10.“偉大なる”ポンペイウス
ポンペイウスという男は、自堕落の塊である。
後の世であれば、誰とも会わずに引きこもりになり、日々、デイトレードで生活する、そんな男である。食事はポテトとピザを頼み、コーラで流し込む。
古代地中海世界では、そのような隠棲は望むべくもない。
ポンペイウスの視界には、常に誰かがいる。奴隷であったり、被護者であったり、とにかく誰かがいて、ポンペイウスの精神をささくれ立たせた。
視界に誰かがいて、動いている。ただそれだけのことが心の重荷になるのだと説明しても、誰も理解してくれなかった。ただ一人。ユリアをのぞいて。
──ユリアは、いい子だった。
カエサルの娘のユリアは、ポンペイウスの妻だった。
父であるカエサルより年上の夫を、ユリアはひたすら甘やかした。
「わたしの可愛いマグヌスちゃん」が、ユリアのポンペイウスへの呼びかけだった。
ユリアは、人を使うのがうまかった。誰とでも優しく気軽に接することができるので、ユリアが一緒だとポンペイウスは「あれ」とか「それ」とかだけいっていればよかった。あとの細かいところは、全部、ユリアが指示してくれた。
去年、ユリアが産褥死した時、ポンペイウスの胸には大きな空洞ができた。
そして今年の夏、さらなる打撃がポンペイウスを待ち構えていた。
「クラッススは罠にかけられた、と考えていいだろう」
「罠を仕掛けたのは誰でしょうか」
「アルメニアに決まってる。新王か、その取り巻きかはわからんが……どちらにしても、あのあたりは反ローマの気風が強い」
長椅子にでろん、と横たわったまま、ポンペイウスはカエサルと話す。
カエサル、ポンペイウス、クラッススの“三頭”政治で、中軸にあったのは、常にクラッススだった。カエサルは人付き合いはよいが見栄っぱりなので、政治においては不利になることも多かった。ポンペイウスにいたっては、頭が抜群によいだけの面倒くさがりだ。
クラッススに細々とした調整が必要な仕事を押し付け、カエサルの娘に甘やかされながら天寿をまっとうするつもりだったのが、とんだ災難である。
「狙われたのは息子の方だ。アルメニアが用意した案内人について偵察にいったら、待ち構えていたパルティア軍に殲滅させられた」
「それは……無念だったことでしょう」
「ああ。これでクラッススも頭に血がのぼったんだろう。息子を助けに飛び出し、自分も首をとられてる」
ポンペイウスは、ふんっ、と鼻をならした。
「おかげで、残った我らが苦労する。カエサル、ガリアの安定までどのくらいかかる?」
「……三年、いただければと」
「は?」
ポンペイウスは、驚いてカエサルの顔をみつめた。
冗談をいっているのかと思ったが、カエサルは真面目だ。声に苦渋の色がにじむ。
「カエサル。きみは十個軍団を、ガリア中央に集中配置させたよな?」
「させました。あなたのアドバイス通り、六個軍団はアゲディンクム(サンス)に」
「なら、一年あればガリア中央を焼け野原にできる。そしたら、後片付けを部下にまかせて、きみはローマに帰ってこい。わたしの執政官の任期が終わった後は、きみが交代して執政官をやるんだ」
「それは、法的に問題がありますよ。ポンペイウス」
「ローマの安定がなくなれば、法もなにもないだろう」
ポンペイウスは、憮然とする。
──また、誰かにいいかっこうしたくて、見栄をはったな、このヤロウ。
カエサルという男を、ポンペイウスは高く評価しているが、見栄をはるためにウソをつくのはいただけないとも思っている。
「いいから、来年はガリアの拠点を潰して奪え。ロダヌス河(ローヌ河)、セクアナ河(セーヌ河)、リゲル河(ロアール河)。ガリアの主要水系を三つとも押さえれば、ガリアの騒動など怖くない。あとは、アキテーヌのガルンナ河(ガロンヌ河)だが、ここは後回しで大丈夫だろう。なんなら、わたしがスペインに行った後でやってもいい」
「わかってはいるのですが……」
「黙って聞け。河川を支配すれば、兵粮も秣も、自由に運べる。前線での勝ち負けは時の運だが、低コストで兵粮と秣を輸送できれば、負けてもすぐに再起できる。いずれ根をあげるのは、弱小な側だ。ようは、無理をせず、コツコツと勝てばいいんだ」
「コツコツと勝つ、ですか」
「ん……いや、カエサル。きみの場合だと、すぐ調子にのってしまうか。よし、コツコツと負けろ。きみが大負けをしなければ、いつか相手がミスをする。そこで、がっ、と反撃して殴り倒すんだ。トドメを刺すまで手を止めるな」
ポンペイウスの常勝不敗は、兵站の強さに支えられている。
ヒスパニア遠征でも、海賊討伐でも、ポントス遠征でも、ポンペイウスは補給を万全にし、勝てる戦いの形を作ってから敵をすり潰した。
「そうしたいのは山々なんですが……こちらが補給を万全にすると、敵の方が逃げ散って戦えずじまいになるんですよ」
「そこにはコツが必要だ。敵に夢をみさせてやれ。まだ勝てるかもしれない、たとえ負けてもやり直せる、という夢を。夢があれば、踏みとどまって戦ってくれる」
「夢をみさせる、ですか。わたしはどうもそのあたりがうまくなくて……」
「きみは、自分は見栄っぱりなのに、相手の夢は躊躇せずに踏みにじるタイプだからな。そんなんだから、小カトーみたいな潔癖症に拒絶されるんだ」
「耳が痛いです。わたしは、小カトーくんの潔癖症、けっこう好きなんですけどね」
「きみの好きは、優越感が透けてみえるんだよ」
「それは今は関係ないでしょう」
カエサルは苦笑した。
娘のユリアが死んだ時には、ポンペイウスはずいぶん落ち込んでいた。今は立ち直ったようだ。
「ルッカ会談で、あと三年と決めたのですから、それまでに目処をたてますよ。もちろん、一年ですむようでしたら、それで」
「うん。前線の将軍に後方から時間制限するのはよくないから、そこは許す。だけど、クラッススが死んだことで、ローマを立て直せるのは、カエサル。きみだけになったんだからな。そのことを忘れるんじゃないぞ」
「あなたがいるじゃないですか、ポンペイウス」
「わたしのような、怠け者に頼るんじゃない。若いんだからきみが働け」
ポンペイウスは、シッシッ、と手を振った。
会談の間中、ポンペイウスは長椅子に横になったままだ。心は立ち直ったが、体には疲れが溜まっているようだとカエサルは思った。
──カエサルは元気そうだ。こういうのは、やはり年の順だな。
カエサルが立ち去った後、ポンペイウスは胸をさする。
じんわりと体に溜まったままの疲労に、顔をしかめる。
医者に診てもらったし、祈祷も受けたが、疲労は一向に抜けない。
──どこか痛むわけでもなし。年のせいかな。
年のせい、というのは合っている。
慢性腎臓病。
ポンペイウスのかかっている病気だ。文明が発達した後であれば、誰もが罹る可能性のある病気で、透析で進行を緩和できる。
腎臓は沈黙の臓器だ。自覚症状はほとんどでない。尿を検査すれば、今のポンペイウスの糸球体濾過値(GFR)は五〇%を切っていることがわかるだろう。
この程度なら、透析を使わずとも食事療法で病気の進行を遅らせることができる。
だが、回復はしない。
腎臓病は、内蔵の機能低下による病だ。病原菌やウィルスなどのミクロの侵入者を撃退すれば回復する病ではない。
天賦の軍才を持ち、数々の武功に輝く“偉大なる”ポンペイウスであったが、この時期より、キレ味を失うことになる。
軍事の才は、頭の中にある勝利の幻想を、いかに現実にするかで決まる。
味方が動けば、敵も動く。独りよがりな勝ち筋がみえただけで思考を打ち切るようでは、どれだけ高い閃きをもっていても、戦場では役にたたない。敵の動きと狙いを封じるため延々と指し手を考え続ける精神的な持久力こそが、軍才の根幹だ。
持久力が足りなければ、考え続けるのが途中で面倒になり、思考を投げ出してしまう。
そして、慢性腎臓病による疲労は精神的な持久力にも影響する。
五年後。
ファルサロスの戦いにおいて、ポンペイウスは騎兵の突撃でカエサルを圧倒することで勝利を求めた。ポンペイウスが騎兵戦力で優位であったのは間違いないが、若い頃の彼であれば信じられないような、雑な采配であった。
この時のポンペイウスの糸球体濾過値(GFR)は一五%。
むくみや心不全の症状にも苦しめられていた。




