12.反転
カリカリと、パピルスの上を、ペンが走る。
『文章は、用いる言葉の選択で決まる。日常使われない言葉や、仲間うちでしか通用しない言い回しは、船が暗礁を避けるのと同じで、避けなければならない』
ペンを持ち上げ、読み直す。
ふっ、とカエサルの口元に会心の笑みが浮かぶ。
カエサルにとって、著述は快楽に直結している。
うまいこと書けると、その日は一日、とても気分がいい。
──まあ、現実逃避なのだが。
春が近づいてきた。戦争の季節だというのに、カエサルの元に届くのは、悪いニュースばかりだ。
ガリア中央に十個軍団を集中配置して冬営させたせいで、ガリア各地から中央への、物流の太い流れができてしまい、あちらこちらで襲撃を受けている。
──それも狙いのうちだったんだが……これはよくないなぁ……
ガリア側も、これまでの六年間で、ローマが嫌う戦い方を学んでいる。
少数で、散発的に襲う。
襲ったら、すぐに逃げる。
追い詰められそうになれば、散る。
ローマの強さは、集団戦だ。ガリアのどんな頑丈な都市も、攻城兵器をそろえたローマ軍団が相手では、太刀打ちできない。
なら、都市に籠もらず、逃げ回るのがよい。
──ゲルマニアやブリタニアの遠征で、ローマ軍の戦術も読まれてしまったか。
カエサルからしてみれば、どこかの部族が団結して反ローマに立ち、都市に籠もってくれるのが一番よかった。そうなるように挑発したし、追い詰めもしたが、今のところ、カエサルの思惑にのってくれた部族はない。
──だらだらと何年も戦うわけにはいかない。やはり、ポンペイウスのアドバイス通りに、今年は河川の物流を押さえて来年に備えるか。
まずは六個軍団の冬営地であるアゲディンクム(サンス)を目指す。
合流した後は、ルテティア(パリ)で族長会議を召集する。
出席が遅れた部族を、全ガリアの和を乱した存在として、叩き潰す。
賠償として、川湊を持つ都市と利権を獲得する。
──どこにする……ケナブム(オルレアン)は二年目の冬営で利権はすでに獲得済みだ。ここは、アウァリクム(ブールジュ)を狙うのがいいか。うーん……まあ、移動しながら、ゆっくり考えるか。
考えがまとまらないまま、カエサルはガリアに向かった。
今年のガリア入りは、ガリア属州の西端にあるナルボから、中央高地を突破して北上する。軍団兵に支払う銀貨や、ナルボで陸揚げされた葡萄酒を携えての旅である。
カエサルは、護衛の騎兵隊に加え、馬車を何台も引き連れて雪の山中へと分け入る。
これを油断と呼ぶか。
それとも慢心と呼ぶか。
「きたぞっ! お宝だっ!」
「放て、放てえっ!」
はたして、一行を待ち伏せていたのは、ガリアの山賊たちだった。
高所から、不意打ちの弓矢と投石が、騎兵に降り注ぐ。
安い黒曜石の鏃は貫通力が低い。騎兵は無事だが、馬が暴れる。
手綱をひき、太ももで胴を挟み、馬を落ち着かせようとする。
「どうどうっ、どうっ!」
「下がってください、カエサル!」
「こいつら、思ったより数が多い!」
護衛が必死に防戦につとめる中、カエサルが乗った馬が後方に駆ける。
逃さんとばかりに、弓を構えたひとりの山賊が、矢を放った。
尻に矢の刺さった馬が、悲しげに嘶き、棹立ちになった。
しばらくの後。
ウェルキンゲトリクスはゲルゴウィア(クレルモン・フェラン)にいた。今年はここでカエサルと合流する予定である。
そこへ、顔を強張らせた若いドルイドが駆けてきた。
「アニキ、大変なことになりましたぜ」
「どうした?」
若いドルイドは、声をひそめた。
「カエサルが、ケウェンナ山地(セヴェンヌ山地)で山賊に襲われたそうです」
「なに? カエサルはどうなった? 無事なのか?」
「それが……どこにいるのか、誰にもわからんのです」
「そいつはまずいな」
時期がよくない。
ガリアで反ローマの機運が高まりつつあるこの時に、聞いた人間が好きなように判断できる噂が流れている。
ウェルキンゲトリクスは馬を走らせ、ヴィエンナ(ヴィエンヌ)へ向かった。
カエサルが生きていれば、向かうのはロダヌス河(ローヌ河)の河川交通が確保できるこの場所だと判断してのことである。
──これは……やはりそうか。
ヴィエンナの町は、近づくにつれ物々しい雰囲気が察せられた。
軍兵の数が多く、人の出入りを警戒している。
ウェルキンゲトリクスは、町に入る前に、一緒にきた若いドルイドに指示を出して別れた。
それから、ローマの商人が買い取った豪族の屋敷に向かう。水路が壕のように屋敷を囲んでいる。
「財務官殿、怪しいガリア人が面会を求めております」
「わたしにか?」
「はい。お名前を確かに。マルクス・アントニウスに会いたい、と」
「会おう。中庭に通せ」
扉から入ってきたのは、胸も肩も分厚い、独特のシルエットの持ち主だった。
黒い顔の中で、瞳がぎょろっ、と動く。
「お忙しい中、面会を許していただき、ありがとうございます。財務官殿」
「お前か……ゲルゴウィアにいるのではなかったのか」
ウェルキンゲトリクスは、マルクスに恭しくお辞儀した。
顔を伏せたまま、話しかける。
「カエサルに変があったと聞き、駆けつけました。お会いさせていただければと」
「その話、どこから聞いた」
「ゲルゴウィアにて。噂です」
「……今はだめだ」
伏せた顔を、しかめる。
「噂を打ち消すには、正確な情報を流すのが一番です。どうかカエサルにお目通りを」
「だめだと言っている」
吐息をついて、顔をあげる。
「おい。無駄に膨らませた筋肉は飾りか、このヘタレ」
マルクスが、キョトン、とした顔になり、続いて真っ赤になる。
「きさまっ……」
「聞け。このバカ。すでにカエサルが襲われた噂はガリアの半ばまで広がっている。このまま放置すれば、遠からず、ガリア全土が擾乱の巷となるぞ」
「それは……だが……」
「なのに、わたしを会わせない判断をするか。これでは、カエサルの状態も察せられるというものだ」
「ぐぐ……っ」
カエサルが死んでいれば、ここに留まっているはずがない。
遺体を船で運び出してローマに向かっていよう。
カエサルは生きている。が、昏睡状態か何かで、まともに会話ができない。
「わたしに協力を頼めばよいのに、それもできぬ。ローマ人の誇りとやらも、底が知れるというものだ」
「いわせておけば……っ」
激高して掴みかかろうとするマルクスを、ウェルキンゲトリクスはいなして足をはらい、地面にたたきつける。
入口側にいた護衛のローマ兵が、背後から剣を抜いて迫る。
ウェルキンゲトリクスは、地面に倒れたマルクスをまたぎ、中庭を奥に進む。
階段を下がったところに倉庫があり、奥は船着き場となっていた。一艘の川船がいて、若いドルイドが乗っている。
ウェルキンゲトリクスが乗り込むと、川船が漕ぎ出す。ここまで言葉はない。
川船は、ヴィエンナの水路を滑るように進む。頭上から、ローマ兵の慌てる声が何度か聞こえてきた。
やがて、川船はロダヌス河に出た。北へ向かう。
「逃げきれたようですね、アニキ」
「……バカ野郎め」
「アニキ?」
「いや、これからのことを考えていた」
カエサルが人事不省であろうことは、わかっていた。
それでも、マルクスと会ったのは、ウェルキンゲトリクスなりのけじめだった。
カエサルの“三頭”と呼ばれた三人の中で、生きているのはウェルキンゲトリクスとマルクスの二人だけだ。
もし、生き残っていたのがマルクスではなく、プブリウス・クラッススの方であれば、これほどの危険はおかさなかった。
プブリウスは、出自の怪しいガリア人にも、如才なく接した。今日のようにウェルキンゲトリクスが面会を申し込んだら、そのまま捕らえ、地下室にでも放り込んだろう。
──プブリウスにとって、わたしはライバルでもなんでもない。格下の存在だからな。嫉妬する必要など、感じまいよ。
マルクスは、ウェルキンゲトリクスを妬み、動向を常に探っていた。
元から粘着質な気質もあろうが、そういうむき出しの感情を向けてくるマルクスに、ウェルキンゲトリクスも、どこか親しみのような感触を抱いていた。
──あるいは、カエサルが危篤となったこの危機に、我らが手を取り合えるような、そんなことも……まあ、甘い考えではあったな。
ウェルキンゲトリクスに、若いドルイドがおそるおそる、という風情で声をかけてきた。
「アニキ、これからどうなります?」
「カエサルがどうなるかしだいだが……ローマ軍は撤退するな」
「やっぱり、そうなりますか」
「元から、ローマの法を逸脱してガリアを転戦してるんだ。新しい総督が決まっても、戦争を続ける根拠がない。ひとまずはローマ軍はガリアから撤退する」
クラッススに続いてカエサルまで退場となれば、残ったポンペイウスはローマから離れることができない。
「アニキは、どうするんで?」
ウェルキンゲトリクスは、ユリウスの家門をもらっている。
ローマに亡命するという手も、使えなくはなかった。
「わたしのやることは、決まってる。昔も今も、これからも同じだ」
ケルトの神々と、ローマの神々の習合だ。
疫病に強いローマの神々の加護をガリアの地にもたらす。流行り病を根絶する。
ウェルキンゲトリクスの人生の意味は、そのためにある。
「わたしは最高神祇官になる」
部族ごとにばらばらなガリアを、宗教の権威で統一するのだ。




