27.賽は投げられた
紀元前五十年が終わる頃にはポンペイウスは半ば昏睡状態となり、ローマの政情は、混乱する一方だった。
残されたポンペイウス派の誰もが右往左往する中、新任の護民官となったマルクス・アントニウスが動いた。選挙活動で作った人脈を利用し、要所に働きかけたのだ。
紀元前四十九年一月六日、夕刻。首都ローマにて。
「反乱を成功させるには、元老院最終勧告が必要ということか」
ポンペイウス派の法務官が、緊張した面持ちで確認する。冬だというのに、額から汗が流れる。
マルクスは無言のまま、うなずいた。
「きみは、カエサルの“三頭”ではないか。そのきみが、カエサルを裏切るというのかね」
マルクスは無言を通す。
幅も厚みもある大男だ。威圧感は黙っている方が大きい。法務官の額に吹き出す汗の量が一段と増える。
「……わかった。ならば、きみの指示通りにしよう。たしかに、元老院最終勧告があれば、きみがカエサルの軍団を指揮することへの、法的な後ろ盾となる」
「わたしは、これよりすぐにローマを出て、北伊属州へと向かう。元老院最終勧告が出たと同時に、わたしは国境に駐屯する第十三軍団と合流する」
マルクスの見立てでは、元老院最終勧告が議題として出されるのは間違いない。だが、通るかどうかについては、五分五分か、少し悪いくらいだと考えていた。
──わたしだったら、まずわたしが第十三軍団と反乱を起こしてカエサルと対立するまで待ち、元老院最終勧告をだす。これが一番、危険が少ない。
危険が少ない行為は、利益も少ない。
派閥は、大きくなるほどに、派閥ではなく個人の利益を大きくしようと画策する者がでてくる。危険は派閥全体でかぶろうというわけだ。
──目の前の男は、臆病で欲深い。こちらの狙い通りに動く。
ローマを出発する前に、マルクスは飛脚を送り出した。
飛脚はマルクスより一日早く、北伊属州の州都ムティナ(モデナ)へ到着した。
「カエサル! マルクスからの飛脚です」
「読んでくれ」
「賽は投げられた」
「よし! 全軍、出撃!」
この時点で、元老院最終勧告が通ったかは、カエサルもマルクスも知らない。
ひょっとしたら議題としてさえ、提出されなかった可能性もあった。
しかし、それらはすべて、些末なことだ。
元老院最終勧告が通っていなかろうが、カエサル陣営の行動は変わらない。
「ポンペイウスの身柄をおさえる。ラビエヌスからの連絡は?」
「三日前の、別荘からの手紙が最後です」
ポンペイウスは一日の三分の二を眠っており、目覚めてもうつらうつらとしているという。ラビエヌスが話しかけた時も、朦朧としていたらしい。
ジリジリと焦燥感に駆られながら、カエサルはローマ軍と共に南下を続ける。
カエサルは軍をふたつに分けた。海岸線沿いを進軍する部隊と、内陸からローマへと向かう部隊だ。いずれも、進軍速度を重視した五個大隊編成で、輜重は最小限、攻城兵器はない。都市が城門を閉ざして抵抗するなら、迂回して進撃する。
脱出して合流したマルクスは、ローマへ向かう部隊を指揮する。
カエサル自身はリミニにとどまり、海岸線を南下する部隊を指揮する。
マルクスが山を抜け、アレッツォまで出たところで、元老院最終勧告が通過したことと、ポンペイウスがすでに南へ逃げたことがわかった。
ポンペイウスからの“親書”なるものも、この時にカエサルに届けられた。
「字が違う。誰が書いたんだ、これは」
「口述筆記だそうです」
“親書”を一瞥したカエサルは、ため息をついた。
「とてもじゃないが、読むに耐えない。偉大なる男なら、口述でも、ちゃんと韻を踏んだ文章になる。こいつは後から添削して口述っぽくしただけのクソだ」
「内容は?」
「読む必要なし。リズムの悪い文章を読むと、頭が腐る」
それでもカエサルは、ブツブツと文句をいいながらも、返書をだすためだけに、“親書”を読んだ。ついでに、本当のポンペイウスの口述だったらこう書くはずだ、という“親書”の本物まで書き上げた。
ポンペイウスもカエサルも、ローマ内乱を防ぐために最大限の努力をしたことをアピールし、証拠を残すためだ。
「返書の写しを作って、元老院に送っておいてくれ」
「ポンペイウスは、どこにいると思われます?」
「港だ。スペイン、ギリシア、エジプト。どこへ向かうにも海路が必要だ」
カエサルはリミニを出発し、アドリア海沿いを南下して港を制圧する。
カエサルがイタリア半島の南の端にある港町ブリンディジに到着したのは、三月十日。
すでに、ポンペイウスはギリシアに逃れていた。
「逃げられましたね」
「ああ……残念だが、ちょっと楽しかったな」
カエサルが「楽しかった」というのは、カエサル側の待ち伏せを、ポンペイウス側が見事に切り抜けたことへの評価だ。
荷車を囮に使ってカエサル軍をおびき寄せ、動けないポンペイウスを輿で担いで漁船に運び入れ、ブリンディジに先行したのだ。ブリンディジには脱出船が待っており、ポンペイウス一行をのせて、すぐさまギリシアへ出港した。
「ポンペイウスは眠ったままだろ。一緒にいるラビエヌスが指揮したとは思えない。となれば、息子か」
「弟の方のセクストゥス・ポンペイウスだそうです」
「セクストゥス? まだ子供じゃなかったか?」
「十八才です」
「なんとまあ。ユリアの結婚の時には……いや、あれからもう十年か。時の流れは早いな。早くて、そして残酷だ」
「父から受け継いだ軍才が開花したのでしょう。これからどうしますか?」
「ローマに戻る。足元を固め、ポンペイウス派を揺さぶって離反者をだす」
ルビコン川を渡ってからというもの、カエサルは見違えるほど元気になった。
敬愛するポンペイウスと対立するのが、カエサルにとって気鬱だったのだ。
「ローマですか。世界一の都と聞きます。見るのが楽しみです」
「きみはローマは初めてだったな。そうだ。落ち着いたら凱旋式もやろう。なんだかんだで、わたしは一度もやってないんだよ」
政情不安もあった。ガリア総督になってからは十年近く、カエサルはローマに足を踏み入れていない。
「いいですね。でも凱旋式のパレードでは敗者が鎖つけられ、晒し者にされるんでしたっけ」
「しないよ。きみはわたしの“三頭”に戻った……いや、ごめん。元老院にだした報告書だと、きみの名前を、ガリア側の指導者にしてた。さすがに、同じ名前じゃダメだな。気をつけないと」
「では、これからは新しい名前の方を使っていきましょう」
「ああ。頼むぞ、テルティウス・ユリウス・シンマクス」
「おまかせください、カエサル」
ウェルキンゲトリクスあらためテルティウス・ユリウス・シンマクスは、深くお辞儀をした。