20.天命(デウス・ウルト)
マルクス・アントニウスは、日が落ちる寸前にディビオ(ディジョン)の野営地に戻った。目は落ちくぼみ、黒い顔には無精髭。
第十三軍団長は、無言のまま、葡萄酒の瓶を差し出した。
マルクスは、こちらも無言のまま、葡萄酒を一息で飲む。
マルクスは報告書を差し出し、横になるとすぐにいびきをかきはじめた。
第十三軍団長は、報告書を読む。読み進めるにつれ、顔が険しくなる。
──惨敗、だな。
これまでも、使者が往復していたので、ある程度は把握している。
それでも具体的な数字が並ぶと、ローマ軍の被害の大きさが実感として伝わってくる。
──四十五人、いや、報告書の最後に一人の名前が付け足されているな。火傷が悪化したとある。四十六人もの兵が、焼け死んだか。行方不明も含めれば七百人が失われている。
ローマ軍団分遣隊の総数は、二千人だ。損害は四割近い。
──第十五軍団長が判断ミスをしなければ、助かった命だが、さて。ヤツじゃなく、おれが前線にいたら、この罠に引っかからずにすんだかというと……難しいところだな。
分遣隊がアウァリクム(ブールジュ)に接近した時、町の門は開いていた。
分遣隊を指揮する第十五軍団長は、閉じた門の前に腰を据えて交渉する予定だったので、これには驚いた。野営地を作るため、午後の早い時間に到着するよう強行軍していたから、なおのことだ。送り込んだ偵察隊からは、町が無人であるらしいとの所感も届く。
さらに、偵察隊からアウァリクムから不審火らしい煙が何条か伸びていると聞き、第十三軍団長は決断を迫られた。
──当初の予定通り、町の外で野営地を建設するか。それとも、一気にアウァリクムに乗り込んで制圧するか。
第十五軍団長の決断は、両方を並行して行う、だった。一個大隊がアウァリクムに送り込まれた。
この時点で、その決断は間違いとはいえない。アウァリクムを早期占領できれば、大金星である。一方、占領できなかったら敵地で孤立する。
──全軍でアウァリクムに入れば、ウェルキンゲトリクスによる火計の罠を見破ることができたかもしれん。だが、これは結果論だ。
アウァリクムから火の手があがった。
門と城壁に積み上げた干草の山に、火が放たれていたのだ。当時、上空は無風に近かったが、地上では風が強かった。一個大隊のローマ兵を町の中に入れたまま、火は一気に燃え広がった。
──アウァリクムは完全に燃え尽きた。軍団兵の士気も地に落ちた。千人以上が戻って来られたことを、まずは喜ぶとしよう。
分遣隊の七百人の作戦中行方不明も、火事で死んだ者より、逃げた者の方が多い。復讐で燃え上がった戦意が、火計で雲散霧消したことになる。
──それにしても、ウェルキンゲトリクスもたいした男だ。カエサルの“三頭”は伊達ではない。
第十三軍団長は、床でいびきをかく、最後の“三頭”に目を向ける。面白いもので、一方的な敗北だというのに、マルクスの戦意は下がっている様子もない。
マルクスが目覚めたら、話くらいは聞いてやろうと第十三軍団長は考える。話に付き合うか、それとも残った全軍でローマ属領に撤退するか決めるのは、その後でいい。
アウァリクムの捷報は、数日をまたずしてガリア全土に広まった。
ローマ軍の被害も、今では二個軍団がまるごと焼き尽くされたと伝わっている。
ウェルキンゲトリクスの元には、ガリア中から祝賀の使者がやってくる。
「天命です」
ウェルキンゲトリクスは、来る使者すべてにそう答えた。
アウァリクムを脱出して十日あまり。ウェルキンゲトリクスは、町から町へ、転々と移動を続けている。
「わたしは人事を尽くしました。しかし、最後は天命です。焼け死んだローマ兵は、ケルトの神々への生贄のねぶたとなったのです」
ねぶたは、ガリアの祭祀で使う祭具だ。
冬至祭で、木材で編んだ人形を燃やして、神に捧げる。ガリア以外の地域では、人形の中に生きた人間や家畜を詰め込んで火を放つという噂もあるが、ドルイドであるウェルキンゲトリクスは、そんな野蛮な祭事を見たことはない。面白く誇張した話だけが繰り返し写本され、伝わったものだと考えている。
使者の挨拶が終わり、ウェルキンゲトリクスは宿舎として割り当てられた建物に入った。
副官のリタウィックスが、樹皮紙のメモを手に待っていた。
「レミ族の従者には、町の外の天幕を割り当てました」
「何人だ?」
「八人に、馬が十頭です」
「全体数は、どれだけになった?」
「二千二百人ちょいです」
「倍か」
「はい」
アウァリクムを火計で燃やす前に、ウェルキンゲトリクスの元には千人の兵が集まっていた。それが今では倍に膨れ上がっている。そして日に日に増え続けている。
ガリア解放同盟という立派な名前もついた。
名前は立派だが、訓練もしていなければ、指揮系統すら雑な二千人だ。戦になっても、どこまで使いものになるか、怪しいかぎりだ。
「でも、この烏合の衆。メシはおれらが食わすんですよね」
「そこなんだよな」
「実際に食わすのは町の住人で、おれらには、ツケがまわってるだけですが」
「頭が痛い話だ」
数日おきに町を転々としているのは、飯代がたまりすぎて払えなくなるからだ。
正確にいえば、ウェルキンゲトリクスに、飯代を払う目処は最初からたっていない。町の側もそこはわかっている。「ツケということにしておいて」食料を供出しているだけだ。いつか取り立てるチャンスがきた時には必ず取り立てるが、その可能性が低いことも理解している。
だから、数日したあたりで町の空気が微妙なことになってくる。邪険にされる前に、次の町へ向かうのが得策だ。
「アニキ、次はどこに向かいます?」
「レミ族、だったよな」
「はい? ……ああ、はい。今日の使者は、レミ族でした」
「ベルガエにまで噂は届いたということか。頃合いだな」
ウェルキンゲトリクスの言葉に、副官のリタウィックスが奮い立つ。
「やりますか。アニキ」
「ああ。今しかない。わたしは、ガリアの最高神祇官に就任する」
「待ってました。どこで儀式をやります?」
「決まっている」
ドルイドの制度に、最高神祇官は存在しない。
存在しない位階にウェルキンゲトリクスが就任したいのであれば、宗教的な権威のある場で荘厳な儀式が必要だった。
「聖地アレシアだ」




