14.裏切りと呪詛
マルクス・アントニウスが軍団に合流すると、冷ややかな視線が周囲から向けられた。
軍団の冬営地になっているのはマルヌ川流域、後のショーモンのあたりである。
マルクスは軍団長の天幕に案内される。
「財務官アントニウス殿か。よくぞこられた」
「……出撃準備は、すでに命じたはずだが?」
「うむ。いろいろあってね。まだ進んでおらん」
マルクスは、怒りを押し殺して軍団長に語りかける。
「進んでいないとは、どういうことか。あなたはカエサルの命令を軽んじるのか」
「カエサル。うん、カエサルね。もちろん、総督閣下の命には従うとも」
軍団長の目が、探るようにマルクスを見る。
「それで? カエサルの状態はどうなんだ?」
「文書で伝えた通りだ。今は小康状態だ」
「そうか」
「それより、出撃準備はどうなっている。こちらも文書で伝えたはずだが」
「秣が足りん。ガリア人が刈り取りと運搬を止めたからな」
マルクスの目が、軍団長を睨みつける。
ガリア人が物流を止めて秣が足りないなら、軍団兵を送り出して刈りとればよい。それをしていないのは、誰かがサボタージュしたのだ。
理由は決まっている。カエサルが倒れた今、ガリアで戦うのがイヤになったのだ。
ガリアからの撤退は、もう決まったも同然。なら、苦労して秣を集め、ガリア人と戦う理由がどこにあろう。
──もう、我慢ならん。
軍団長を怒鳴りつけようと口を開いたマルクスの脳裏に、ウェルキンゲトリクスの、人を馬鹿にした顔が浮かんだ。つかみかかって逆に地面に叩きつけられた屈辱を思い出し、瞬時に頭から血がひく。
──こいつを怒鳴っても、秣は足りないままだ。
欲しいのは使える軍団だ。軍団を動かすための秣だ。軍団長に謝罪させても、マルクスには何の得もない。
大きく深呼吸。吸って。吐く。
「軍団長。秣を集めたい。兵を貸してくれるか」
軍団長の眉間に、皺が寄った。
「貸すことはできるが……兵がいうことを聞くかどうかは、わからんぞ」
軍団長の口調が、伝法なものになった。
「どういうことだ」
「兵はな。ガリアでの戦争は終わりだと思っている。これ以上の戦いは無意味で、無意味なことはしたくない。なぜなら、カエサルが山賊の襲撃を受けて倒れたのは、神罰だと思っているからだ」
「神罰か。だが、それだけならば……」
「もうひとつある。神罰を受けたのは、側近の財務官が手を抜いたからだ、という意識がな」
「側近の財務官……わたしのことか」
「そうだ。おまえさんは、カエサルの“三頭”だろう。カエサルの神罰を防げたのは、おまえさんだけ。おまえさんが手を抜いたからカエサルは神罰を受けた。兵はそう思っている」
言いがかりだ。
身近にいる誰かを戦犯にすることで、罪悪感から逃れようとしているのだ。
マルクスは、言いがかりが間違っている証拠なら、いくらでも出せる。
けれども、罪悪感から逃れようとする心を覆せるものは、持っていない。
──わたしが、“三頭”のもうひとり。プブリウス・クラッススだったら、どうする……ローマ一の資産家の息子であれば……
考えるまでもないことだ。
資産への期待を背景に、兵にいうことをきかせることができただろう。
金をばらまく必要すらない。ローマ社会のどこでもいつでも、「おれはクラッススとは親しい仲で」といえることが、どれほどの強みになるか。
そして“三頭”にはもうひとりいたが、ガリア人のウェルキンゲトリクスは、今や完全にローマの敵となった。
──では、わたしが、ウェルキンゲトリクスだったら……ん? ウェルキンゲトリクスだった……ら……?
ウィエンナ(ヴィエンヌ)から冬営地までの間、マルクスは主に船を利用した。
河湊を通過する際に、ウェルキンゲトリクスの回状も手に入れている。
そう長い文章ではない。書かれているのはケルトの言葉だが、ローマの言葉に近いので、丸暗記している。
「ケルトの神々を信じる者たちよ。立ち上がる時はきた。侵略者カエサルは倒れた。ローマの神々ですら、カエサルを見放したのだ。心あるものは、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスの下に集え。これなる男は、三ヶ月の禊を成し遂げた聖者だ。ウェルキンゲトリクスが示す、新しきケルトの神々の力で、ガリアを救済するのだ」
ガリアで、ウェルキンゲトリクスの立場は、強くない。
カエサルの家門をもらい、側近となって“三頭”のひとりとして活動していた事実は、誰もが知っている。
だからカエサルを裏切るにあたり、ウェルキンゲトリクスは、カエサルが神罰を受けたという「事実」を最大限に活用した。ローマの常勝将軍が、そこらの山賊に襲われ、敗北して負傷したのだ。これを神罰といわずして、なんといおう。
──ならば。わたしはカエサルの負傷を、神罰ではなくすればいい。
マルクスが思考を巡らせたのは、短い時間だ。
軍団長の顔を見据え、少しためらい、それから頭を下げた。
「策がある。どうか手伝っていただきたい」
ローマ軍団は、一個軍団が十個大隊で構成され、一個大隊は三個中隊、一個中隊は二個百人隊からなる。
百人隊は八十人定員だが、ガリアの地で消耗し、今では半分くらいになっている。
それでも、一個軍団は六十の百人隊がいて、六十人の百人隊長がいる。
冬営地の広場に集められたのは、二個軍団の二人の軍団長と、百二十人の百人隊長だった。ガリアやゲルマンの傭兵たちも、代表をだしている。
進み出たマルクスは、分厚い胸いっぱいに息を吸い込み、大音声をあげた。
「諸君! 我らが総督、偉大なるユリウス・カエサルを襲った悲劇を聞き及んだ者もいるだろう! カエサルは山越えの途中で負傷し、今は療養しておられる! 復帰には今しばらく時が必要だ!」
広場の全員がざわついた。もちろん、全員が噂では承知している。だが、カエサルの“三頭”であるマルクスの口から語られると、印象はまるで違う。
「諸君には知っていただきたい! カエサルの負傷は裏切りによるものだ──呪詛なのだ!」
広場が、さらにざわつく。
「裏切り者の名は、ウェルキンゲトリクス! ガリア人だが、カエサルに取り立てられ、ユリウスの家門をいただき、そしてわたしと同じカエサルの“三頭”であった男だ! あろうことか、この男が、裏切ったのだ! 呪詛という方法で!」
怒りのボルテージが、あがっていく。
裏切りへの憎しみは、人類史における普遍的な感情だ。
「カエサルに呪詛をかけたウェルキンゲトリクスは、アウァリクム(ブールジュ)にいる。我らは準備が整いしだい、アウァリクムに向かい、これを殲滅する! 裏切り者は、皆殺しだっ!」
マルクスは、広場から立ち去った。
軍団兵の感情を煽るだけ煽っておいて、証拠は持ち出さない。
マルクスに向けられる感情も、証拠のない、印象からくるものだからだ。
「ここに、ウェルキンゲトリクスの回している回状がある。諸君の中に、ケルト語がわかるものはいるか」
「わたしが」
「わたしも読めます」
「よし、では読んでくれ」
軍団長が、樹皮をなめした書状をわたす。
ケルト語がわかる将校が、つっかえつっかえ、読み上げる。
「じゃあ、読むぞ。ケルトの神々を信じる者たちよ。立ち上がる時はきた。侵略者カエサルは倒れた。ローマの神々ですら、カエサルを見放したのだ。心あるものは、アルウェルニ族のウェルキンゲトリクスの下に集え。これなる男は、三ヶ月の……おい、この言葉はなんて読むんだ?」
ケルト語の“禊”という単語は分化していない。“祈祷”や“祝福”など、宗教的行為の言葉がすべて同じ単語で表現される。
翻訳は、前後の文章から言葉を選ぶ。
「“呪い”じゃねえか?」
「“呪詛”の方がしっくりこないか?」
「それだ。となると……三ヶ月の“呪詛”を成し遂げた者だ。ウェルキンゲトリクスが示す、新しきケルトの神々の力で、ガリアを救済、いや解放かな。ガリアを解放するのだ……こりゃ、とんでもないヤツだぞ」
疑う余地のない、証拠がでた。
全員が、そう思った。
「やっぱりそうだったか」
「おかしいと思ったんだ。これまでローマの神々のために戦ったカエサルが神罰を受けるなんざ、どう考えても筋が通らねえ」
「ああ、まったくだ」
「おれらも、このまましょぼくれてローマに帰るわけにはいかねえぞ。たとえ帰るにしても、まずは裏切り者に罪の報いを受けさせてからだ」
「おお、やるぞ!」
怒りさえ、あれば。
正しい怒りさえ、あれば。
ローマ軍団は、自分たちで考え、動き出す。
軍団長が作戦を考え、百人隊長が命令をくだし、軍団兵が手足となって動く。
目的地は、アウァリクム。




