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26.ルビコン川

 アルプスのこちら側のガリア(ガリア・キサルピナ)とも呼ばれる、北伊属州の州都ムティナ(モデナ)。

 ウェルキンゲトリクスにとっては、最初の訪問となる。


「初めてやったんか。そりゃ驚きやな」

「機会がなかった。そっちは慣れてる様子だな」


 護衛を兼任するゲルマン人のアリオウィストスが、髭をそった顎を撫でる。


「わしは何度もきとる。最初は、まだ子供やった。叔父貴の付き添いでな。病で叔父貴がコロリといって家督を継いでからだと三度目か」

「それにしても……髭をあたるとずいぶんと印象が違ってくるな」

験担げんかつぎや。子供だった時に、大病することなく帰ってこられたけえ。叔父貴の顎はめっちゃゴワゴワでな。叔父貴がコロリと死んだと同時に、髭の中から、ピョンピョン、隠れとった虫が飛び出してきおった」


 子供心に、ひどくトラウマだったという。

 属州長官の屋敷の前で、ウェルキンゲトリクスは頑是がんぜない少年と出会う。少年は、同じ年頃の子供たちを引き連れていた。


「おい! そこのガリア人と……ゲルマン人! 何用か! ここは、前執政官プレコンスルのお屋敷だぞ!」


 門番にしては、子供すぎた。武器は持っているが、構えも動きもぎこちない。


属州総督カエサルに用があってきた。通してくれないかな」

「いいだろう。だが、ひとりだけだ。そっちの青い目のゲルマン人は、外だ」


 おや、とウェルキンゲトリクスは目をみはる。

 子供の悪戯いたずらかと思ったが、緊張感は本物だ。

 アリオウィストスが後ろからガリア語で話しかけてきた。


「庭の木の上に、弓を持ったガキがおる。こいつら本気やぞ」

「そいつは困った」


 力尽ちからずくで突破もできるが、相手は良家の子供のようだ。

 怪我をさせたら騒動になる。

 悩んでいると、屋敷の中から、幅も厚みもある男が出てきた。


「マルクス兄さん」

「トゥリヌス。屋敷の警備はわたしが受け持ちだ。下がっていたまえ」


 少年が引き下がると、マルクス・アントニウスが頭を下げる。


「無礼を働いてすまなかった」

「子供のしたことです」

「そういってくれると助かる」


 表面上は静かにかわされる会話の裏に流れる重い感情に、アリオウィストスが顔をしかめた。

 マルクスに案内されて入った執務室に、カエサルがいた。

 外傷は癒えたようだが、ずいぶんと老けこんでいた。


「久しぶりだな、ウェルキンゲトリクス」

「はい、カエサル。門の前にいた、元気のいい子はどなたですか」

「姪の息子だ。利発な子でね。手元で学ばせている」

「わたしを呼び寄せたのは、あの子の家庭教師をさせる気じゃないでしょうね」

「ふふ」


 カエサルが笑った。いつもの笑顔だが、声に力がない。


「マルクス。ウェルキンゲトリクスに、ローマの政情を説明してくれ」

「はい」


 マルクスが、奴隷に命じて机に地図を広げさせる。

 屈強な、金髪で青い目のゲルマニア人奴隷だ。警戒されてるな、という目をアリオウィストスに向けると、肩をすくめられた。

 部屋の出口すべてに、完全装備のローマ兵が立っている。屋敷の警備をマルクスが任せられている、というのは本当のようだ。


「まず、ローマの政情について、きみが何も知らぬという前提で話すぞ」

「どうぞ」

「ルッカ会談の後、“三頭”(トリウムウィリ)がローマの政治を握った」


 “三頭”(トリウムウィリ)のメンバーは次の通り。

 指導者である、マルクス・リキニウス・クラッスス。元騎士階級(エクイテス)からの叩き上げで、細かい差配を丁寧に行う。

 頭脳である、グナエウス・ポンペイウス。偉大なる(マグヌス)のあだ名を持つ男で、雄大な軍略を緻密に実行する。

 宣伝役である、ガイウス・ユリウス・カエサル。最高神祇官ポンテイフクス・マクシムスの権威と、高い文才を持つ。


「アルメニア新王の裏切りで、クラッススが戦死した」

「はい」

「以後は、本国ローマでの内政をポンペイウスが行い、軍事力を握るカエサルが外からローマを威嚇しえんする体制となった」


 ローマにいるポンペイウスは、軍事力を握れない。

 カエサルの役目は、ガリア戦争を理由に軍団を動員し続けることだ。


「法を破ってルビコン渡河する必要はない。軍団を盟友であるカエサルが握っているだけで、ポンペイウスは思うがまま内政に手腕をふるうことができる」


 ここまでは、ウェルキンゲトリクスも承知している内容だ。

 ガリアの戦いが終わった後は、カエサルはローマに戻る。ポンペイウスは交代で属州総督となってローマの外に行く。


「何か、問題でも起きましたか」

「ポンペイウスの健康状態が、悪化している」

「それで属州総督とか、可能なんですか?」

「ポンペイウス本人はまだやる気でいる。が、取り巻きの動きが怪しい」

「怪しい?」

「先日、この屋敷に刺客が送られた」

「!」


 ようやく、屋敷に漂う緊張感の理由がみえた。


「刺客を送り込んできたのは、ポンペイウス派の商人だ。どうやら、カエサルにガリアの権益を奪われたことへの“個人的な恨み”で犯行におよんだらしい」

「ポンペイウスは、その商人を知ってたのですか?」

「知ってたら、そっちの方が驚きだ」


 ポンペイウス派の誰かが、資金繰りが悪化して精神的に追い詰められた商人をそそのかして、犯行に走らせたのだとマルクスはみている。


「相手も、刺客が失敗するのは、織り込み済みだろう」

「ようは、カエサル派とポンペイウス派が離間りかんすればいいと。目的はわかりますが、目指すところが見えませんね。それでは、誰にとっても損しかない」

「派閥が大きくなれば、波風が起きないで物事が進むことを望まぬものも、派閥に入ってくるということだ。担当者が失敗すれば、代わりにのし上がれるからな」

「迷惑きわまりないですね。ですが……自派閥内で、そんな不埒者の活動を許してる“偉大なる”(マグヌス)にこそ、問題があるのでは?」


 ウェルキンゲトリクスがカエサルを見ると、カエサルが顔をしかめた。


「健康状態が悪化している、といっただろう。今のポンペイウスは、内政の諸問題を解決するためだけに自分の持ち時間を割り当ている」

「そのせいで、盟友に刺客を送られたのでは、本末転倒ではありませんか」

「……まあ、そう、なんだがな」


 カエサルが口ごもる。

 マルクスが進言する。


「今のポンペイウスを、ローマで放置することはできません」

「だからといって、クーデターはできんぞ。どうする気だ」

「問題なのはポンペイウスの周囲でうるさく飛び回る連中です。こちらからも人を送って、ポンペイウス派の動きを監視させます」

「そうだな……ラビエヌスを送るのはどうだろうか」

「よい手です。あとは護民官トリブヌス・プレビスを増やしましょう」

「ふむ……マルクス」

「はい」

「きみが行ってくれるか」

「忙しいので、無理です」

「そうはいっても、きみも、そろそろ執政官を狙った方がいい。なら、元老院議員の資格はとっておかないと」

「あなたの身の回りでやらねばならぬ仕事があります」

「そこはほら。我が“三頭”(トリウムウィリ)にやってもらうさ」

「……このガリア人に?」


 マルクスがウェルキンゲトリクスをにらむ。


「ああ。ガリアもずいぶんと落ち着いてきた。これからは手元で活躍してもらいたい」

「わかりました」


 ウェルキンゲトリクスが薄笑いを浮かべる。


「ずいぶん、物わかりがよくなりましたね」

「なめるなよ。会うのは二年ぶりだが、おまえの行動は手の者に報告させてきた。妙な動きをすれば、すぐに戻ってくるからな」


 マルクスが部屋から出ると、カエサルが薄くなった頭を撫でた。


「報告書のまとめは、わたしも読ませてもらっている。マルクスほど、きみを高く評価している者はいない」

「ありがたい、というべきでしょうね」

「……相談がある」


 やはりか、とウェルキンゲトリクスは思う。


「なんでしょうか」

「ポンペイウスは、わたしの盟友だ。だからこそ、最悪に備えて手は打っておきたい」

「最悪とは、どういう想定でしょう」

「二年前の、わたしの時と同じだよ。ポンペイウスが人事不省じんじふせいとなって、誰かがその代わりをせねばならぬようになったら──わたしがやる」

「ポンペイウスは、そんなに悪いのですか?」

「今はまだ、そこまでではない。だから、その時がきても慌てず粛々と実行できるようにしたい」

「二年前のことを引き合いにさせていただきますと、ガリアは樹皮紙が普及をはじめた段階でしたし、ねぶた(ウィッカーマン)でわたしが浄火じょうかされて死んだ後で、矛盾や空白に、辻褄つじつまを合わせるだけの余裕──そうですね、隙間のようなものがガリア社会にありました。ローマでは、同じようにはいかないでしょう」

「それは、たしかにそうだ」


 部族社会で、空白が大きいガリアと違い、ローマは文明社会だ。


「何をするにも準備が必要でしょう。ほら、渡っちゃいけない川がありますよね」

「ルビコンか。うん、あるな。まあ、踏み越えた後で、言い訳はできると思うが」


 後に「ルビコン川を渡る」といえば、「後戻りができない重大な決断をする」という意味合いのことわざともなる。

 しかし、この時代には、ルビコン川はまだ属州の境界線のひとつでしかない。


「ルビコン川を渡れるような法的根拠は、何かありますか?」

「さすがにないなぁ」

「では、逆に考えてください。どのような挑発があれば、ルビコンを渡っても仕方がない、とローマ市民を納得させられるでしょうか」

「納得は無理だろう……いや、待てよ。アレなら、あるいは……」

「何かありましたか」

元老院最終勧告セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムだ」


 元老院最終勧告セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムは、古代における国家非常事態宣言の一種だ。戒厳令といっていい。執政官に対し、治安を守るためのあらゆる行動(フリーハンド)を許す宣告だ。

 カエサルから、カティリナ事件で元老院最終勧告が使われた事例の説明を受け、ウェルキンゲトリクスは何度もうなずいた。


「それです。素晴らしい」


 法律が発達した近代国家でさえ、国家非常事態宣言は取り扱いが難しい。

 元老院最終勧告は議決こそ必要だが、権限を預けられた執政官の行動を止められない。しかも、後で行動の妥当性を確認する方法がない。

 終わった後で執政官と元老院に、不審の目が向けられるのも当然だった。


「カエサル。あなたに元老院最終勧告が布告されるよう仕込みを入れてください」

「難しいことをいうなぁ」


 難問を預けられたカエサルは、どこか楽しそうだった。


「元老院最終勧告には、条件がある」


 執政官側が軍事力を握っていること。

 勧告の対象となる敵が弱く、大義名分を失わせれば労せず勝てること。


「内戦を、起きる前に封じる法ですね」

「だから、今のように執政官側に軍事力がなく、わたしだけ軍団を握っている場合、そもそも議題として出ることがないんだ」

「なるほど」

「いくら今の元老院がポンコツ集団でも、軍団動員前の状態で、わたしに喧嘩は売らないだろう。ここをクリアできれば、後はなんとかなる」

「簡単ですよ、カエサル」


 ウェルキンゲトリクスは、ニコニコと笑った。


「陣営から裏切り者をだすのです。新任の護民官とか、どうでしょう」


 満面の笑みであった。


「ははっ、なるほど! なるほどな! それなら可能か!」


 ウェルキンゲトリクスの笑みは、カエサルに伝染した。

 ふたりは机を叩き、涙を流し、ゲラゲラと笑った。

 出発の準備を終えて戻ってきたマルクスが、笑い転げるふたりに理由を問うた。

 理由を聞いたマルクスは、ひどく不機嫌になった。


挿絵(By みてみん)

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