15.身の上話
カエサルがガリアに侵攻して七年。
ほとんどの戦闘で、ローマ軍団は、歩くだけで勝利した。
早く歩き、多く集まる。
それだけで、敵の戦う意志を奪うことができた。
だが今は、それができない。
「カエサル閣下の偉大さが、いなくなってわかる」
マルクス・アントニウスは行軍の準備をしながら、思う。
マルクスがやっていることは、カエサルがいた時と同じだ。兵糧と秣を準備し、資材の入手方法を整え、輸送手段を確保する。
七年間。ずっと同じことをやってきた。
「乗りかかった船だ。手伝ってやるよ」
「助かる」
第十三軍団長が部屋に入ってきた。すっかり伝法な口調が板についている。
この冬営地には、第十三軍団と第十五軍団の二人の軍団長がいる。
第十三軍団長は、平民あがりの次席指揮官だが、仕事ができるので、第十五軍団の貴族あがりの主席指揮官から雑務をあらかた任されている。冬営地の兵糧や秣の管理も、雑務のひとつだ。
「兵糧はいいんだ。少しは蓄えもある」
一個軍団が消費する兵糧は、麦が一日に八トンだ。
冬営地は終着点が固定なので、物流も繰り返しになる。
冬営地には二個軍団がいるが、百人隊が定員から大きく割り込んでいるので、麦の消費は一日に十トン未満だ。
「秣はそうはいかん。なにせ日々の消費量にムラがある」
一個軍団が消費する秣は一日に十八トンだ。
しかし、冬営地では牛馬に仕事がない。なので冬の間、輸送用の牛馬は近隣の村や町に貸し出している。秣は借りた村が用意するので、冬営地の消費は減る。
「輸送用の牛馬は、まだ貸し出したままか?」
「返却命令は秣がたまってからだ。無駄に秣を食われるのはもったいない」
「デカいなりして、細けえことを気にする男だな」
マルクスの言葉を、第十三軍団長がからかう。
「なんとでもいえ。細かいことが気にならないヤツに、カエサルの“三頭”がつとまるものか」
「カエサルは気にしないだろ」
「カエサルは、天の視座の持ち主だ」
ガリア戦争を、どう終わらせるか。
ここ数年、カエサルはずっとそのことを考えていた。
──ガリアをローマ文明に同化する。
カエサルの最終目標ははっきりしていた。
ガリア戦争も、ローマの神々が与えている恩恵を、ガリア社会にも与えるためだ。
ガリアにとっても同化が正義であることは、ウェルキンゲトリクスが積極的にカエサルに協力していたことからも明らかである。
──わたしには、同化の手続きまではわからん。
マルクスにできるのは、カエサルが戻ってくることを信じ、ガリアでの戦争を継続し続けることだけだ。
「五日分だ。秣が五日分貯まれば、輸送用牛馬を戻して出発する」
「どこへ?」
「南。ディビオ(ディジョン)へ向かう」
翌日、マルクスは出発を決意した。秣の備蓄は四日分に届かないが、これ以上の遅延は、軍団兵の士気を維持できないという第十三軍団長の忠告を受け入れた形になる。
マルクスは、周辺の村に送る使者を集めた。ローマ商人とアントニウス家の奴隷である。
「輸送用の牛馬を戻すよう伝えよ。それと、これから先、兵糧と秣はどちらもディビオ(ディジョン)へ運び込むように伝えよ。文書も渡す」
「は……ですが……」
「何か気がかりがあるのか」
「ご存知のように、ガリアで文書が読めるのはドルイドだけです」
「うむ」
「ですが最近は、ドルイドたちが村にいないことが多く……口頭だけでは聞いてない、で無視される危惧があります」
「わかった。考慮しておく」
牛馬の返却命令を無視する村はなかった。貸し出した村は、どれも冬営地から歩いて一日の圏内なので、ローマに逆らうにも覚悟がいる。
二日が経過し、村から貸し出していた牛馬が戻ってきた。いずれも腹を減らしており、冬営地の厩舎に戻るや、備蓄していた秣をもりもりと食べた。ローマには逆らわないが嫌がらせをする方法はあるのだ。
翌朝。ローマ軍団は冬営地を出発した。
冬営地は、冬の間に柵を追加し、地面も深く掘ってある。中は無人で、天幕なども外してあるが、厩舎などはそのままだ。
「城の破却はしないのか?」
「カエサルの命令だ。ガリア人が奪いたいなら、奪わせろと」
行軍の先触れは、騎兵隊だ。
筒状の吹き流しの旗を掲げ、道とその周囲を偵察する。
弓を持った軽歩兵が、騎兵隊の後ろを進む。彼らは伝令役も兼ねる。
続いて工兵隊が進み、道の修繕を行う。冬の間、雨ざらしにされた道はあちこちで崩れ、穴があいている。人が避けて歩く分には問題ないが、馬車はそうはいかない。
穴に石を放り込んで塞いでいるうちに、馬車がやってくる。
完全武装の歩兵中隊が歩くと補修した道がまた穴だらけになるので、脅威が低い地域では軽歩兵の後に輸送隊が通る。
輸送隊の馬車は、補修──といっても、そこらの石やら木やらで雑に埋めた穴の上を、ガタガタと揺れながら進む。ときどき、車輪がはまって動けなくなるので、近くにいる人間が総出で押す。精一杯に押す。ダメなら、騎兵隊が駆けつけて馬も使って引く。
昼過ぎには、野営地跡に到着する。
前にきた時に、簡単な堀を作ってある。
運んできた柵を並べ、天幕を建設する。
日が傾いてくると、“商人”が野営地に集まってくる。
“商人”のひとりがマルクスに声をかけた。
“商人”は女である。
「兄さん、兄さん。採れたての山菜があるよ。ウマいよ」
“商人”の多くは、そのへんで採れた春の山菜を籠に入れて持ち込む。売り物があれば、野営地に入ることができるからだ。
だが、実際に売っているのは、“商人”の体の方だ。
「いらん」
「なんだい、立派なナリして、ふにゃチンかい」
ケラケラ笑って“商人”は、他の将校に声をかける。
商談がまとまると、将校と“商人”はいずこかに姿を消す。
マルクスは天幕に入って仕事をする。奴隷や使いの者に会い、届いた文書を読む。
ジジ……灯芯の先が焦げ、影がゆらめいた。集中力が途切れたマルクスは、芯の先を切ろうと立ち上がる。同時に、天幕の外から悲鳴と怒声が聞こえた。
「誰だ?」
天幕を開くと、“商人”が転がりこんできた。「やべっ」と暗闇で声が聞こえ、バタバタと足音が遠ざかる。
「やれやれ、助かったヨ……なんだ、ふにゃチン野郎か」
「財務官のマルクス・アントニウスだ。いったい何があった」
「ご立派な百人隊長さんと商談がまとまったんだけどサ」
「うむ」
「百人隊長さんが、友人も一緒にやろうとかいいだしやがって、アタシは御免被るっていったんだヨ」
「その友人からも銭がもらえるなら、それでいいだろうに」
「いや、金額は一緒。ふたりで折半するとかいってた」
「そりゃダメだろう!」
「うン。折半の比率を六四にするか七三にするかで揉めてるスキに逃げた」
「逃げて正解だ……それにしても」
「なに?」
「折半の比率とか、わかるものなんだな」
「は? なに、アタシのことバカにしてんの?」
「いや、そういうわけではない。気を悪くしたなら、すまなかった」
“商人”はガリア人のようだが、片言ながらローマ語をしゃべっている。
銭の勘定も必要だし、読み書きと計算ができておかしくはない。
「わかればいいんだヨ。やれやれ、今宵の儲けはフイか……そうだ。ふにゃチンさん、なんか買わないかイ」
「女はいらん。山菜の入った籠はどうした」
「籠はもう酒保に届けちまったヨ」
「なら用はない。帰れ」
「チッ。まあ、ローマに帰りゃ、女なんかいくらでもいるからネ」
「ローマに帰る? なぜそう思う」
マルクスが顔を闇に沈めて聞く。
「だって、南に向かってるじゃないカ」
「それだけで?」
「みんな知ってるサ。カエサルが神罰を受けたって」
「神罰ではない。呪詛だ」
「へえ」
“商人”はニヤニヤと笑った。
「カエサルは、ローマの神官の親分なンだろ? そいつを呪詛できるとはたいしたヤツもいたもんだ」
「呪いをかけたのはドルイドのウェルキンゲトリクスだ。知ってるか」
「知ってるヨ。カエサルの盃をもらってる子分じゃないカ。親分が子分に裏切られたんなら、やっぱ神罰だヨ」
「ウェルキンゲトリクスは最初にガリアを裏切り、今度はカエサルを裏切ったか」
“商人”がケタケタと笑った。
「ローマ人はヘンなことを考えるネ」
「どう変なのだ」
「カエサルは裏切ったかもしれないけど、裏切るガリアなんてどこにもないヨ」
ウェルキンゲトリクスは、アルウェニ族の出身で、ケルトの神々を信じるドルイドだ。
ガリア人という民族的概念はまだない。ないものは裏切れないのは道理だ。
「そういうものか」
「そういうものサ」
早朝。
ローマ軍団は、野営地からの出発を開始した。
といっても、歩兵中隊のように、後から出発する兵は、早朝の段階では、天幕を畳んで馬車にのせたり、荷物を整理するのに忙しい。
あわただしく男たちが駆け回る様子を、“商人”は野営地の外から眺めていた。
背が高く、胸も肩も分厚い男が、せわしなく駆け回っているのがみえる。
「やれやれ。ふにゃチンめ、朝からずいぶん張り切っちゃってまぁ」
“商人”は、大きなあくびをした。
昨夜のことを、思い出す。
「アタシの身の上を聞きたい? なに、どっちを聞きたいのサ」
「どっちとは?」
「ふたつあんのサ」
「両方教えろ」
「やれやれ。アタシは結婚して三人子を産んだ。そして、三人とも流行り病で死んじまった。旦那の両親は、アタシが穢れて呪われてると思ってネ。離縁されちまって、まあ、こういう商売をしてるってわけサ」
今のガリアでは、珍しい話ではない。
流行病は、いつも弱者を狙う。
「……もうひとつは?」
「おやおや。まだ聞きたいのかい?」
「聞きたくはないが、聞かせろ」
「今いったのは、表向きの話でネ。旦那は今でもアタシを愛してくれてる。旦那は、アタシじゃなくて自分が穢れて呪われてると考えた。だから、穢れに強いローマの神の加護を持ったローマの男の子種をもらおうとしてるってわけサ。赤ん坊ができたら、この商売は終わりだヨ。アタシは故郷の旦那のところに戻るサ」
マルクスは顔をしかめた。
今のガリアでは、ありえぬ話ではないが、聞いて気持ちのいい話ではない。
「……で、真実はどっちだ?」
「どっちもウソさ」
「おい」
「こういう商売をしてる女同士だと、身の上話の交換も行うからネ。こいつは、男の食いつきがイイ身の上話だ。アタシの身の上話なんザ、面白くもなんともない」
「いいから聞かせろ」
「酔狂だねェ。アタシも結婚して子供をこさえたけど、その子は死産で、旦那も気落ちして病にかかって、すぐに死んじまった」
夫の農地は、義弟が継いだ。
妻も引き取ると申し出があったが、断って故郷を出たのだという。
「いい話じゃないか。そっちにしろ」
「そいつをいっていいのは、買ってくれるヤツだけだゼ?」
「買ってやる。だからそっちにしろ」
“商人”は、また大きなあくびをした。
──ま、取引だからネ。次に身の上話をするときは、正直にいうサ。
行軍を続けたローマ軍団は、五日かけてディビオ(ディジョン)に到着した。
春先の雨で地面がぬかるんだせいもある。
野営地の天幕で、マルクスは第十三軍団長と会った。
第十三軍団長は、ディビオで秣と兵糧を集めていたローマ商人の文書をマルクスにみせた。マルクスは読んだ。頭の中で、軍団が野営地に持ち運んだ量と合わせる。
アウァリクム(ブールジュ)へ向かうには、足りない。
「……兵糧は十分だが、秣は不足しているな」
「ああ。残念だが、ここでしばらく足止めだ」
マルクスは“商人”の話を思い出す。
もし、カエサルが神罰を受けた話が広まっているのならば──
「軍団長。わたしに考えがある」
マルクスは、自分の考えを軍団長に語った。




