11.禊と夢物語
ケルトの中央高地を水源に持つアリエ川。
リゲル河(ロアール河)の支流であり、落葉照葉樹の森が周囲に広がる。
ゴツゴツと節くれ立つ枝を広げた欧州楢の老木は、真冬のこの時期には葉を落とし、荘厳なシルエットをむき出しにしている。
近くには泉もあり、ケルトの祭祀に必要な舞台装置として、完璧なセットだ。
ドルイドとして修行した者にとって、懐かしさすら感じる場所だ。
──とはいえ、一ヶ月もいれば、さすがに飽きる。
ウェルキンゲトリクスは、髭が伸び放題の顔を撫でた。指の腹にねとりと脂を感じる。
いつもながら、垢にまみれた体で“禊”をしていることに、おかしみを感じる。禊を放り出して、森の外に出るのは自由だが、ガリアで最初の最高神祇官を目指すウェルキンゲトリクスに、その道を選ぶことはできない。
カランコロンと、森の境界を示す鳴子が響く。
「アニキ、今日のメシです」
杖をもった若いドルイドが食料袋を抱えてやってきた。
「ありがとう。外の様子はどうだ?」
「ジジイども、数は減りましたが今も交代で見張ってます。アニキの“禊”が終わるまで、断固として逃さない気ですよ」
「やれやれ、嫌われたものだ」
冬至祭の後。ドルイド総会に参加しようとしたウェルキンゲトリクスを待ち構えていたのは、各地から集まった九人の老ドルイドだった。
驚くウェルキンゲトリクスに対し、九人はウェルキンゲトリクスに穢が集まっており、この森で三ヶ月の禊を終わらせなければ、大いなる災いがガリアに訪れるだろうと警告した。
それから一ヶ月。ウェルキンゲトリクスは禊の日々である。
食事は外から運んでもらえるが、雨風と寒さをしのぐのが大変だ。今はドルイド総会で使う資材を保管する小屋を改造して寝泊まりしている。資材の中には、冬至祭で燃やすねぶたの材料もある。
「アニキ、いつまでこんなことを続けるんですか?」
「禊はあと二ヶ月ある」
「いいんですか、そんな悠長なことしてて」
「老人たちに恨まれてるのは、わかってる。殺されなかっただけ、マシだと思うさ」
「はっ。ジジイどもに、アニキを殺す度胸なんかありゃしませんぜ。なんせ、アニキはカエサル総督の“家門”をいただいてる身だ。アニキに手をだしたら、カエサルが黙っちゃいない」
「老人たちも、ローマとの距離を測りかねてるんだろう。わたしが三ヶ月の禊を終わらせられれば、それが今度は逆にわたしの敬虔さを証明することになる。悪いことばかりじゃないさ」
三ヶ月の禊の実績は、二年後を狙っている最高神祇官就任にも役立つとウェルキンゲトリクスは考える。
「新しいケルトの説話はどんな具合だ」
「けっこうイイですよ。まだ文字にはしてませんので、歌で覚えてます」
「聞かせてくれ」
「はい。では、ユピテルがドルイドの夢にでて、ガリアへ向かうよう託宣を告げる場面から」
朗々と声を響かせる若いドルイドの歌に耳をすませる。
ウェルキンゲトリクスの目指す、ケルトの神々とローマの神々を習合させる道は、まだ半ばだ。今年のドルイドの総会では、神々の物語の整合性をとるつもりだった。
若いドルイドたちに、新しい説話を作らせて確認できるのも、禊の利点である。
「うん。なかなかいい。あと、ユピテルがドルイドに旅の加護を与える場面もいれよう。これで、メルクリウスが神々の中でも一頭地を抜いた存在ということになる」
「おお、さすがはアニキだ。やっぱメルクリウス様は特別っスからね」
ケルトとローマの神々の習合を進めようとしたウェルキンゲトリクスが気づいたのは、若いドルイドほど、習合への違和感がないことだった。
ウェルキンゲトリクスでさえ、ケルトの神の神性が捻じ曲げられるようで落ち着かないのに、若いドルイドは積極的にケルトとローマの神を一体化しようとする。
では、不信心なのかというと、逆である。
若いドルイドも、ケルトの神々を厚く信仰している。だから、メルクリウスやアポロ、マルス、ミネルウァら、自分の信じる神のエピソードが説話に組み込まれると喜ぶ。
──逆に、老人は神の新しい説話を作ることそのものが、不信心の証だと考える。
ガリアのドルイドは若い頃は旅の暮らしだ。ほとんどの者が自分の村から徒歩で半日の移動範囲で一生を過ごす時代だ。異なる部族間では、話を聞いてもらうことでさえ、高い警戒心を乗り越える必要がある。その点で、ドルイドであることは、神への信仰心を身分証明として使える。
ドルイドにとって不信心を疑われることは、存在価値を失うことに等しい。
──二十代までの若いドルイドは、得度の前からケルトの神とローマの神が混ざっているのが普通だ。だが、五十代以上の老人となると、ドルイドとして修行していた頃のローマの神は余所者だった。
信仰には粘土のような可塑性がある。
自分の信仰の形を定めて修行した後は、容易に変えられない。
「ところでアニキ。本当に禊が終わるまで森から出ないで大丈夫なんですか? 春になっちまいますよ」
「そこは少し心配だな。ローマ軍の様子はどうだ?」
「さすがに、ローマ軍が六個軍団も集まってるアゲディンクム(サンス)にちょっかいを出すヤツはいませんよ。ですが、西のケナブム(オルレアン)の方で、自分ところにきたローマの商人を襲って、金を奪ったヤツらがいるそうです」
「ケナブムというと、カルヌテス族か」
ケナブム(オルレアン)は、ローヌ河水系の重要拠点だ。
ローマ軍の攻略目標のひとつで、カルヌテス族も、自分たちが今年中に襲われることは理解しているだろう。
セーヌ河水系のアゲディンクム(サンス)からは百三十キロメートル。軍団でおよそ六日の行程になる。犯人が逃げていれば追いかけるには遠いし、少数の跳ねっ返りの仕業だと主張されれば、部族ごと踏み潰す正当性にも乏しい。
──カルヌテス族が先手を打ったのか、それともローマに打たされたのか。
どちらもありえる話だとウェルキンゲトリクスは思う。
ガリアのどんな都市でも、六個軍団で囲んで揉み潰せば、簡単に落ちる。だから、ガリア側は兵粮と秣を奪い、自由に動けなくするしかない。
「略奪の動きは、他にあるか?」
「そりゃあ、あちこちにありますよ。なんせ、ガリア中央にローマ軍が十個軍団もいるんだ。河も街道も、麦やらオリーブ油やら葡萄酒やらが動きまくりですし、略奪だって多くなるってもんです」
「ああ、そうか。物流が増えれば、略奪も増えるか」
葡萄酒のような嗜好品は、ガリアでは生産量が乏しい。ローマ文明圏から運ぶ必要があるので、狙われやすい。
「その程度なら、放置しても大丈夫か……だけど……」
「なんか、気がかりでもありますか、アニキ?」
「カエサルも大変だろうな。ガリアに軍団を置けば、不満もでるし、背後の物流が狙われる」
「まったくです。ジジイたちも、ローマが嫌いでアニキに嫌がらせをするくらいだったら、ガリア全土を蜂起させて自分らでカエサルと戦えばいいんだ」
「おいおい。どうあってもドルイド側が勝てないだろ、それは」
「はい。それでジジイたちがカエサルに一掃されれば、ガリアもきれいになるってもんですよ。その後で、アニキとオレらで新しい教団を旗揚げしましょうや」
若いドルイドは、ふんす、と鼻息が荒い。
冗談だとわかっていても、心惹かれるものをウェルキンゲトリクスは感じた。
──旧弊なドルイドたちが部族間を渡り歩いて扇動し、ガリア全土でローマに対して一斉蜂起か……夢物語だが、もしそんな夢物語が実現できれば、その後の宗教改革は、うまく進むかもな……
ウェルキンゲトリクスが、妄想を弄んでいる間に、ガリア戦争七年目の春がやってきた。




