16.先行偵察
ウェルキンゲトリクスは、アウァリクム(ブールジュ)を拠点として、ガリア中に回状を回した。
回状の内容は単純だ。
「ウェルキンゲトリクスの名で伝える。ガリアに死穢が満ちている。流行り病の原因となる死穢を祓うため、戦に使われる秣と兵糧の供出を、停止してほしい」
これだけである。
ローマと戦えとも、反ローマに立てとも、回状には書かれていない。
親ローマ派の部族も、この内容であれば、従うことができる。
どこの部族でも、次のようなやり取りが、行われるだろう。
「ローマ軍から、秣と兵糧を供出するよう、命令がでた」
「名誉なことです。ですが、ドルイドが民の間にこのような回状を回しておりまして」
「ううむ。これは困ったことだな」
「いかがいたしましょう」
「死穢と流行り病と聞いては、残念だが従うほかあるまい」
この後の展開は、部族長によって異なる。
たいていの部族長は、ローマから叱責を受けるまで黙っている。うまくいけば、冬営地に近い側の、自分以外の部族長が怒られる。自分がどうするかは、それを聞いてから考えればよい。
目端のきく部族長なら、回状を手に冬営地へ訪れるだろう。
「このような書状が回ってきまして。内容を読み上げますと、かくかくしかじかと」
「なんと不謹慎な! 我らローマが流行り病を増やしているというのか!」
「ああいえ、ローマとはどこにも書いておりませぬ。ただ、戦はやめよう、という空気が、民草の間に流れておりましてですな」
「はっきりいえ。我らローマに兵糧と秣の供出をしたくないのだと」
「いえいえ。ローマに兵糧と秣を供出するのは、我らが部族の名誉にございます。ですが、書状のおかげで愚かな民草は不安を抱いておりますゆえ、なんとかしていただければ。具体的に申しますと、この書状の書き手を説得するとか」
「書状をもう一度みせろ。ここはウェルキンゲトリクス、と書いてあるな」
「書いてありますな」
「騙りか」
「さてさて、そこまでは。ローマの将軍様は、この名に聞き覚えがおありで?」
「確認しよう」(こいつ、わかってやがるな。ウェルキンゲトリクスがカエサルの“三頭”だと)
「よきようにおはからいください」(やはりそうか。それに、カエサルは神罰を受けて負傷したとの噂も流れている。こちらも事実だろうな。でなければ、“三頭”による、このような裏切りは、ありえぬ)
ローマにとって、もっとも良い選択は、部族長会議を召集し、ウェルキンゲトリクスをガリアの敵と認定して皆で攻め滅ぼすことだ。
だが、今のローマにそれはできない。
部族長会議を召集できるガリア総督のカエサルがいないからだ。
ガリア中央に十個軍団を配置しておきながら、カエサルひとりがいないだけで、部族長会議が開けないのだから、お笑いである。
では、ローマにとって実行可能な次善の選択は何か。
ウェルキンゲトリクスは、ガリアに蜘蛛の巣のごとく広げた情報網をたぐり、考える。
──アウァリクムに攻め込み、わたしを殺すことだ。
アウァリクムに、軍はいない。
だが、ウェルキンゲトリクスに心酔したと主張するガリア人が千人以上、集まっている。
ほとんどは、軽犯罪をおかして故郷にいられなくなったあぶれ者たちだ。ここでウェルキンゲトリクスについていけば、将来、いい目を見られると、希望とも願望ともつかぬ思いで目をギラギラさせている連中だ。
──こいつは、賭けだ。ローマ軍が、兵糧不足で撤退する前に、アウァリクムに攻め込んでくるか、否かの。
さほど、分の悪い賭けではない、とウェルキンゲトリクスは考えている。
カエサルがいない今、ローマ軍団の将軍の脳裏にあるのは、兵力を損なわないこと。
ガリア戦争は、そもそもが勝てばガリアを征服できるというものではない。勝ったところで、ガリア諸部族が従うとは限らないからだ。
ガリア戦争の終わらせ方を考えたこともないローマ軍団の将軍たちに、アウァリクムへ攻め込む決断ができようはずもない。
それくらいなら、ひとたびは撤退し、カエサル復帰後にすべてをカエサルに委ねる決断こそ、正解となる。
そしてそれは、ウェルキンゲトリクスにとっても望むところだった。
──戻ってきたカエサルは、わたしの判断をよしとするはずだ。
一連の行動で、ウェルキンゲトリクスの名は一気にガリア全土に広まった。
ドルイドの最高神祇官としての地位も、遠くはない。
代償は、カエサルの権威の低下だ。
カエサルが、自己の権威に至上の価値を見出す男であれば、復帰した後に、全力でウェルキンゲトリクスに報復にくるだろう。
だが、そうはなるまいと、ウェルキンゲトリクスは考える。
──むしろカエサルは、わたしを称揚するはずだ。
ドルイドの長となるウェルキンゲトリクスがガリアの面倒をみてくれることは、クラッススの死で不安定化したローマを立て直したいカエサルにとって何よりの支援になる。
そしてゆくゆくは、ローマの神々とケルトの神々の習合による、ローマとガリアの一体化が実現する。そうなればローマの神々の加護によって流行り病も消え、ガリアは真にローマの友となる。
カエサルが戻ってこないことの方が、ウェルキンゲトリクスには不安材料となる。
──いや、もうひとつあったな。
ウェルキンゲトリクスが手繰り寄せた情報に、二個軍団が、ディビオ(ディジョン)に野営地を築いたというものがあった。
このまま川沿いに南へ向かい、ガリア属州に入るのであれば問題ない。
──だが、もしかしたら……
別の報告も、ウェルキンゲトリクスの手元には届いている。冬営地に、カエサルの“三頭”のひとり、マルクス・アントニウスが入ったというものだ。
マルクスは、ウェルキンゲトリクスこそが諸悪の根源であると主張している。カエサルの負傷も、ウェルキンゲトリクスが呪詛をかけたせいだというのだ。
噴飯ものだと、ウェルキンゲトリクスは思う。カエサルに呪詛をかけたり、あらかじめ負傷するのがわかっていれば、もっと打てる手はあった。
しかし、マルクスが濡れ衣をかけてきたならば、ウェルキンゲトリクスも対抗せざるをえない。ここでむざと殺されるわけには、いかない。
ウェルキンゲトリクスは、腹心のドルイドを呼んだ。
「呼びましたか、アニキ」
「百人ほど連れて、巡回してこい」
「任せてください。それで、理由を聞いてもいいですか」
「ローマ軍の動きを探りたい。もし秣を集めてるようなら……」
「襲いますか?」
「いや、すぐに戻って報告しろ」
アウァリクムから数日圏内で秣を徴集しているなら、ローマ軍がすぐ近くまできている証拠だ。対策を考えるのが最優先となる。
「最初の目的地は、ゴルゴビナだ」
ゴルゴビナは、後のヌベール近郊にある町だ。
アウァリクムからは東に六十キロメートルになる。
「ゴルゴビナを拠点に、周囲の村を回れ」
「期間はどうします」
「一ヶ月だ。その間にこっち側で動きがあったら、ゴルゴビナに使者を送る」
「わかりやした……その。いいですかい、アニキ」
「なんだ?」
「ローマ軍の足を止めるなら、こっちで先にやっちまう、っていう手もありますよ」
若いドルイドが主張するのは、焦土戦術である。
ローマ軍団は、ガリア人が供出する食料と秣があってこそ、作戦行動が可能になる。
「焦土戦術は効果的だが、やるからには正当性が必要だ」
「ああ……そういうことですかい」
「そういうことだ。すまんな」
「なぁに。アニキの大願成就のためなら、本望ですぜ」
カエサルの負傷を奇貨として、ウェルキンゲトリクスの名はガリアに広まった。
だが、それはあくまで広まっただけで、支持にはつながっていない。
ウェルキンゲトリクスがガリアにおける最高神祇官になるために、ここはもう一手、名声がほしい。
ガリアの諸部族の内部は、親ローマも反ローマもまだら模様だ。部族長たちは権力獲得の手段としてローマを利用している。根本的なところはどっちでもいい。今まではカエサルが手駒として使えたので、親ローマが有利だっただけだ。
だからここで、ウェルキンゲトリクスが反ローマの手駒になればいい。部族長はウェルキンゲトリクスの名を内部の権力闘争のため便利に使うだろうが、同時にそれがウェルキンゲトリクスを支持することにもつながる。
──わたしの名で焦土戦術を行うことで、わたしが反ローマ側に立つ部族長の「理由」になる。
反ローマを粛清するカエサルの名を利用することで、親ローマ側に立つ。
焦土戦術するウェルキンゲトリクスの名を利用することで、反ローマ側に立つ。
どちらも、悪名と表裏一体の名声だ。
政治とは、畢竟、他人に自分の名を貸す仕事だ。
自分が会ったこともない、自分を知りもしない相手に、自分の名を使ってもらうこと。
そこまで踏み込めてこそ、政治家を名乗れる。
──ゴルゴビナまで行けば、ローマが秣を集めている「事実」はつかめるはず。
ゴルゴビナから東に百五十キロメートル行けば、ディビオがある。
ディビオに集まったローマの二個軍団は、秣を集めるため、周辺のガリアの村に徴発をかけているだろう。
ローマ軍は、ソーヌ川流域の河湊に秣を集めた拠点を作っているとウィルキンゲトリクスは考えた。
兵糧と違い、秣は嵩がはる。
積み上げた秣は遠くからでも目立つし、噂にもなろう。
「ではいってきます、アニキ」
「頼んだぞ」
「はい。吉報を待っててくださいや」
百人の男たちと連絡用の馬を連れ、若いドルイドは東に向かっていった。




