18.アウァリクム炎上(中編)
早朝のアウァリクム(ブールジュ)にて。
朝焼け空に、うっすらと煙がのぼる。
騒ぎを聞きつけ、ウェルキンゲトリクスは東の方角を見た。目が険しくなる。
──早すぎる。
焦土戦術のため、東のゴルゴビナに副官のリタウィックスを送ってまだ十日とたっていない。二度ほど使者が往復して順調であるとは聞いていたが、だとすれば、今はまだ放火の準備中のはずだ。
──ゴルゴビナの東方で、河湊に積んだ干草を燒く。それが噂にならなければ、焦土戦術への理解そのものが進まない。ドルイドに向けられる視線は、今のままだと、ただの放火魔だ。
この時代のケルト語に、焦土戦術という概念はない。
宗教的な行為が“禊”も“呪詛”も“祝福”も、同じ単語で表現されるように、焦土戦術は“報復”、“復讐”、“仕返し”と同じ単語で表現される。
干草を燃やすところを実際に見て、聞いて、よくよく自分で考えて理解しなくては、何が起きているかすら、理解できない。
「ウェルキンゲトリクスよ。これはどういうことじゃ」
老ドルイドが、棘のある小声で聞いてきた。
名をニゲクトリスという。まだ五十代になったばかりだが、紀元前一世紀のガリアでは老人の扱いだ。
「わかりません」
ウェルキンゲトリクスは正直に答えた。
「そなたの手筈とは、違うようじゃな」
「はい」
老ドルイドも、それで少し落ち着いたようだった。
「……わしが、いって見てこよう」
「お願いできますか」
「いまさら、知らん顔はできん」
老ドルイドは老馬にまたがり、東に向かった。
ウェルキンゲトリクスは、今やドルイドの看板である。
権威の面でも、うかつに出歩くわけにはいかなくなっていた。
それが正解であることは、半日とたたずにわかった。
ボロボロになった男たちが、ヨロヨロと道を西に歩いてきたからだ。
男たちを束ねているのは、杖を持った男だ。老ドルイドはその顔に見覚えがあった。
「これはどういうことじゃ」
「老師さま!」
束ね役のドルイドは、老ドルイドを見て安堵したのか力が抜け、地面に膝をついた。そのまま、おいおいと大声で泣きじゃくる。
この時代のガリアで知識階級はすべてドルイドだ。ドルイドが役人、商人、軍人のすべてを兼ねている。
「えい、泣いておってはわからぬ。誰にやられた」
「ゲルマンです」
「なにっ」
「ゲルマンの騎兵です。突然、襲ってきまして」
「穢れ嫌いで引きこもりのゲルマンが……山賊か。傭兵か」
「そこまでは……ただ、垢まみれで、すげえ臭かったです」
穢れ嫌いで、引きこもり。これが紀元前一世紀のゲルマン人だ。童貞を尊ぶのも、女体が穢れていると思えばこそである。
「それで、リタウィックスはどこにおる」
「リタウィックス……?」
束ねのドルイドがきょとん、とした顔になる。
一緒にいたひとりが、脇から「若頭のことじゃねえっすか?」という。
「ああ、若頭ですか。えーと……ゴルゴビナじゃないですかね」
「んんっ? おぬしら。どこからきた。どこでゲルマンの騎兵に襲われた」
「ええっと……」
基本的に、人は記憶の中にあることと、口に出したこととの区別がつかない。報告ひとつとっても、訓練が必要なのはそのためだ。
しばらく噛み合わない会話を続けた後、老ドルイドはやっと得心した。
「つまりおぬしらは、二日前にゴルゴビナを出て、近隣の集落を回って、納屋にある干草を燃やす準備をしておったと。そういうことだな」
「はい。若頭の命令です」
「そして、今朝になって集落にゲルマンの騎兵がやってきて、襲われた。数は確認していないが、すごくたくさんいた気がする、と」
「おれらは十人でしたが、あいつら十倍はいましたね」
(相手は騎兵だ。走り回って多く見えたのかもしれん)
事実は五騎で、しかもそのうちの二騎は襲撃に参加せず、離れたところで周囲を見張っていた。人間の観察力から、主観の影響を排除するのは難しい。
だが、それらは今は重要ではない。
「納屋から持ち出した干草に火をつけたら、ゲルマン人どもは逃げていったと」
「へい。一目散でした。ですがあっしらも、次に襲われたら、こりゃたまらんと。ゴルゴビナはちょっと遠いですから、ここは皆でアウァリクムへ逃げようと、こうなりまして」
「ぬう」
老ドルイドは唸り声をあげた。
ゴルゴビナとアウァリクムの間に、ゲルマン騎兵が浸透している。
老ドルイドは、聞いた内容を樹皮紙にまとめ、束ねのドルイドに押し付けた。
「こいつを持ってアウァリクムに行き、ウェルキンゲトリクスに渡すのだ。よいな?」
「はっ、はい。もちろんでさ。で、老師は?」
「わしは、ゴルゴビナへ向かう」
「そんな、危険です!」
「承知の上。ケルトの神々に仕える身としては当然のこと。そなたは気にするな」
「老師……すげえっす」
老ドルイドは、ゲルマン騎兵はすでに遠くに去っていると考えている。
けれども、尊敬の目で見られるのは気持ちがいいので、そう考える理由までは説明しなかった。
──ゲルマン騎兵の立場にたてば、だいたい想像はつく。
早春である。刈れる草はほとんどない。
馬は人とは違う。馬に豆や麦などの高カロリーな飼料ばかりを食わせると、すぐに腹を壊す。嵩のはる干草が必要で、ゲルマン騎兵が狙ったのも、つまりは干草だ。これまでにもいくつかの村で、干草を奪って馬に食わせてきたのだろう。
──そして、たまたま、納屋にガリアの兵士がいたから戦いになった。
これまでは村を襲って納屋から干草を奪っても、戦いにはならなかった。だが、今回は戦いになり、しかも干草には火をかけられてしまった。
──ゲルマン人は、仰天しただろうな。
そこまでするか、という気分だったはずだ。また、狼煙をみて周辺のガリア兵が集まってくる危険も感じたはずだ。
偵察は、どちらにとっても情報不足で手探りだ。
「さあ行け。早くウェルキンゲトリクスに手紙を届けるのだ」
「へい!」
任務を与えられたせいか、束ねのドルイドは、出会った時よりシャンとして、西へ向かっていった。
老ドルイドは、逃げた連中の姿がみえなくなってから、こっそり裏道へと馬首をめぐらせた。理屈ではゲルマン騎兵はいないと思っているが、万が一もある。怖いものは怖いのだ。
アウァリクムで老ドルイドからの手紙を読んだウェルキンゲトリクスは、アテがはずれたことに落胆し、ローマ軍が迫っていることに危機感を抱き、それからこれは好機ではないかと思い直した。
「ゲルマン騎兵が、このあたりを遊弋しているとして、目的は何だ」
自分の考えを整理するため、声にだして言ってみる。
「もちろん、わたしだ。わたしを殺すか捕らえるかできれば、カエサルにかけた呪いの責任を、わたしに押し付けることができる」
ウェルキンゲトリクスに責任を押し付けたところで、事態は改善しない。それでも、気が晴れるので、ローマは襲ってくる。
「愚かな。だが、粘着質なマルクスなら、ありえることか」
マルクス・アントニウスは、今のローマ軍の中で唯一、ウェルキンゲトリクスを個人的に憎んでいる相手だ。対等だから憎めるのだ。これが貴族的な性格のプブリウス・クラッススであれば、ウェルキンゲトリクスを憎むことはなく、その上で邪魔だと思えば首をはねたろう。
「問題は、マルクスがどれだけの兵でわたしを殺そうとしているかだが……二個軍団は、さすがに多すぎるな」
ディビオ(ディジョン)にいる第十三軍団と第十五軍団の主力は、今も動いていないだろうとウェルキンゲトリクスは考える。
両軍団合わせて定員は九千だが、今は六千から七千くらいか。
対して、ウェルキンゲトリクスが使える兵は千と少し。それも素人ばかりだ。
「三千……いや、二千いれば、アウァリクムを落とし、わたしを殺せる」
最初は、マルクスが暗殺という手段を取るのではないかと恐れていた。ガリア人に金を握らせるか裏切らせるかして、アウァリクムへ送り込むのだ。
しかし、ゲルマン騎兵が動いている時点で、暗殺の可能性は低い。
「わたしは、どうすればいい。どうするべきか」
安全、確実なのが、アウァリクムから逃げることだ。
素人のガリア兵が千では、ローマ軍が二千でも勝負にならない。
逃げて、時間を稼ぐ。
「逃げるにしても、大きな氏族の町はローマの影響が大きい。かえって親ローマ派に襲われる危険もある。たとえば、聖地アレシアのような……いや、あそこは避けたい」
聖地アレシアは堅牢な地形にある。それだけに、囲まれれば逃げ道がない。
加えてウェルキンゲトリクスは、アレシアを最高神祇官の就任の場と想定している。なので、聖地アレシアは戦の死穢から遠ざけたいと考えていた。
「逃げるタイミングも難しいな。避難の準備を進めていてよかった」
最初から、アウァリクムが襲われたら逃げる予定だった。初期の段階では、想定していたのは、他の地域のガリア人に攻められることだ。もちろん、アウァリクムの住人もウェルキンゲトリクスと心中するつもりはない。すでに森の中に物資は分散して隠してあるし、住人も逃げる準備をしている。
「ゴルゴビナが落ちたら、逃げるとしよう。……いや、待てよ」
全体の構図に、違和感があった。
ゴルゴビナは、ロアール河流域の町だ。河湊沿いに攻めあがれば、ゴルゴビナが先に襲われる。
ところが、今朝の襲撃のように、ゲルマン騎兵はすでにゴルゴビナより西に進出している。
ゴルゴビナに送ったリタウィックスからローマ軍の接近を伝える連絡もない。おそらくローマ軍は、ロアール河沿いを離れ、兵站の効率が悪くなる南からアウァリクムに迫っているのだ。
それは、なぜか。
「……見えた」
ウェルキンゲトリクスは拳をぎゅっ、と握った。




