふむむ……本当の人質は隠しといて、ウソの解放をしてカエサルをごまかすか」
「はい」
青年は、「あ」と気づいた。
「今の娘が身重でしたら、そうもいきません。そこは大丈夫ですか?」
「安心せい。わしは童貞じゃ。嫁はもろうたが、手はだしとらん」
「ご立派なことです」
ゲルマン社会では、男は二十才まで童貞であることが求められる。時には三十才近くまで女体を近づけない。産褥で死ぬ妊婦が多いことから、女体は穢を持っているとゲルマン人は考えている。
ゲルマン社会が穢を厭い、貞節を守るのは、西のガリア社会が疫病におかされて半身不随になっているためだ。居住地の周囲には広い無人地帯を作り、外部の者が入ってこられないようにしてある。
アリオウィストスは髭だらけで年嵩に見えるが、まだ二十二才だ。富貴の身なので嫁は三人いるが、本人は清い身である。ガリアとの商取引を通して、日常的に穢を近づけている自覚があるのだ。女体のように、避けられる穢は避けようと考えている。
「では。ひとまず、ウェソンティオ(ブザンソン)に向かいましょう。あそこに今年の年貢を集めてあります。さすがに全部は無理でしょうが、少しは持ち帰れるよう、わたしがカエサルに交渉します」
「頼む。手ぶらで帰ったら、わしも立場がない」
「わかっております。ガリアとゲルマンとローマ。三者の面子が立つ妥協点を目指しましょう」
青年に案内され、アリオウィストスの隊商はライン河をこえた。渡河点はバーゼル。ここからブザンソンまでは曲がりくねった細い道が続く。
ある日。現地の護衛数人が、ドルイドの飛脚を伴って隊商に合流した。
「なんだって? もうすでに、カエサルがウェソンティオまで来てる? 軍団も一緒?」
「ローマの総督がウェソンティオに来とるんか。兵はナンボおる?」
「一個軍団です。およそ五千人です」
「五千っ……おいおい、カエサルは、そいつらをどうやって食わせとんや」
アリオウィストスの隊商には、スエビ族の護衛が八十四人いる。ここに、通行中の土地に住む若者を臨時雇いすることで増減するが、合計で二百人を超えることはない。日々、食べさせるのが大変だからだ。
「食料は、我らガリアの者が供出させられています」
「そうか……苦労してんだな、お前らも」
「はい。早く帰ってもらいたいので、今はローマの総督と協力しています」
「五千人もおるんやったら、逃げるしかないの。年貢の回収は諦めるわ」
「すみません」
青年は申し訳なく思う。
何か自分にできることはないか、考える。
「アリオウィストス殿は、たしか“ローマの友”の称号を持っておられましたよね」
「おう。通商許可証としてもらったぞ。この指輪な」
“ローマの友”とラテン語で印章された太い指輪をアリオウィストスは出した。
身の証は、技術文明が発達するまで、困難な御業だった。
古代地中海社会における指輪は、身分証として使われる。
「貸してもらっていいですか。こいつでローマ軍に揺さぶりをかけます」
青年は指輪で蝋に印章した書状を作り、川船を使ってドルイドの飛脚に運ばせた。
書状の相手は、ブザンソンにいるガリア商人である。
ブザンソンは、ドゥビス川の屈曲部分にある交易拠点だ。
丸くくり抜かれた平地に、まばらに小屋が建つ。小屋の多くは柱に屋根をかけただけの簡素な作りで、麦袋や陶器壷が置いてある。陶器壷の中身は、ガリア各地から集めた去年の支払い分のワイン、オリーブ油だ。
「財務官殿。こちらです」
巨躯のローマ人将校はガリア人商人に案内されて小屋に入り、並んでいる品々をみる。
「ここにある陶器壷は年貢としてアリオウィストスに引き渡す予定でした。ご確認ください」
「ゲルマン人は、酒は飲まないはずでは?」
「葡萄酒は買いませんが、御神酒は買っていきます」
「?」
「神に捧げるんです」
文明は健康によくない。
これがゲルマン人の思考の基本である。
ワインは地中海文明を象徴する加工品なので、特に健康によくない。アリオウィストスがワインを持ち帰るのは、神に捧げるためだ。
「ここにある壷、全部か?」
「全部。ここには三百と七十と八あります。そっちに割れたのが六つ」
「神に捧げた後はどうなるんだ」
「そいつは、言わぬが花というものです」
神に捧げた後は祓いが終わったものとして、どれだけ飲んでも健康に害はないというのが、ゲルマン人の論理の組み立てだ。
仏教の般若湯と同じく、一分の隙もない、完璧な論理である。
「ところで、旦那。いい体してますねぇ。他の軍団兵より、頭ひとつデカいや」
「鍛えてある」
「何より、体に厚みがあるのがいい。背中も胸も、パンパンだ」
ガリア商人がローマ将校の体を撫で、さする。
将校は、商人のなすがままにさせていたが、やおら商人の首に腕をまわし──
「ぐぇえええ」
──絞めあげた。
「今度は殺すんじゃないぞ、マルクス」
「なら、早く尋問を終わらせろ、プブリウス」
「わたしはっ、なにもしてっ、ぎゃああっ、折れるっ、首が折れるぅっ」
「マルクス、折るなら首じゃなくて、腕にしろ」
「いい考えだ」
マルクス・アントニウスと、プブリウス・クラッススが商人を尋問して得た情報は、すぐにカエサルへと届けられた。
「いやはや。見事な扇動工作だったな」
「笑い事ではありませんよ。暴動寸前だったんですから」
ラビエヌスは、くるくると書状を広げた。木の皮を剥いでなめした紙だ。ガリアのドルイドたちが作って方々に普及させている。
「こっちの書状には、東へ向かう道の困難さが誇張して書いてあります。ゲルマニアに近づくほど、森が深くなって道に迷うと。“ローマの友”の印章付きです」
「これで四枚目か。ゲルマニア人の壮健さ。ガリアでの麦の不作。アリオウィストスはすでにレヌス河東岸に引き返した。どれも、人を不安にさせ、疑心暗鬼を呼ぶものだ」
「アリオウィストスの目的はなんでしょう」
「撤退だ。こっちを混乱させ、追撃の速度を緩めさせ、逃げる時間を稼ぐ」
「この地を制圧したのは、かえってまずかったかもしれませんね。ここに置いてあるのは、本来はアリオウィストスが持ち帰る予定だった年貢ですから」
ブザンソンにアリオウィストスを招き入れてしまえば、袋のネズミにできたはずだとラビエヌスは指摘する。
カエサルはうなずいた。
「反省点として記憶しておこう。だが兵站を確実にするには、ここの兵粮をローマが差し押さえするのが一番だった」
カエサルは地図を広げた。
地図といっても、未確認の領域が多いくらいの、曖昧な地図だ。
「アリオウィストスは、今どこにいる?」
「このあたりでしょうか」
ラビエヌスは、ドゥビス河(ドー河)の上流の分岐部分、後のオダンクールやモンベリアールのあたりを指で示した。川湊を示す絵記号が描いてある。
「そう考える理由は?」
「ガリア商人が持っていた書状は、船で上流から運ばれたからです」
「わたしもそう思う。では、アリオウィストスはどう逃げる?」
来た道を引き返すなら、東へまっすぐだ。
アリオウィストスの戦力は二百人ほど。荷馬も同じくらい。ライン河西岸でローマ軍団に捕捉されてしまう。
「東に逃げてくれれば、ありがたいですね。隠れる場所も、立てこもる場所もない」
「いいなあ、そいつは楽でいい」
「噂を流して時間稼ぎをするくらいだ。アリオウィストスもわかってるでしょう。だから北の山岳地帯を目指すはずです」
「騎兵だけいれば、追いつけるか?」
「追いつけますが、馬がいませんよ」
「ふふん。いるんだなぁ、それが」
ラビエヌスは驚いてカエサルをみた。
カエサルはニヤッ、と笑った。
「川湊に乗馬が九十八頭届いた。こいつで臨時の騎兵団を編成する」
「どこから。それに支払いは?」
「ヘドゥイ族だ。支払いはひとまずはツケで。将来的にはヘドゥイ族にブザンソンの管理を任せようと思う」
北に向かって進むアリオウィストスは、すぐに、追撃してくる騎兵団に気づいた。
今や相談役になっているドルイドの青年と額を突き合わせる。
「ローマのヤツら。どこで馬を調達してきたんや」
「わかりませんが、今は問題はそこではありませんよ。逃げられそうですか?」
「無理やな。わしと護衛で邀撃して時間を稼ぐ。その間に、嫁と交易品を山へ逃がす」
「危険です。交易品は諦めてはどうでしょう」
「ここで交易品を捨てては、わしを信じて荷を預けてくれた諸部族に顔向けができん。最後には捨てることになるかもしれんが、それは一矢なりと報いてからじゃ」
一廉の人物はやはり違う、青年はそう思った。
ここは自分であれば、遁走する場面だ。そうなると、生き残ることができても、再起はできない。
「わかりました。わたしはカエサルのところに戻ります。なんとか時間を引き伸ばしますので、ご武運を」
「おう。頼むわ」
アリオウィストスは、騎兵五十人を含む護衛百人を連れて高地にのぼった。
騎兵団を率いるプブリウス・クラッススは、舌打ちをして向かいの高地へと馬を駆けさせる。
「いいところに陣取られたな」
北に目を向ける。ノロノロと逃げる荷馬や馬車の姿が見える。
交易品目当てに追いかければ、アリオウィストスの騎兵が背後から襲ってくる。
逃げる隊列の中に、女子供の姿を見て、プブリウスは憐れに思う。
「隊長、ありゃガリアから連れ去られた人質じゃないですかね」
「かもしれん。だが、手出しは無用だ。わたしの命令に従えば、ローマに帰った後で父に口をきいてやるぞ」
「わかってますって」
プブリウスの父親は、ローマ一の大富豪だ。
大富豪と個人的な関係を結ぶことができれば、一生を困らない。
略奪による眼の前の小銭にではなく、未来の投資に命を賭けさせることができる。
プブリウスを騎兵団の指揮官に選んだカエサルの目利きは正しかった。
プブリウスは北に逃げる隊商は無視し、丘の上に立てこもるアリオウィストスに攻撃を集中した。
アリオウィストスは、防戦一方となった。しかし、下がれば下がるほどに、戦線は厚く短くなる。プブリウスの騎兵団も、攻めあぐねる。
鐙のない騎兵では、体重をかけて突撃することができない。近づいては遠ざかる。
何度か繰り返すうちに、遠くから喇叭の音が響いた。
「この喇叭はどこからだ?」
「わかりません!」
「……しかたない。いったん、引け」
遠く近く響く喇叭を警戒し、プブリウスは騎兵を引かせた。
ローマの騎兵団が遠ざかるのを確認したところで、アリオウィストスは陣を撤収させた。
思い切りよく武具をその場に打ち捨てさせ、身ひとつになってライン河へと走る。
「しまった。追え」
プブリウスが命じるが、ライン河に近づくにつれ、湿地が増え、足場は悪くなる。騎兵団の動きが止まる。
アリオウィストスはライン河へたどり着き、川船に乗って東岸へと落ち延びた。
消沈したプブリウスがカエサルに事の次第を報告すると、カエサルは笑って許した。
プブリウスが去った後、カエサルはドルイドの青年を呼びつけた。
「やってくれたなぁ」
「なんのことでしょうか」
ドルイドの青年は、しらばっくれた。
「アリオウィストスを逃した喇叭な。鳴らしたのは、お前だろ」
「はい。喇叭による厄除けはしましたが、あくまで祓えとして。戦では、あたりに死穢が満ちます。ドルイドとして放置はできません」
「なるほど。なるほどなるほど」
カエサルは破顔した。
カエサルは青年の肩を抱くようにして、大きく叩く。青年は痛みで顔をしかめる。
「この戦は、ガリア統合のためだ。穢は出るが、最後に祓うことでローマとガリアを一体化できる。おまえはよくわかっている。これからも期待しているぞ」
「そうでしょうか」
青年の方は、不安と疑惑があった。
カエサルのいうローマとガリアの一体化が、青年には一方的なものに思えた。
穢を祓った先に到達するのがローマ化したガリアであることに、カエサルは疑問を抱いていない。カエサルはいつも、子供のように自信満々だ。
「なあ。我が家門をもらってくれないか」
「ユリウスの名を。ガリア人のわたしがですか?」
「ああ。この半年あまりの実績で、おまえの有能さは立派に証明された。わたしは、ローマ市民権でおまえに報いてやりたい」
「それは……ありがたいことですが、一族に関わることですので、次兄の許しを得なければ……」
「もちろんだ。説得に必要だろう。わたしの書状をもっていくがいい」
カエサルは、書状を青年の手に握らせた。速記者が書いた書状に、カエサルの指輪で印章がしてある。
「ありがとうございます、カエサル」
「期待しているぞ、ウェルキンゲトリクス」
爽やかな笑顔で、カエサルはガリア人青年の手を強く握った。