9.ガリア最高神祇官
後の暦でいえば、紀元前五十三年。ガリア戦争は六年目を迎えた。
本来なら、カエサルのガリア総督としての任期は、五年で終わりのはずだった。ルッカ会談によって四年間の延長があったことで、今もカエサルはガリアにいる。
冬の間中、カエサルはガリア戦争をいかに終わらせるかについて考え続けた。
結論は出なかった。
相手が誰であろうが、カエサルは戦場でなら勝てる自信がある。しかし、戦場でどれだけ殺しても、ガリア人の心までは奪えない。負けたガリア人は敗北の憎しみを腹のうちにため、カエサルの前で頭だけ下げて心の中で舌をだす。これでは、ガリアが平定できるはずもなかった。
「だからといって、負けてやるわけにもいかんしな」
戦の季節が戻ってくるや、カエサルはネルヴィ族を集中的に攻めた。弟キケロの冬営地を囲んだことでローマの敵となったネルヴィ族に遠慮は無用だ。町を焼き、家畜を奪い、捕らえた奴隷を売り払う。
続いて、ルテティア(パリ)で族長会議を召集する。
遅れた族長を糾弾するなどして、あえて威圧的にふるまう。
これは計算の上での行動だ。ガリア人も、全員が一枚岩ではない。カエサルが威圧的にふるまえば、一部のガリア人は怒る。同時に、そのガリア人の足を引っ張りたい別のガリア人が、カエサルによしみを結ぼうとする。統治の基本は、分断だ。
分断の種を植え付けたところで、カエサルは東に向かった。
目的は、レヌス河(ライン河)からモサ河(マース河)へ至る地域の焦土化である。昨年、サビヌスとコッタが途中で失敗した焦土作戦を完遂することで、カエサルは報告書では悪く書かざるをえなかったふたりの弔いとした。
焦土作戦が終わった後、カエサルはラビエヌスと合流した。
「久しぶりですね、カエサル……顔色が、ずいぶん悪いですよ」
「ここまでのところ、手応えが悪くてな。何かいい情報はあるか」
「アンビオリクスの居場所がわかりました。レヌス河の向こうです」
ゲルマン人も、一枚岩でないことはガリア人とかわらない。
レヌス河のすぐ東岸にいるゲルマン人が、ラビエヌスに情報をもたらしたのだ。
「捕らえられそうか?」
「無理だと思いますよ」
「そうか……そうだよな。そうなるよなぁ」
人口密度が低く、食料も乏しいゲルマニアの地に隠れたアンビオリクスを捕らえることは、現実的とはいえなかった。
「だが、ゲルマニアに攻め込んで痛めつければ、誰かがアンビオリクスの首を手土産にもってきてくれるかもしれん」
「あまり期待はできませんよ。もうどこかで野垂れ死にしてるかもしれませんし」
「そんなこと、いうなよー」
だが、結局はラビエヌスのいう通りとなった。
レヌス河を渡河したカエサルの元に、アンビオリクスを見かけた、という情報はひっきりなしに届いたが、どれも不確定で、本人にはたどり着けなかったのだ。
夏が終わり、ガリアの地に戻ったカエサルは、再び族長会議を開いた。アンビオリクスの代わりに、見せしめとして別の部族で反乱を起こしたガリア人をむごたらしく処刑した。
その夜のこと。
「カエサル」
「……ん? おお、ウェルキンゲトリクスか! 久しぶりだな!」
「はい。今日は、アルウェニ族の族長の付き添いとしてきております」
「そうか。そうか」
満面の笑みで、カエサルはガリア人の青年ドルイドを出迎えた。
ウェルキンゲトリクスが、左右を見回す。
「誰か探しているのか。ラビエヌスか?」
「いえ。マルクスです」
「マルクス? おまえ、あいつと仲良かったっけ?」
「正直にいうと、悪いですね。ですが、一緒に話したいことがありまして」
「わかった。おい、誰かマルクスを呼んできてくれ」
マルクス・アントニウスは、ウェルキンゲトリクスをみると、露骨に舌打ちした。
「何か用か、ガリア人。わたしは忙しいんだが」
「安心してください。久闊を叙すつもりはありません」
「……」
「ローマ軍の、今年の冬営地を確認したいのです」
「秘密だ」
ウェルキンゲトリクスは、カエサルに目で問いかけた。
「ウェルキンゲトリクスは、我が家門だ。教えてやれ、マルクス」
「……十個軍団を、二個、二個、六個と配置する。二個軍団をトレウェリ族領に。二個軍団をリンゴネス族領に。六個軍団を、セノネス族領アゲディンクムに駐屯させる」
ガリア中央に十個軍団。
しかも、六個軍団を集中配置である。
明らかに、カエサルはガリア中央での戦いに備えていた。
「ローマ軍は今年は渡河してゲルマニアを叩き、昨年には渡海してブリタニアを叩きました。来年にガリアで戦いがあっても、負けた側が後背地に逃げて再起することはできません。わたしの理解はよろしいでしょうか」
「そうだ」
ウェルキンゲトリクスを睨むマルクスの瞳は暗く、鋭い。
「カエサル。お話があります」
「なんだ」
「ガリアから一時撤退する、とはいきませんか」
「うーん。無理だなぁ」
「ガリアが……ローマの同盟国となれば、どうでしょう」
ローマは、同盟国から依頼があれば軍を送り、仕事が終われば帰る。
シリア属州総督として東方に赴いたクラッススは、同盟国のアルメニアの依頼を受け、パルティアと戦うため軍を率いている。
ガリアでも同じことができないかとウェルキンゲトリクスは提案するのだが。
「だめだ」
カエサルはにべもない。
「ガリアには、王がいない。王の代わりになれそうな者もいない。ローマの同盟国となるには、ガリアのことに責任を取れる指導者が必要だ」
「王ではなく、ドルイドの長……ガリアの最高神祇官であれば、どうでしょう」
「ガリアに最高神祇官がいるのか?」
「いません」
「ではだめだ」
「わたしが」
ウェルキンゲトリクスが、一歩前に踏み出した。
「わたしが、なります。ガリアの最高神祇官に。そしてカエサル。あなたに同盟国としてお礼をのべ、撤退を勧告します。それでは、だめでしょうか」
カエサルは、ガリアの青年を見据えた。
「何年かかる?」
「五年……いえ、三年あれば」
「本気だな?」
「本気です」
ウェルキンゲトリクスは、ローマとケルトの神々の習合に手応えを感じていた。
年末にはドルイドの総会を開き、ケルトの神話とローマの神話を習合させる。ガリアではメルクリウス信仰が盛んだが、ローマと習合するのであれば、ユピテルを主神にした構成に切り替えたい。
「このウソつきめ」
マルクスがウェルキンゲトリクスを罵った。
「ドルイドの総会に参加するのは、若いドルイドだけだ。年老いた、部族への発言権が大きなドルイドはいない。最高神祇官を名乗ったところで、意味はない」
「そうなのか?」
「はい、カエサル。調べました」
マルクスの指摘を、ウェルキンゲトリクスは否定しない。
「そのとおり。だから、三年で最高神祇官になれるといいました。老人がいなければ、反対も少ないはずです。根回しも最小限ですむ」
「やはりか。カエサル。こいつの言葉は信じるに値しません」
「いいや。だからこそ、信じてもらいたい。カエサル、あなたならわかるはずだ」
「ふむ。おまえが最高神祇官へ就任するのを支援しろというのだな」
「そうです。権力基盤が脆弱なわたしは、ローマの忠実な友であるしか道がありません」
ウェルキンゲトリクスがローマの支援がなければ最高神祇官の職を維持できない場合、ローマの安全保障上にはメリットとデメリットの両面がある。
メリットは、裏切られる心配が少ない。
デメリットは、常に介入の用意をしておかねばならない。
「……いいだろう。来年の作戦行動はひとまず保留にする。次の春までに、もうちょっと細かいところまで計画を詰めてこい。どうするかは、それしだいだ」
「ありがとうございます!」
「カエサル!」
深々と礼をするウェルキンゲトリクスと、憤懣やるかたないマルクス。
カエサルはマルクスに近づくと、分厚い胸をぽんぽん、と拳でノックする。
「ウェルキンゲトリクスは、我が“三頭”のひとりだ。このくらいの贔屓はあったっていいだろう」
「ですが、カエサル」
「もちろん、マルクス。きみも我が“三頭”だ。三年後にはプブリウスと一緒に執政官を目指してもらいたいな」
いきなり自分に話をふられ、マルクスは目を白黒させた。
カエサルはニヤリと笑った。
「これ以上の流血なしで、ガリアが安定するならそれにこしたことはない。領地は増えればいいというものではないからな」
「それは……たしかにそうですが……」
「ダメならダメで、その時に考えるさ。おまえたちが育つまでは、わたしたち年寄りが苦労を背負って進む。ローマはそうやって前進を続けてきた。これまでも、これからもな」
「年寄りというには、早いですよ。あなたはまだ四十七才だ」
「わたしはな。だが、他の“三頭”はポンペイウスが五十二才だし、クラッススは六十二才だ。三人ともそろそろ隠居だよ」
この時のカエサルは、まだ知らない。
パルティアとの戦いで、クラッスス親子が戦死していることを。
歪んだ“三頭”は、すべての思惑を押し流していく。




