プロローグ:ミラノ司教アンブロジウス
四世紀。
ミラノ司教アンブロジウスは、文鎮で羊皮紙をこすって伸ばしながら、文章を頭の中で組み立てる。
アンブロジウスがこれから書くのは、ローマの首都長官シンマクスへの反論である。シンマクスは皇帝に対し、元老院議場から撤去された勝利の女神像を、戻すよう請願したのだ。
皇帝はキリスト教徒ではないが、皇帝の周囲にはキリスト教徒が大勢いる。アンブロジウスの元にシンマクスの書簡の写しが届いたのは、皇帝の元に届くより早かった。
──勝利の女神像、か。
異教徒ながら、心憎い着眼点だ。
元老院議場から勝利の女神像を撤去したのは、先帝のグラティアヌスだ。直後に部下の反乱があって殺されている。幼帝が後を継いだが、権力基盤は弱い。今ならば、揺さぶって撤回させることができるとみたのか。
──勝利の女神像を元に戻したとして、ローマに勝利が戻るだろうか。いや、過去においてすら、そのような事例はなかったに違いない。
論破するなら、ここからだろうとアンブロジウスは考える。
ローマの神々は、かつては地中海世界のどこにでも存在した、原始宗教の神だ。
七つの丘の麓まで攻め込んできたガリア人も、ローマの城壁を包囲したカルタゴのハンニバルも、それぞれの神を信じていた。ローマの神は、結果としてローマに勝利をもたらしたが、それは神がローマを依怙贔屓したからではない。
──ローマが勝ったから、ローマの神が勝利をもたらしたと逆説的に結論を付けただけ。
今は違う。ローマの勝利を神の恩恵と信じられるほど、確率は偏っていない。
先帝グラティアヌスが勝利の女神像の排除と同時に行った、最高神祇官就任拒否こそが、本当の意味での分水嶺であった。
皇帝と最高神祇官が一体であること。これはユリウス・カエサル以来の伝統だ。カエサルが帝政という新しい政体への道筋をつけることができたのは、最高神祇官としてガリア征服に成功したからで──つまり、ここでも逆説的にローマの神が勝利をもたらしたと結論を付けることができたからである。
──最初から神の恩恵ではなかったのだとしても……では、いったい何が、どんな理由でローマに勝利をもたらしたのだろうな。
書簡のインクに粉をふって乾燥させ、四百年以上の昔に思いをはせる。
アンブロジウスが知る由もないことではあるが、共和制から帝政にかけてのローマの勝利は目に見えないところに原因があった。交易で集まるミクロ寄生体と、都市化による人口の再生産が、小児病と免疫をローマに優先的に与えたのだ。
原因は見えぬまま、健康には有意な差がついた。それを神の恩恵であるとみなす考え方も、狩猟採集動物として発達した知性からすれば、正しいとさえいえた。
周辺の諸都市は、免疫を武器にしたローマに敗北し、ローマに飲み込まれた。彼らは免疫の敗北を、自分たちの神よりもローマの神が強いからだと考えた。都市国家の神は習合され、ローマの七つの丘は神殿で埋まった。
ローマの好敵手となったのは、同じように都市化が進み、免疫に守られた文明圏だけだった。カルタゴであり、エジプトであり、ペルシアであった。この中で、もっとも強力だったカルタゴ文明圏を早期に打破できたことで、ローマの前に新たな道が開かれた。カルタゴの影響圏にあったヒスパニアとガリアとが、ローマに開放されたのだ。
──ガリアを征服したカエサルであれば、どんな風に答えただろうな。
アンブロジウスは、四百年前の偉人に思いを馳せる。
薄暗き中世の黄昏が、窓から入り込んでくる。