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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第三章 全ての秘密が明かされる時
97/122

21.呪いと過去の狭間で揺蕩う

 




「だからあれほど、人外者と取引をしてはいけないと言ったのに! こいつらは所詮、相容れない生き物なんだ! ろくでもない享楽的なクズばっかりなんだ!!」

「ごめっ、ごめんなさい、ハーヴェイおじ様……!!」

「父上! もういいでしょう!? 泣いてるのにそこまで怒らなくっても!」

「甘い!! お前は甘すぎるぞ、アーノルドたん! いや、俺も俺で決してお前のことは言えないんだが……!!」

「っレイラちゃん!」



 体をばっと起こしたら、頭がずきりと鈍く痛んだ。痛い。痛くて重たい。死にそうだ。喉もからからだった。白い包帯が巻かれた頭を押さえて、低く唸っていたら「目が覚めたか、少年」と声をかけられる。



 重たい瞼を開けて何とか見てみると、そこには銀灰色の濁った瞳を持つおじさんがいた。ふわふわと綿飴のように波打つ銀髪、褐色の肌に嘲笑が似合いそうな、酷薄な顔立ち、ぱりっとした黒いジャケットと白いシャツ。



(あれ? この人、もしかして……)



 新年の祝賀行事や夜会で会ったことがある。キャンベル男爵家の当主、ハーヴェイ・キャンベルだ。



(一等級国家魔術師の“笑う蜘蛛男”……どうしよう、記憶喪失のふりでもしようかな……)



 それはふと、湧いて出てきた考えだった。その案を採用することにして戸惑った顔を作り、ぎゅっと白いシーツを握り締める。大きな四本柱の寝台に寝かされていた。この白と紺色パイピングのパジャマは誰のだろう、ちょっとだけサイズが大きい。



「あ、あの……ここは? 俺は?」

「ああ、まだ記憶が混濁しているのか……無理もない。禁忌の魔術による影響も色々と調べてみたいが、まぁ、さておき水でも飲め」

「あっ、ありがとうございます……すみません、こんな見ず知らずの俺に……」



 嘘は下手だから緊張してしまう。その手を借りて、硝子のコップから冷たい水を飲んだ。渇いた口の中にゆっくりと流れ落ちてゆく。その美味しさに目を見開き、必死に飲んでいると俺の背中を支えて「ゆっくり飲めよ、吐くぞ」と言って流し込んでくれた。意外と面倒見がいい。



 ふうと息を吐いて部屋を見渡すと、泣いている彼女と目が合った。紫色の瞳を歪ませ、誰か知らない、綺麗な男の腕を振り払ってこちらへとやって来る。



「レイラちゃん!」

「っごめんなさい、私。本当に本当に申し訳ないことを……!! 一生かかっても償いきれない、ごめんなさい……!!」

「えっ? 何が……?」

「その説明はさておき、まずはお前の名前を聞こうか。お前は誰だ?」



 知っているくせにと、そんな言葉が出かかって飲む込む。何だ? 何が目的なんだ? この髪と目の色で分かるくせに。泣きじゃくる彼女の背中を擦りつつ、こちらを見下ろしてきたハーヴェイを見上げる。



「名前……分かりません。どうしてここにいるのかもよく分かりません……」

「っああ! くそ! おい、そっくりさん! 記憶を失くしているようだが!?」

「まぁ、有り得るだろうね。魂に作用するレベルの魔術だ……頭の中の常識を書き換えられていたっておかしくない」

「解く方法は?」

「ない。だから禁忌なんだよ……」

「くそったれ! これだから人外者は嫌いなんだよ……!!」



 そんなやり取り、耳に入ってこなかった。彼女の熱く湿った黒髪、震えている両肩に滑らかなモスグリーンのワンピース。ふわりと漂う薔薇とゼラニウムのような甘い香りに頭がくらくらした。動悸がする、鼓動が速くなる。ごくりと唾を飲み込んで、彼女の肩を掴んだ。



「レイラちゃん……君の顔を見せて。君の顔を」

「え……? 私の顔を?」

「ああ、やっと会えた……何でだろう? よく分からないけどそんな気がするんだ、レイラちゃん……」



 運命の女の子だと思った。戸惑う彼女の深い紫色の瞳を見て、吸い込まれそうになる。もっと触れたい、もっと近付きたい。キスがしたい、彼女のことしか考えられない。するりと白い頬に触れると、顔が赤くなった。そのまま近付くと、ふいにぐいっと首根っこを掴まれて、引き離される。



「おいおい、おいおいおいおい……父親である俺の前で良い度胸だな、少年」

「はなっ、放してくださいよ、痛い……俺、まだ怪我も治ってないし……」

「あっ、そうだ。大丈夫? 熱はない?」

「レイラ、そう聞いてやるな。父上も父上で見苦しいですよ。自重してください」

「アル兄様」



 アル兄様? 似ていないけど兄妹なのか。煌く銀髪に滑らかな褐色の肌。銀灰色の美しい瞳は不機嫌そうで、顔が驚くほど小さい。その鎖骨も腕も何もかも、芸術家がそう計算して削って、作り上げたかのよう。白いガウンを羽織って、黒いシャツを着た男の人がこちらへやって来る。



「お前……あー、名前がないと不便だな」

「じゃあ、アンバーっていうのはどう? ねっ? 綺麗な淡い琥珀色の目をしているし……」

「アンバー……うん。君が付けてくれるのなら何だっていいよ、レイラちゃん……」



 恍惚として白い両手を握り締めていると、だんっとアル兄様とやらが俺の手を叩き落とす。



「いてっ!? な、何をするんですか!?」

「それはこっちの台詞だ。俺はレイラの婚約者で義兄。アーノルド・キャンベル。よろしく」

「婚約者……そんな。レイラちゃん」

「ご、ごめんね? でも、私が決めたことじゃないし……」

「俺が決めたんだ。えーっと、アンバー?」

「は、はい。えーっと、貴方の名前は……?」



 良かった、今一瞬ロード・キャンベルと言いそうになった。まじまじとこちらを見下ろして「ハーヴェイ。ハーヴェイ・キャンベルだ。よろしく」と言って手を差し出してきた。乾いたおじさんの手よりも、レイラちゃんの手を握りたい……。



 渋面で握手を交わしていると、アーノルドが「じゃあ、とりあえず記憶が無いみたいだし警察にでも」と言い出す。



「それはまっ……」

「いや、アンバーにはしばらくこの屋敷で暮らしてもらう」

「父上? ですが、絶対にアンバーの家族もアンバーのことを探して」

「いや、いい。とりあえず先生を呼ぼうな、かけてくる。あー……いや、その前に飯か?」

「野菜スープが残っているので飲ませておきます。父上」

「ん?」



 部屋から出て行こうとしていたハーヴェイが、魔術手帳を片手に振り返る。アーノルドが一歩足を踏み出し、鋭い銀灰色の瞳で父を射抜いた。



「何か企んでいるでしょう? ……まさかこいつは」

「アーノルド君。彼は記憶喪失なんだよ。しかもうちの娘が魅了をかけてしまった……魂ごと縛ってしまった。手厚く保護するのが道理だと思うがね?」

「質問に答えてください、父上。今はもう、戦争が始まる直前だってのに」

「戦争……?」

「あっ、そうなの。貴方は寝ていて知らないかもしれないけど、ハルフォード公爵家の当主が殺されて。……まさか」



 彼女が、はっと息を飲み込んで俺を見つめる。ああ、どうしよう。絶対にばれてしまった。捕まってしまう、彼女の傍にいられない。それだけは絶対に嫌だ……。



「レイラ、どうこう言っても仕方が無い。もし、仮にそうだとしてだ。すぐに捕まるぞ、こいつは」

「父上……!! 分かっているんじゃないですか! こいつが双子のどちらかだって!」

「エディの方だろうな。会ったことがある」

(ばれてる……当然か)



 彼女が困惑して俯き、また顔を上げて、深い紫色の瞳で見つめてくる。ああ、愛おしさで焦げてしまいそうだ。好きだ、好き。頭がおかしくなりそう。



「レイラちゃん……どうしよう? 俺、君の傍にいたいのに……」

「アンバー」

「まぁ、とにかくもだ。寝とけ、アンバー。ここで暮らしたらいい。アーノルド、レイラ。お前らがそいつをアンバーとして扱う限り、そいつはアンバーだ。いいな?」

「はい……」

「分かりました、ハーヴェイおじ様」



 俺をこの屋敷に置いても、何のメリットも無いのに。一体どうしてだろう。深く考え込んでいると、扉がぱたんと閉まった。アーノルドがそれを見て溜め息を吐き、銀髪頭をぐしゃぐしゃと掻き毟る。



「くそっ! 一体何を考えているんだ、父上は……どうせろくでもないことだろうが」

「自分の父親に辛辣すぎません……?」

「アル兄様はね、ええっと……随分前にあることがきっかけで、ハーヴェイおじ様に気絶するまで殴られたの。それからね、」

「レイラ。いい。余計なことを言うな、あれは俺も悪かったんだ……とにかく、アンバー? 寝とけ。スープを持ってくるから。ああ、あとそれから」

「何ですか?」



 扉に手をかけていたアーノルドが振り返り、美しい銀灰色の瞳で睨みつけてくる。怖い。それに大人かと思ったけど、俺よりちょっと上なだけのような気がする。



(この時のアーノルド、やっぱり十八歳らしいというか……幼いよな。不思議だな、あの時は大人に見えたのに)



「レイラに何もするなよ!? 何かしたら、俺と父上でお前のことを散々殴ってやるから。じゃ」

「命の恩人に何もしませんよ……それに俺は彼女の眷属だし」

「あ、そのことなんだけどね? 説明するね、アンバー……」



 彼女が力なく笑って、俺のことを見つめてくる。ああ、気にしなくていいのに。何だっていいのに。君に命を救われたから、俺だけを見て泣いてくれたから。俺を助けるために首を差し出すと、そう銀等級人外者に言ってくれたんだから。



「……じゃあ、俺はもう一生このままなの? レイラちゃん」

「そうなの。この禁術自体、かけられた人も少なくて……キャンベル男爵家の図書室も漁ってみたんだけど、数冊しか出てこなかった。でも、自伝を書いている人がいて。自殺しちゃったけど」

「自殺……」

「その人はその、主に当たる女性と上手くいかなくて……このままだと彼女を殺してしまうって、他の男と幸せになる彼女が見てられないって言って、自殺しちゃったみたいで……」

「そっか……」



 じゃあ、俺もそんな風に死ぬんだろうか。嫌だな、母上と同じ道は辿りたくないな。俺は幸せな結婚がしたい、彼女と結婚して幸せに暮らしたい。



「何とか解く方法はないのかな?」

「ごめん、ごめんね。アンバー……」

「いや、君を責めている訳じゃなくて。俺、一目惚れしたから」

「誰に?」

「レイラちゃんに」

「嘘」

「嘘じゃないよ、本当だよ……」



 彼女が信じられないといった様子で、紫色の瞳を瞠っている。可愛い、驚いてる。流れ込んでくる。ほんの少しの照れと動揺と。よいしょと体を動かして近付いて、その両手を握り締めた。



「レイラちゃん……さっきの、アーノルドさんの婚約者だって聞いたけど」

「あっ、うん……一応。アル兄様にも申し訳ないし、手は」

「レイラちゃん、君のことが好きだよ。君は? 俺のこと好き?」



 必死だった。彼女のことしか考えられなかった。二キロ圏内に彼女がいたらその位置と感情が分かること、命令されたら逆らえないこと、少しでも離れると猛烈な悲しさと苦しさに襲われること。あとこれは関係ないけど、彼女はもう他の人外者と契約出来ないということ。それもあって、ハーヴェイは彼女を怒鳴っていたらしい。



 禁忌の魔術を使って、誰かを縛っているような人間は嫌われるそうだ。話す分には構わないが、契約となるとお断りらしい。縛られることを嫌う人外者は「自分もこんな風にいつか縛られてしまうかもしれない」と、そう思ってしまうらしく。



 そんなことを細かく説明してくれたのに、まるで頭に入ってこなかった。彼女の動揺が伝わってくる、どっと流れ込んでくる。



「私……まだ会ったばかりでよく分からない」

「だ、だよね……!!」

「でも、私……ごめんなさい、アンバー。どうしたらいいんだろう……」

「ああ、ごめんね? 俺が悪かったよ、レイラちゃん。ごめんね……」



 ああ、そうだ。ずっとずっと彼女のことを考えて生きてきた。



(嫌だな、引き摺られる。早く、早く戻らないと……)



 そうだ、ようやく彼女が俺のことを好きだと言ったのに。それなのに上手く行かない、ああ、どうしよう。先人達のようにはなりたくない、不幸な結末を迎えたくない。彼女を殺して、この魅了を解きたくはない。



「おーい、スープ持って来たぞ……って、どうした!?」

「泣いちゃった……」

「おいおい……まぁ、あれだろうな。怪我もしてるし情緒不安定なんだろうな。大丈夫か? アンバー」



 ふんわりと鶏肉と野菜の芳醇な香りが漂い、のろのろと顔を上げてみると、そこには悲しげな表情のアーノルドが立っていた。もしかしてこの人は俺のことを心配してくれているんだろうかと考え、見上げてみるとふっと優しく笑って、俺の頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。



「大丈夫だ、ここにいたらいい。……迎えが来るまで。食えるか? 飯」

「あっ、はい……」

「アル兄様のね、スープは美味しいよ! あれ? パンも持ってきたの?」

「ああ、消化に良さそうな全粒粉のパンを持って来た。食えるのならこれも食え。ただし、バターは無しでな」

「あっ、はい……」



 驚きすぎてそれしか言えなかった。どうして見ず知らずの俺に笑いかけて、優しくしてくれるんだろう。この人は。もぐもぐとパンを食べていると、二人がほっとした顔で笑う。



「きっと、先生ももうすぐくるから。代々付き合いのある先生で……」

「ひげがね、真っ白でもじゃもじゃなの。面白いよ! 面白くて優しいよ!」



 呪いにとって、この記憶は気に食わなかったのか何なのか。楽しく喋る俺達の姿が遠ざかり、ゆったりと流れてゆく。そうか、すぐにばっと切り替わる訳じゃないのか。ゆったりと暗闇がうごめいて渦巻き、それにつられ、くらりと意識が傾いてゆく。



「っう、駄目だ。この人も死んでる……この人は殺しちゃってる」

「中々ないね、ハッピーエンドを迎えた例は……」



 彼女と二人で本を漁っていた。少しでも良い道はないか、魅了を解く方法は無いのか。意外と資料はあった。そっくりさんのように面白がって、魅了と禁忌の魔術を重ねがけした人外者は多かった。当時十七歳だった俺が親指の爪を噛み、その古い本のページをめくる。そのまま読み進めていたが、ふと、ある一文を見つけてぴたりと止まった。



「これ……」

「何? どうしたの?」

「魅了を解く方法が見つかった。でも」

「えっ!? 本当!?」

「君を殺さなきゃいけない……それで契約破棄になるんだって、魅了も解けるんだって……」



 それまで嬉しそうな顔をしていた彼女が一転、さっと青ざめる。少しだけ後退ったのがショックだった。俺はそんなこと絶対にしないのに、彼女を殺したりなんかしないのに。



「大丈夫だよ、レイラちゃん。殺したりなんかしないから、俺は何があっても」

「本当に? 私がアル兄様と結婚してしまっても……?」

「そ、れは……」



 言い切れなかった。彼女がショックを受けた顔をして黙り込み、ばっと立ち上がる。



「あっ! レイラちゃん!」

「ごめんなさい、アンバー。私、お昼ご飯を持ってくるね……!!」

「待って、レイラちゃん。ごめん、待って、お願い、俺を置いて行かないで……!!」



 母上の気持ちが痛いほど、よく分かった。ああ、行かないで。俺を置いて行かないで。走り去ろうとする彼女の手首を掴んで、無理矢理振り向かせる。ちょっとだけ泣いていた。後悔と罪悪感が伝わってくる、どっと流れ込んでくる。でも、恐怖も混じっている。



「レイラちゃん、お願い。俺の傍にいて……お願いだから、どうか」

「ごめんなさい、アンバー。ごめんなさい、私……貴方を縛ってしまって。ごめんなさい……」



 泣いて泣いて、彼女が俺の胸元に顔を埋める。ああ、良かった。置いて行かれなかった。彼女に嫌われたらどうしよう? レイラちゃん、レイラちゃん、レイラちゃんレイラちゃん────……。



(ああ、どうかこのままで。少しでも長く、どうかこのままで)



 ちらほらと白い雪が舞っている。彼女が雪の中で笑って、緩やかな黒髪を揺らした。ああ、可愛いなぁ。愛しい。少しでも長く、彼女の傍に。お願いだからもう少しだけ彼女の傍に。どうかどうか、もう少しだけこのままでいさせて。



 そんなことを何度も何度も繰り返し願って、彼女と雪を投げ合って遊んだ。本を読んで、かくれんぼをして笑い合った。キスもたまにした。彼女がようやく俺のことを好きだと言ってくれたんだ、つい先日。



「……レイラちゃん。俺は君のことが好きだよ、レイラちゃんは? レイラちゃんは、本当は俺のことをどう思ってる……?」



 そう呟いて腕を伸ばし、彼女の手に手を重ねる。レイラちゃんが覚悟を決めるかのように深い紫色の瞳を閉じ、そして、もう一度開いた。俺をじっと苦しく見つめる。ああ、嬉しい。視線が絡んだだけで、途方もない喜びが湧き上がってくる。レイラちゃん、レイラちゃん。早く会いたいな、早く君に会いたいな。



「……私も好きよ、アンバー。それで私が、貴方にしてしまったことが許される訳じゃないけど、でも。それでも私はアンバーのことが好き……」



 俺達が急速に仲を深めて行くのを見て、アーノルドの表情がどんどんぎこちないものに変わっていった。そして、最初はあんなにも優しかったのに、ちくちくと俺に嫌がらせをするようになった。



「でっ、でもそれはあの人が、ハーヴェイおじさんが勝手に決めた婚約ですよね!? それに何よりも、アーノルドさんは以前、レイラちゃんのことなんか別に好きじゃないって……」

「さぁ、そんなことを言った覚えはとんと無いな。生憎と俺はかなりの気分屋なんだよ。もしも今は別にそうじゃないって言ったら、お前はどうする? アンバー?」



 でも、イザベラおばさんとシシィちゃんはずっとずっと俺に優しくしてくれた。俺のことを理解してくれた。真っ暗闇の中で考え込む。



(あれかな……シシィちゃんは出てこないかな? 懐かしいな、最初は人見知りを発揮して俺から逃げまくってた……)



 きっと、優しい記憶だから出てこない。でも、初めて触れたんだ。この時に、人の優しさに。まともな家族の愛情に。ハーヴェイおじさんはずっと、イザベラおばさんのことを大事にしていて。アーノルドもレイラちゃんも、シシィちゃんもずっと笑っていて。ちゃんと俺のことを見てくれるし、俺が嫌がるようなことは何もしなかった。兄上とは違って。



 みんなでご飯を食べて、眠って遊んで、ずっとずっと穏やかで楽しくて苦しかった。だから見れるんだろうか、こんな記憶を。



(苦しくて苦しくて、仕方が無かった……そう長くは続かないって、理解していたから)



 彼女の誕生日を祝うため、屋敷に足を踏み入れたあの瞬間。懐かしさで死にそうになった、泣きそうになった。彼女に図書室で過去を教えてくれとねだられた時、ついうっかり泣いてしまった。



 優しくて温かい日々。もう二度と戻ってこない、もう二度とあんな苦しくて美しい景色は見れない。レイラちゃん、レイラちゃん。胸が苦しいな……。



「ああ、とうとう戦争が本格化してきて……」

「……アンバー。貴方はその、記憶が無いのかもしれないけど……ほら」



 彼女が魔術新聞の一文を指で辿って、苦しく微笑む。そこには“ハルフォード公爵家の双子、いまだに見つからず”と書いてあった。そうだ、ほっとしたのと同時に苦しんでもいた。どうしよう、死んだのかな? 兄上。あの山の中で死んで、死体も見つかってないだけなんじゃ────……。



「それに多分、貴方のお母様の従者であるキースも……」

「見つかってないって? ええっと、記憶が無いからよく分かんないけどな~」



 じゃあ、大丈夫かもしれない。安心したが嘘がばれたかもしれないと、はっと正気に返って、おそるおそる振り返ってみると、レイラちゃんがにっこりと慈愛の微笑みを浮かべていた。あっ、これは絶対にばれてるやつですね……。



「アンバー、もうそろそろ晩ご飯だから。食べに行きましょう?」

「あっ、うん。可愛い……好きっ……!!」



 全員、何となく俺の嘘を見破っていた。それでも何も言わなかった、あのハーヴェイでさえも何も言わなかった。家族の一員のように過ごしながらも、いつこの、平和で穏やかな時が終わってしまんだろうってずっと怯えていた。



 両親がぐだぐだとずっと揉めていて、母親がいきなり自殺をして。逃げ回って死にそうな目にあって。そんな激動の日々から、いきなりぽんっと落ち着いた。いや、落ち着いてしまった。好きな女の子が今日も俺の傍にいて、優しいイザベラおばさんがにこにこと笑って、「美味しい? お代わりまだあるからね」と言ってくれる。



 幸せだった、どうしようもなく。初めてだ、倦怠感も感じずに笑えたのは。初めてだ、こんなの。毎日が楽しい。ここには自分勝手な人がいない。ただ、母上のことを考えると涙が出てきた。



「あっ、あのる、アーノルドさぁん……!!」

「何でレイラもお前も、悪夢を見たら俺の部屋にやって来るんだよ……?」

「かまっ、かまってください……死にそう」

「……」

「うぐぇ、かま、かまってください……!! ぐえっ、こわい、つらい」

「何歳だ、お前……本当に俺の一個下か……?」



 それでも、渋々と部屋に入れてくれた。虫歯になるからと言って、砂糖抜きの紅茶を淹れてくれた。温かい、大丈夫だ。ここに怖いものは何も無い。でも、終わる。ある日突然終わってしまう。この安らぎも温もりも、ぶちんと途切れてしまう。嫌だ、怖い怖い。捕虜になって監禁なんかされたくない────……。



(ああ、また場面が変わって……頼む、頼む。この先を俺に見せないでくれ……!!)



 あっという間なんだ、本当に。あの男達がキャンベル男爵家にやって来てから、戦場に行くまで。あっという間なんだ。ああ、憎しみが募る。ハーヴェイ・キャンベル、お前は最初からそのつもりだったのか?



(イザベラおばさんも俺も、レイラちゃんもどこかで貴方がまともな人間だと信じていたのに……)



 それなのに違った。それを裏切った。憎めばいいのかもしれない、でも、疲れた。憎しみは元気じゃないと持てない。もう俺は何も持てない。ただただ、真っ暗闇の中でそっと両目を閉じた。




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