22.アレシアの決戦(中編)
聖地アレシアを背に負う野営地に、第十三軍団長の姿があった。
見張り台の上に立つと、西から近づいてくるガリア軍の姿が見える。
数は三千以上。烏合の衆ゆえに動きはもたついているが、それだけに慣性が大きい。野営地に押し寄せてくれば、津波がごとく揺さぶられ、揉み潰される危険があった。
可能性は百に一つでも、危険をおかす価値はない。
第十三軍団長はそのように考える人間であった。
「……結局、説得させられてしまったな」
自嘲する第十三軍団長に、第十五軍団を代表して参加した大隊長が冷たい目線をむける。
「それにしては、昨日の会議でノリノリであったようですが」
「そりゃ、やると決まったからな。避けられぬ戦いを、イヤイヤ戦っては勝てるものも勝てなくなる」
「そういうことに、しときましょうか」
「含みのある言い方だな」
「軍団長の言葉に従うなら、イヤイヤ戦うくらいなら、戦いそのものを避けた方がマシですので」
「こいつは一本取られたか」
第十三軍団長は、しばらく見張り台で観測を続けていたが、やがて降りた。
狭い見張り台を軍団長に占拠されていた弓兵が、安堵した表情を隠そうともせずに、代わりに登っていく。
見張り台から一緒に降りた大隊長は、第十三軍団長に確認する。
「よろしいのですか?」
「よろしいもなにも。見るべきほどの事は見た。ガリア軍の数も、動きも、こちらの想定した通りだ。ならばこれ以上は見ることもあるまいよ」
「そういうものですか」
「戦の備えは、戦が始まった時には終わっていなくてはならん。戦の直前になって慌てるようなことがあれば、それは備えができてないのと同じだ──これはマルクスの受け売りになるのだがな」
「舞台の上でなら、映えそうな名言ですな」
「きみは辛辣だなぁ。まだマルクスを恨んでるのか?」
「そりゃ恨みもします。第十五軍団長は享楽趣味の方でしたが、あのような罠ともいえぬ雑な火計でメンツを潰されたままでいいはずはありません」
「名誉挽回か」
「はい。第十五軍団長は“三頭”に名誉心をくすぐられたから、あのような罠に頭から突っ込んだのです」
「マルクスも罠にかかった側だぞ」
「だから、共にこの戦いに付き合うのです。わたしが率いる百人隊は、第十五軍団長の荘園出身者で構成されています。皆、負けたままローマに帰るくらいなら、ガリア人と刺し違えて死ぬ覚悟です」
「第十五軍団長は、いい部下を持ったな」
平民の第十三軍団長では得たくとも得られぬ関係だ。少し羨ましい。
外の様子は見えないが、ドルイドの喇叭の音が聞こえてきた。
独特の抑揚がある。死穢を祓う喇叭だ。聖地の周囲に、戦で穢れを広めることをケルトの神々に謝る喇叭だ。
続いて、鯨波の蛮声が響く。少し遅れて、地面が揺れ始める。
三千のガリア兵が、一斉に野営地に迫ってきたのだ。
頭上から、弓弦の音が鳴り響く。ケルト兵が射程に入ったのだ。
古代地中海では、甲冑で身を固めた文明国の軍隊に、弓矢はあまり役にたたない。鏃がもろく、弓も弱い。だから投射兵器として投槍が主武装となる。しかし、ガリアやゲルマンのような、甲冑がほとんどない蛮族の軍隊であれば、弓矢は有効だ。ガリア戦争も七年目。毎年のように生きた標的を狙い続けて、弓兵の腕も上がっている。外からは悲鳴と怒号が、聞こえてくる。
喧騒が大きくなった。
いかに弓兵の腕がよかろうが、それだけで突撃してくるガリア兵を食い止めることは、できはしない。
最後に決着をつけるのは、剣と槍だ。肉弾だ。
「大隊、前へっ!」
第十五軍団の大隊長が命じる。
百人隊三隊、百二十人が野営地を守る土塀の影からおどり出た。
溝から駆け上がってくるのは、ガリア兵の第一陣、五百人あまり。
全体の比率は三対一だが、戦闘正面は四対五となる。
ガリア兵四人に対し、ローマ兵五人だ。
この差は、物理的にはローマ兵が手にする武器が短めの剣であることが原因だ。
加えて、ローマ兵は密集隊形での戦い方を訓練で叩き込まれている。ローマ兵は、隣の軍団兵の手や足を切り飛ばすことなく、目の前の敵と戦えるのだ。この時に大事なのは、左右の軍団兵の側も、そのことを承知していることだ。戦友にどこまで近づいても大丈夫か、わかっているからこそ、互いの間を詰めて戦える。
ガリア兵は、その逆だ。隣にいる戦士の持つ剣や槍が、どんな風に自分に向かって飛んでくるか、わかったものではない。いや、わかってはいても、信用がおけない。どうしても、お互いに少しばかり余裕をもって戦うことになる。
そうやって戦っていると──そう。四人のガリア兵のうちの一人は、自分が二人のローマ兵から攻撃されていると、気づくことになる。もちろん、主な敵は正面のローマ兵だ。だが、ふと注意を緩めると、いきなり側面から剣の鋭い突きが、自分の足や脇腹に突き立てられることになる。
二人のローマ兵をどちらも近寄らせまいと、武器を大きく振り回せば、しばらくは間合いを広げることができるが、すぐに限界がくる。武器を何度も振り回しているうちに、腕が疲れ、動きが鈍くなり、それを見抜いたローマ兵がフェイントまじりで踏み込んでくる。
まずい、と思った時には、血しぶきが足からあがり、体が傾く。大丈夫、まだ致命傷ではない。しかし、ローマ兵の重い盾に殴られて、後ろの斜面に追い落とされる。こうなれば、今日の戦いはもう終わりだ。うめき声をあげ、仲間に引きずられ、後方に下がる。傷が癒えるまで数日か、数週間かは、もう戦えない。
もちろん、ローマ兵も疲労するのは一緒だ。戦っているうちに、あちこちが殴られ蹴られ血が流れ、動きも鈍くなる。そうなったら、盾を斜めに掲げて合図だ。戦友が後ろから前に出て、交代してくれる。汗をだくだく流し、息を喘がせながら下がる。水を飲み、汗を拭う。短い剣の利点のひとつは、前後の間合いを詰め、素早い交代が可能なことだ。手足を屈伸させる。まだ動く。
百人隊長が、声をかけてくる。
「行けるな?」
「大丈夫です!」
「よし。おまえの盾の下半分は壊れかけてる。交換しろ」
「え? あ、はいっ」
負傷したガリア兵を殴った時だ。百人隊の第一列を任される古参でありながら、緊張でまったく気づかなかった。
ローマ兵はあわてて盾を交換する。隊列の最後尾へと回る。
百人隊長の方は、すでに意識を前線に向けている。劣勢にも関わらず、彼の鍛えた兵は、よく戦っている。戦闘正面を短くしたこと。野営地の前で待ち構えたこと。斜面を利用しての高低差があること。どれもが、ローマ兵の力を向上させ、ガリア兵の力を押し下げている。
それでも、全体としては、ガリア側の優位を覆せない。第一波だけで三倍なのだ。多少の損害は、誤差のうちである。
前面で押しまくっても勝てぬとなれば、側面に回り込もうとするだろう。野営地の側面は、高低差のある方角に向いている。柵だけでも十分な守りになるが、逆に下から上がってくる敵兵を防ぐ手立てに乏しい。
百人隊長は、少し思案してから、鼻で笑った。
──昨夜の棒海綿の準備をみるに、それが狙いかもしれんな。
野営地の側面に回り込んだガリア兵は百人あまり。
野営地の前面が渋滞しているので、自分たちの判断で回り込んだ者たちだ。
傾斜のきつい坂を前に、ガリア兵は顔をしかめる。
「ここは登れんぞ!」
「おい、登れそうな場所はないか?」
「こっちの方が、斜面が緩い」
「いけそうだが……えらい臭いな」
糞尿の臭いに、鼻をひくつかせる。
斜面の下に、先を尖らせた枝が縛られ、糞尿をかけて転がしてあった。
「なんだこりゃ」
「ローマ人のウンコか、これ」
「あいつら、木の枝をそのまま尻からヒリ出してんのか」
ギャハハと、下品な笑いをあげ、ガリア兵は坂を登っていく。
少し遅れて、カルヌテス氏族の若武者と二十人のガリア兵が側面にたどりつく。
「やべ。出遅れた」
「大将。おれらも続きましょう」
「……待て」
若武者は、糞尿をかけた枝を見た。
「なんとか登れそうな坂」の下に、これが転がっていることの意味を考える。
「おい、もうちょい奥へ行け。糞尿付きの枝が転がってない場所へ」
「へい」
少し進むと、急勾配があった。
「ここだ。登るぞ」
「ここを? ……わかりやした。おい、投げ鈎だ! 鈎を投げろ!」
「やっせーっ!」
腕を振り回し、枝を組み合わせて作った鈎を投げる。引っ張る。登る。
苦労して急勾配を登る若武者たちを、緩い斜面を四つん這いで登る男たちが呆れた様子で見る。
「なにやってんだ、あいつら。どこのモンだ」
「あー、カルヌテス氏族の猟師ですよ」
「暴れイノシシを狩るときに、ウチの所領の森に呼んだことがあります」
「あんなきつい傾斜を登るとか、ナニ考えてるんだか……よしっ、見えてきたぞ!」
登りきったところで、周囲を見回す。野営地の柵と斜面との幅は一メートル。正面の門へとつながっている。
カンカン、カンカン、と二回ずつ鐘が鳴らされているのが見張り台の方から聞こえる。
「よし。うまい具合に、整地してあるぞ」
「このまま、門まで走っていけば……おう、ローマ兵だ!」
鐘の音で呼ばれたローマ兵が門の方から駆けつけてきた。整地されているので、走ってくる。指揮を取るのは、胸も肩も分厚い大男だ。
腕自慢のガリア剣士が、愛用の大剣を手に立ちふさがる。
「どけどけ! おれが一番手だ!」
ガリア剣士は、先頭のローマ兵を切り飛ばせば後は崩れるとみて、足を強く踏み込む。腰を入れ、力を込めて大剣を振る。
ガツッ。剣で止められた。
「ちっ!」
大剣を止めはしたが、勢いを殺しきれない。ローマ兵は剣を持った腕を大きく広げ、後ろに下がる。
スルリ。代わりに大男が前に出た。無手だ。
──わざわざ無手で? おれの目の前に? まずい!
ガリア剣士の心に警戒心が湧き上がる。大剣を戻すには間に合わない。間合いを詰められまいと、こちらも後ろに下がる。
ゴツッ。すぐ後ろの郎党にぶつかった。
「ちぃっ!」
大男が腰に組み付いてきた。姿勢が崩れる。足を払われる。体が浮遊する。落下。
斜面を転がり落ちたガリア剣士の腕に、糞尿のたっぷりついた枝が刺さる。
下から魂切る悲鳴を聞き、上にいたガリア剣士の郎党が仰天して叫ぶ。
「親分っ!」
「やべえ、あのクソのついた枝だ!」
「親分を助けるぞ!」
ガリア剣士の後ろに控えていた十人ばかりの郎党が、一斉に斜面を滑り降りる。
できた隙間に、今度はローマ兵が踏み込む。二人、三人と、手足を刺突されたガリア兵が、斜面を滑り落ちて逃れる。
さらに踏み込もうとする地面に、矢が刺さった。
「弓だっ!」
「あそこにいるぞっ!」
急勾配を登った若武者が、弓を構え、射る。
急勾配の上は狭く、足場が悪い。隠れる場所もなく、長くは戦えない。
三矢を放って味方の撤退を支援した後、若武者は弓を下に放り投げ、自分も滑り降りた。
「大将、無茶はせんでくださいよ」
「いいから逃げるぞ」
カルヌテス氏族の若武者は、ローマ軍の野営地を見上げた。
無手の大男は、すでに野営地の中に引っ込んでいる。
──これは、今日の一日では落ちんな。
野営地の中では、無手の大男──マルクス・アントニウスが、水を飲み、汗を拭う。
──これで、今日の一日は凌いだか。
第十三軍団長のところに向かう。
「おつかれさん」
「正面はどうだ?」
「第十五軍団の大隊長がよくおさえた。今日はもつぞ」
「そうか」
今日の一日はもたせる。
これが、昨夜の作戦会議での合言葉だった。
敵のガリア軍が三千をこえる軍勢であることはわかっていた。
士気も高そうだった。アウァリクム(ブールジュ)でローマ軍を焼いたのだから。
だから、これは賭けだった。
「今日のところは、賭けに勝ったな」
「明日はどうなる?」
「ガリアにとっての最善手は、変わらん。力押しで攻める。そして潰す」
「おいおい」
第十三軍団長があきれる。
マルクスはニヤッ、と笑って首を振る。
「だが、その最善手をウェルキンゲトリクスは選べまい。ヤツの元に集まったのは、ローマに勝利する狂熱に浮かされた連中だ。今日の一日で、その狂熱もさめたことだろう」
「では」
「あいつが目指すのは最高神祇官だ。こいつには便利な言い訳がある。戦が激しくなって、死穢がたまっては、ケルトの神々の不興を買う、というものだ」
「つまり」
「聖地の近くで、これ以上の戦いは避けようとするはずだ。そうなれば──」
マルクスは、聖地アレシアがある高台へと、視線を向けた。




