23.アレシアの決戦(後編)
ガリア解放同盟の本陣は、夕闇が迫ってもざわついていた。
炊事の煙が、そこかしこであがる。ガリア人の主食は麦だ。パンが焼ければそれが最善だが、パン焼き竈がなければ、水で練った小麦を焚き火で熱した石に貼り付けて、簡単なパンケーキを作る。
紀元前一世紀のガリア人の味覚は単純だ。満腹≒満足の式が成り立つ。味があればよいが、なくても気にならない。むしろ、咀嚼の簡易さや、嚥下は難しくないか、という方が気になる。
ウェルキンゲトリクスは、パンケーキをかじりつつ、一日の戦いの報告を受けた。副官のリタウィックスが樹皮紙のメモを読み上げる。
「二十五人が死亡。二十四人が負傷して寝かしてあります」
三千人のうち、五十人。一日の死傷率は二%に満たない数値だ。
一日の死傷率が五%になると、本格的な戦いといえる。
二%未満ですんだのは、逃げるガリア軍への追撃がなかったためだ。
ゆっくり咀嚼して、飲み込む。口を開く。
「馬は、いなかったんだな?」
「はい」
「温存してある、ではないな?」
「無理ですよ、アニキ。あの野営地、狭いですからね」
視界を遮る壁もなく、馬のような大きな生き物を隠せる野営地ではない。
「ゲルマンの騎馬たちは、どこに消えた?」
「そりゃあ……秣がたっぷりあるところじゃないですかね」
「ははは。それはまあ、そうだろうな」
ウェルキンゲトリクスは面白くなって笑ってしまう。
ディビオ(ディジョン)ならば、秣は十分だ。
「決めたぞ」
「へい」
「明日は野営地を囲ませる。前も後ろも、全部を塞ぐ」
「攻めないんで?」
「囲むだけだ。落とせるとは思うが……被害が大きくなりすぎる」
「じゃあ」
「ローマ軍は放置だ。われらは聖地アレシアへ行く。巡礼だ。そして、最高神祇官の儀式をすませる」
ここにきた目的を、まず果たす。
野営地のローマ軍をどうするかは、その後に決める。
ここまでウェルキンゲトリクスは、マルクス・アントニウスの思惑通りに動いていた。
翌朝。
黎明の中をガリア軍が動く。ローマ軍野営地を囲んでいく。
正面に五百。五百。五百。
両側面に二百ずつ。
背面に回り込むようにして、百。
本陣に千を残し、二千で野営地を囲んだ。いずれも距離は三百から五百メートル。
ローマ軍団が保有している弩砲の有効射程が二百メートル前後であるから、その射程の外、という配置だ。
「囲まれたか」
見張り台に登った第十三軍団長は、大きな欠伸をした。
「素人の動きです」
第十五軍団大隊長が、ガリア軍の動きをみて、鼻をならす。
のたのたと動き。止まり。しばらくしてまたのたのたと動く。
動きが素人っぽいのは、指揮をとる人間が曖昧な命令をだすせいだ。
個人の武器を操る能力でいえば、ガリアの兵士と、ローマの兵士に差はない。差が出るのは、集団としての戦闘力だ。
短い剣を握る五人のローマ兵が長剣を持つ四人のガリア兵と戦えば、五人の側が「少しずつ」勝つ。
八十人の中隊が素早く交代しながら、百人の密集方陣と戦えば、中隊の側が「ちょっとばかり」長持ちする。
この「少しずつ」「ちょっとばかり」が積み重なって、ローマ軍は古代地中海で勝利を重ねてきた。
戦場に必勝法などない。
勝ちたいなら、戦場に敵より多くの数を集め、敵より長時間戦えるようにする。それだけで、勝利の確率は有意に上がる。
「本陣に動きはないか?」
幅も厚みもある大男が、ぎゅうぎゅう詰めになった見張り台から周囲を見晴らす。
「ない……いや、待て」
「動いた!」
「数は?!」
一斉に身を乗り出す。見張り台が軋む。下で見上げる弓兵が青ざめる。
「あれか?」
「土煙でよく見えん」
「数は?!」
ギィギィと見張り台の軋む音が大きくなる。やがて、ピタリ、と止まる。
風が吹き、視界を遮っていた土煙を吹き飛ばしたのだ。
「……見間違いだったか」
「まあ、今日のうちに動くのだったら、とっくに動いてますよね」
「たしかに、その通りだ……裏をかかれたな」
マルクス・アントニウスは見張り台の手すりをつかんでぐるりと体を回転させ、下に降りていく。上から第十三軍団長が声をかける。
「裏をかかれたとは、どういう意味だ?」
「あの本陣にウェルキンゲトリクスはもういない」
「なにっ」
「夜明け前。まだ暗闇の中を、少数で聖地アレシアに向かったはずだ」
「朝になって部隊を動かしたのは、聖地へ追いかけられぬようにか」
「そうだ」
裏をかかれたというのに、マルクスは落ち着いていた。
手は打ってある。賽の目がどう転がろうが、今さらだ。
今さらではあるのだが──マルクスの目は、東にそびえる高台と、登る曙光へと向かう。
──巡礼が吉とでるか凶とでるか、だな。
ウェルキンゲトリクスは、副官のリタウィックスと共に、聖地アレシアへ向かう坂道の途中にいた。口取りの従者が、小走りについてくる。
リタウィックスが何度も何度も、後ろを振り返る。馬が常歩で四歩進むうちに、一回は振り返るほどだ。とうとう、馬の方が「戻ります? 戻るなら、早い方がいいですよ? わたしまだまだ元気ですし」と気をきかせはじめた。ウェルキンゲトリクスが、それをみて笑ってしまう。
「アニキ! ここで声だして笑っちゃまずいですって!」
「ここまできたんだ。今さらだぞ」
「そうはいきませんや。アニキは今や聖者だし、後ろにはローマ軍がいるんですぜ」
二人が出発したのは、真夜中に近い時間帯だった。夜目のきく、地元出身の道案内をつけ、足元が危ないので従者に馬の口取りをさせての出発である。護衛は二騎だけ。
「ここまで日が高くなれば、ローマ軍野営地は、ガリア兵に囲まれている。もしローマ軍が突破しようとすれば、後ろを見なくても、戦いの音が近づいてくるさ」
「そりゃあ、そうかもしれませんがね……」
昨日の戦いは、ガリアの、ローマに対する苦手意識を呼び覚ました。
圧倒的な戦力で攻めたのに、手もなくひねられた。側面から攻めかかった、ガリア一の呼び声も高い剣士は、無手の大男に組み付かれて放り投げられた。今は糞尿のついた木の根の罠で深手を負い、高熱をだしている。
「木の根の罠に、ローマ人は棒海綿とあだ名をつけてるそうだ」
「クソったれなあだ名なのは間違いないですね」
便所の掃除などに使う棒海綿は、海綿がついた棒という不思議な形状をしている。大きな便所がないと、まず見ることはない。そのせいで、都会に出た田舎者が「こいつは何に使うんだい?」と聞いて、都会人が冗談で「尻を拭くのに使うのさ」と騙すのが、定番のローマ・ジョークとなっている。
ガリア人であるウィルキンゲトリクスもリタウィックスも、棒海綿の実物はみたことがない。ローマ・ジョークの方は有名すぎるので知っている。
「聖地がみえてきましたよ、アニキ」
「おお」
アレシア。ケルトの神々の聖地だ。常の人口は三百から五百。
アレシアの地では巡礼と、ドルイドの修行や祭礼が行われる。
聖地なので、防壁などはない。だが、境界線になる場所はあって、道の上に木々を通して紐がかけられ、鳴子板が並べられている。手にした杖などで鳴子板を鳴らして中に入るのが、聖地巡礼の手順だ。
「今は麓にローマ軍の野営地がある。巡礼は少ないだろうが──」
ウェルキンゲトリクスは口を開けたまま、絶句した。
正面に青い目の、騎乗兵がいた。ゲルマン人だ。
護衛が武器を抜いて前に出る。足が止まった。一歩下がる。
ゲルマン人は、ひとりではなかった。横合いから、一騎、二騎、三騎。
「……囲まれて、ます」
合計で三十騎あまり。
リタウィックスが、ウェルキンゲトリクスをかばうように動き、問いかける。
「何者だ?」
「巡礼だよ。ここは聖地だ」
聖地の境界線でたむろしていた一騎が、返事を返した。
青い目のゲルマン人だ。
「なら、通してもらおう。我らも巡礼の身だ」
「さて、どうしようかの。この境界線を出れば、巡礼は終わりや」
ゲルマン人はからかうようにいって、馬を進ませた。
カランカランカラン。
鳴子が鳴り響いた。一斉に。あっちでもこっちでも。
ゲルマン騎兵は、驚いて周囲を見回す。
鳴らしているのは、アレシアの住人だ。杖で鳴子を叩いている。聖地の内側からは、喇叭の音も聞こえる。
「親分……?」
「穢れを祓ってんだよ。ようは、ここで戦うな、ってことだ」
「どうします? こいつらもろとも、焼いちまいますか?」
「いいや、一宿一飯の恩義もある。ここはおとなしく立ち去るとしよう」
聖地の内側にいたゲルマン人が、手を振った。
ゲルマン騎兵が、一斉に聖地を出て、散る。森の中に消え、姿が見えなくなる。
残ったゲルマン人が、馬を進めた。髭だらけの顔だが、まだ若い。三十才前だ。
ゲルマン人は、訛りの強いガリア語で話しかけてくる。
「よう。ウェルキンゲトリクス。久しぶりやな」
「誰……いや、アリオウィストスか?」
「おう。スエビ族のアリオウィストスだ」
アリオウィストスは、ゲルマン人の商人だ。
ガリア戦争の一年目。ローマとガリア、双方から裏切られる形で、アリオウィストスはプブリウス・クラッススの指揮する騎兵団に襲われた。
あわやというところで、アリオウィストスを救ったのが、ウェルキンゲトリクスの機転だった。
「あの後、どうしていたんだ?」
「そりゃあ、いろいろや。あっちにこっち駆け回って、ほうぼうに頭を下げての。それでもほとぼりを冷ます必要はあるやろってんで、仲間とガリアに出て傭兵になったわ」
「傭兵……じゃあ、今のゲルマン騎兵は」
「おう。わしの仲間たちじゃ」
「ローマに雇われていたのか」
「あっちは気づかんかったみたいでな」
それでいいのか、とウェルキンゲトリクスは思ったが、カエサルならば気づいていても平気で雇っただろうとも思う。
「ここで何をしてたんだ」
「巡礼や……いやいや、そこはウソやないで。なんせ、ケルトの神々に命を救われたようなもんやったからな。感謝はしとかんと。それで──まあ、マルクス・アントニウスから別の命令も、もろうとる」
「わたしか」
「おう。聖地にウェルキンゲトリクスが来たら、殺せとな」
アリオウィストスは髭面の下でニヤッと笑った。
マルクスらしい、とウェルキンゲトリクスは思う。
傭兵のゲルマン騎兵隊を、戦略予備として聖地アレシアに置いたのもマルクスだろう。
狭い野営地に、使い道のない騎兵隊を詰め込むより、アレシアに置いておく方が楽だ。
秣も、アレシアの方が余裕がある。
そしてゲルマン人であれば、ガリア人の聖地に“巡礼”させる論理に破綻が少ない。ローマ人はローマの神々の絶対的な優位を信じている。ガリア人の聖地など鼻で笑う。対して、ゲルマンの神々は、ガリアの神々に親しい。
「だが、やめた。ケルトの神々の祟りがコワイわ、やっぱ」
「これから、どうするんだ」
「お前さんが雇ってくれるなら、手下になるぞ?」
「わかった。なら、今からゲルマン騎兵隊はガリア解放同盟の同志だ」
「ありがとよ」
「メシ代はツケ払いだから、後でアレシアの長老に、一緒に挨拶にいこうか」
「頼むわ」
古代地中海には雇用契約はなく、職業倫理もない。
では、邪魔されることなく自由奔放かというと、これまた違う。
貸し借りである。借りたものは返す。この概念は、言語化前からホモ・サピエンスの大脳皮質に刻まれている。
世界中の文明で、外部から持ち込まれた通貨の概念が例外なく浸透するのも、背景にある貸し借りが人類共通概念のひとつだからだ。
「その前に最高神祇官にならねばな……おい、どうした、リタウィックス。さっきから黙り込んで」
「いえ、ゲルマン人傭兵が、ローマを裏切……見限って、アニキの下についたという流れを説話にしたら、感動的な展開になりそうで……こいつはイケますよ」
「歌にできたら聞かせてくれ」
天意の流れが、きている。
聖地アレシアにいたのがアリオウィストスでなければ、ウェルキンゲトリクスは今頃、ゲルマン騎兵の槍で串刺しにされていただろう。
ガリア最初の最高神祇官になることへの、天意の後押しがあるのだ。
ウェルキンゲトリクスは、聖地に昇る太陽に、自分を重ねた。




