19.アウァリクム炎上(後編)
北西の空に、うっすらと煙がのぼった。
見張りをしていたローマ兵が、天幕に報告に駆けつける。
マルクス・アントニウスは、伸びかけの無精髭を指でいじった。
──早すぎる。
ここからアウァリクム(ブールジュ)まで、どれだけ急いでも、四日はかかる。
「財務官。一刻の猶予もないぞ」
第十五軍団長は、きれいに剃ったツルツルの顎で言った。
「強行軍で、アウァリクムを突くべきだ」
「危険です」
野営地にいるのは二個軍団から抽出した兵が二千。指揮するのは第十五軍団長だ。
第十三軍団長はディビオ(ディジョン)に残余の四千と残り、集まった物資を前線へと送る仕事をしている。
──本当なら前線には第十三軍団長と来たかったんだが、仕方ない。後方支援の方が、大量の事務作業が発生するからな。
結果、前線は第十五軍団長が、後方は第十三軍団長が、それぞれ担当することとなった。
「ここまで戦うことなく前進できたのは、我々がローマ属領に帰還するという先入観がガリア側にあったせいです。この先はそうはいきません」
二千の軍勢がソーヌ河流域から西に移動を開始した時点で、目端の聞くガリア人は「これはヤバいのでは?」と気づいたに違いない。南ではなく西に向かうからには、ローマ軍が戦いを求めているのは明白だ。だが、その推測を口に出してしまえば、真っ先にローマ軍に踏み潰される。なので誰もが、ヤバいことに気づいた時点で「気づかなかったことにしよう」と決断したのだ。
「我々がここまで出会ったガリア人たちが、物資の供出だけして見て見ぬフリをしてくれたのは、いいわけができたからです。ですが、この先はそうはいきません。我らがアウァリクムに向かっていることや、ウェルキンゲトリクスを狙っていることは、明白です」
「戦いになる、ということか」
「なってくれれば、まだいいのですが」
マルクスは、戦いにはなるまい、と考える。
そこらのガリアの集落が、ローマ軍二千と戦えば、一瞬で踏み潰される。集落側もわかっているから、抵抗はするまい。集落側がするのは、兵糧や秣の供出ができない言い訳を並べることだ。
「協力できないというなら、脅せばよいではないか」
「小さな集落のひとつひとつを? そんな手間と時間をかける余裕はありませんよ」
「では、どうする」
「ゴルゴビナを占領します。ここを拠点に、ロアール河流域の河湊を制圧します」
「ふむ」
「制圧した河湊から、物資をゴルゴビナに運びます。その上で時間をかけて攻城戦の準備を整え、アウァリクムに攻め込みます」
「堅実だな」
「はい」
「だが、時間がかかるぞ。一ヶ月はかかる」
「必要な時間です」
「うーん。だがなあ。兵はそうは思わんぞ」
攻城戦は、兵の士気を下げる。
カエサルがいない今、攻囲を納得させられるか、怪しい。
「ですが、強行軍が失敗すれば、兵を損ないますよ」
マルクスは第十五軍団長に指摘した。
第十五軍団長は、顔をしかめた。
「わかってる」
「では、ゴルゴビナ制圧ということで進めさせていただきます」
「……よいようにしろ」
「はっ」
マルクスは内心で「よいようにしろ」とは何事かと思う。近代以後であれば、軍人として失格の命令である。うまくいかなかった場合、他人に責任を押し付けるための言い回しだ。このようなものいいが許されるのは、第十五軍団長が貴族の出だからだ。
──ここにカエサル閣下がおられれば、このような言われ方はせずにすんだ。
マルクスは、カエサルの明瞭な命令を懐かしく思う。
カエサルは結果として間違うこともあったが、命令は明瞭で、責任の所在も明確だった。上に立つ人間がそうであれば、下の人間も迷わずに行動できる。
野営地を出たマルクスは、先行するゲルマン騎兵の諸隊を回り、アウァリクム強襲を避け、ゴルゴビナを先に制圧する手筈を整えた。
古参のゲルマン騎兵と打ち合わせする。
「ゴルゴビナの防備は、どのくらいだ」
「城壁はねえし、増援の兵も百人くらいだ。今でも、俺らだけで、威嚇して逃げ散らせることができるぜ」
「ゴルゴビナは補給拠点として使いたい。逃げ散ったガリア兵に、そのへんでウロウロされてはかえって困る。緒戦で確実に潰しておこう」
「あいよ」
包囲戦は、逃げ道を潰すところから始まる。
ゲルマン騎兵は、町から逃げる道の要所に配置しておく。
後からくる歩兵隊でゴルゴビナの町を包み、絞るようにして迫ればいい。
「……遅いな」
なのに、一日たっても、その後続の歩兵隊が来ない。
先触れの伝令すら来ない。おかしく思い、マルクスは馬を駆って南下する。
野営地は片付けられており、誰もいない。踏み跡と轍は、北ではなく西へ続いていた。
「──っ、バカなっ!」
馬を西に走らせる。
アウァリクムの町は沼沢に囲まれており、容易には接近できない。
ローマ軍は、沼沢地の手前で野営地を作っていた。
マルクスは馬を降りると、すぐさま、第十五軍団長の天幕へと踏み込む。
「軍団長! これはどういうことですか!」
「喜べ、財務官。アウァリクムが降伏すると言ってきた」
「降伏?」
「もちろん、ウェルキンゲトリクスも突き出すそうだ」
「それは──」
「これで、我々は大手をふってローマに帰還できる。文句はあるまい?」
──やられた!
マルクスは、目の前が真っ暗になる敗北感に打ちのめされた。
第十五軍団長は、罠の可能性に気づいた上で、アウァリクムへ向かっている。
「軍団長」
「何かな?」
「わたしはこのことをゲルマン騎兵に伝えてきます。部隊の指揮はお願いします」
「うむ。任せておきたまえ」
ほっ、と安堵した様子の第十五軍団長。
マルクスは翌朝、再びゴルゴビナへと向かった。
古参のゲルマン騎兵が、マルクスを出迎える。
「なんだなんだ。ゴルゴビナを攻めるんじゃなかったのか」
「方針が変わった。アウァリクムを攻める」
「上の方針がふらついてんのは、よくない兆候だぞ」
「わかってる。だから、わたしがここに来たんだ」
マルクスの中には不安があった。
第十五軍団長は、これが罠であっても自分の軍団に被害はない、と考えている。
城門を閉ざしたままのアウァリクムの前まできて、ウェルキンゲトリクスを渡せ、渡さないと問答をし、埒があかないと判断して撤退するつもりだ。
だが。しかし。
──ウェルキンゲトリクスが、そんなぬるい罠を仕掛けるだろうか?
否、だ。
ウェルキンゲトリクスが罠をしかけるなら、それは致命の罠だ。そうでなくては、カエサルが“三頭”を名乗らせた価値がない。
「これより、ゲルマン騎兵隊はわたしの指揮下にはいる」
ゲルマン騎兵隊の数は、二百だ。
出身氏族単位の、小さな集まりなので、命令伝達に手間がある。
また、替え馬がいないので長期間の作戦には不向きだ。
それでも、不測の事態には対応できる。
「わしらは傭兵や。どこで戦うても、文句はない」
「戦いではない。秣を集めてくれ」
「今もやってるが?」
「その場で食わせるだけでなく、持ち帰ってほしい」
「略奪か。高価なものも一緒がええんじゃが」
ゲルマン古参兵のいう“高価なもの”は、家畜や人である。
「家畜の背に秣をのせるのは許す。人はダメだ」
「よし、任された!」
大喜びの古参兵から目をそらし、マルクスは西をむいた。
何かが見える、と思ったのではない。
ここからアウァリクムまでは四十キロメートルは離れている。地平線の向こうだ。
それなのに、うっすらとした筋が見えた。気がした。
さすがに、目の錯覚を疑い、古参兵に確認する。
「あれが見えるか?」
「ん? んん?」
古参兵が目を細める。
「白い筋のような……煙か?」
「どこだと思う」
「アウァリクムの方だが……この距離でも見えるもんかね」
マルクスは答えなかった。かれも知らないことだからだ。
この日は快晴で、空気は乾燥していた。何より、無風に近かった。気象条件が整っていた、といえる。
煙はまっすぐ高度二百メートルまであがり、四十キロメートル離れた場所からでも見ることができた。情報伝達用の狼煙が届くのが十キロメートル圏内であることを思えば、例外的な遠距離である。
紀元前のガリアで気象条件が整うというのは、神の加護の領域である。
「アウァリクムで、何があったのだ……まさか、本当に神の……」
同時刻。西に四十キロメートル。
炎の中で、ローマ兵が逃げ惑う。
アウァリクムの町が、燃えていた。




