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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第三章 全ての秘密が明かされる時
96/122

20.一度死んで生まれ変わったあの日

 




 何が何だかよく分からなくて、車の後部座席で自分の鞄を抱えていた。サイラスが俺の分まで荷造りをしてくれていた。金目の物と着替えと下着と、何日か分の食料が入っているという。分厚い黒のダブルコートを着たサイラスが身を乗り出し、運転席のキースに話しかける。



「どうする? このままルートルードの……叔父上のところへ?」

「ええ、そのつもりです……申し訳ありません、サイラス様、エディ様。お父上を俺は……」

「いい。気にするな。どうせおおかた、母上が遺書でお前に頼んだんだろう……? 違うか?」

「……全てが落ち着いたら、お見せします。まだ気持ちが整わなくて、俺も」



 黒いスーツ姿のキースが虚ろな目で前を向き、ハンドルを握っている。鏡越しに目が合ったが、すぐにふっと逸らされた。ああ、でも。



「キース、気にするなよ……ほら、俺達にとってはさ。お前が父さんだから……」

「エディ様……」

「それもそうだな、屋敷に寄り付かない屑なんかよりもお前の方がよっぽど父親らしい」

「兄上……」

「それにしても、あの二人もまた馬鹿なことを……戦争になるぞ、これから。あの叔父上がエオストール王国を許すとは到底思えない」

「ああ、そうだった……陛下も、この度のことは耳にしているはず。シンシア様……シンシア様を本当に可愛がってらしたのに。一体どれだけ苦しむことか……」



 蝶よ花よといって、育てられた母上。腹違いの兄である叔父上とも仲が良く、結婚する時も盛大に祝ってくれたが号泣していたと、そう微笑んで話していた。ああ、もういない。もうどこにもいない。聞くのに、何でも。父上への恨み言でも何でも聞くのに、どうしてどこにもいないんだろう……。



 熱い涙が滲んできて鞄をぎゅっと抱き締めていると、サイラスが腕を伸ばして頭を撫でてくれる。



「エディ……大丈夫だ、きっと俺がお前のことを守って、」

「サイラス様、エディ様。多分追っ手が来ました……くそ! 早いな、飛ばします!」

「ああ、分かった。エディ、念のため頭を伏せていよう。……殺されはしないだろうが、多分」



 多分? 多分だって? そんなことを問いかける余裕も無いまま、頭を下げる。すぐに車が猛スピードを出して山道を曲がり出したので、ちょうど良かった。あのまま普通に座っていたら、どこかで頭をぶつけていたかもしれない。がたがたと揺れている車内の中で、サイラスが震えて俺の手をぎゅっと握り締める。そうか、怖いのか。兄上も。



「ごめん……ごめん、俺。ちっとも兄上のことを理解してなかった……」

「大丈夫だ、エディ。落ち着いたら色んなことを話そうぜ……キースのことも、母上のこともちゃんと」



 ああ、そうだった。兄上は十七歳にして、全てを分かって理解していたんだ。結局、戦争が終わるまで兄上とは会えなかった。目の下にクマを作って、俺を力強く抱き締めてきた時のことを思い出す。



(でも、あれは幸福な記憶だから……きっと再生されないな、見れないな)



 後部座席で腹ばいになっている俺の上に覆いかぶさり、その手をぎゅっと握り締めていた。まるで、動物が我が子を守っているかのようだった。ああ、でも。ああ、でもこの先は。



「っく! タイヤがパンクしました……降りましょう! 降りて逃げましょう!!」

「ああ、分かった! ガイル! 俺達の荷物、魔術で保管しておいてくれ!」

「分かった! 死ぬなよ、俺が絶対に守るから!」



 しゅるりと白い手が現れて抱えていた鞄を奪い取り、消えてゆく。ああ、そうだ。銀等級人外者のガイルがいるから大丈夫だ。逃げれる。そう思っていたんだ、この時の俺は。車から出て暗い坂道を三人で走って、駆け上がる。追っ手に国家魔術師がいるのか、赤々と燃え上がっている妖精のような女が追いかけてきた。



 狼姿のガイルが低く唸って、女に飛びつく。振り返ろうとしたらキースが俺の手を引っ張り、「坊ちゃん! ガイルは大丈夫ですから!」と叫ぶ。ああ、海が遠い。この山を越えたら海があるのに。海があって、そこからルートルードまで行けるのに。



「くそっ……!! どこか、どこか落ち着いて魔術を使える場所は……」

「ガイル死なないかな、大丈夫かな!?」

「今はそんな心配をしてる場合じゃないだろ!? 殺す気か!? あいつらは俺達のことを!」



 後ろの方から「追え! 逃がすな!」という声が響いてきて、震える。キースがおもむろに立ち止まって、すらりと腰から剣を引き抜いた。



「エディ様、サイラス様。きっと奴等の狙いは俺です。どうぞお元気で」

「えっ!?」

「死ぬ気か、キース。母上と一緒に?」

「……この近くに俺の友人が来ている筈です。かつて、一緒にシンシア様にお仕えしていました。きっとお二人のことを助けてくれる……申し訳ありません、俺は。おこがましいとは思いつつずっとずっと、シンシア様のことをお慕いしていました……!! エディ様。俺のせいです。俺がシンシア様を死なせたんです」

「キース……? そんな! 兄上、兄上!!」

「行こう、エディ。振り返るな!」



 サイラスが俺の腕を引っ張って、近くの茂みへと飛び込む。もう坂道じゃなくて山道を歩く気なんだ。声も出せないでいるとサイラスが「キース! 先に行ってるからな! 死ぬなよ、追いかけて来い、絶対に!!」と叫ぶ。その声には涙が滲んでいた。ああ、兄上も分かっている筈なのに。きっと捕まる、捕まってキースは殺される。



「兄上、兄上……!!」

「ごめんな、エディ。俺、分かってたけどお前にちゃんと説明しなかったんだ。父上がキースに嫉妬してたこと、母上がキースを利用してたこと、キースが母上を愛してたこと……」

「そんな、じゃあ……」



 誰にでも人当たりが良い父が、キースを見て苦々しい顔をしていたのは。俺がキースのことを話すと嫌そうな顔をしていたのは。真っ暗闇の山道を歩きつつ、サイラスがどこからかライトを取り出す。でも、闇は追い払えない。それでもすぐ目の前は真っ暗闇で、足元しか見えない。



「しまった、新月か……? タイミングが悪い……!!」

「兄上、ライト……」

「ああ、見つかるか……けど。いや、いい。消すぞ。多分、獣はいないだろうが……」



 恐ろしくて恐ろしくて、仕方が無かった。何の音もしない。柔らかな地面と木の枝を踏みしめ、手を繋いで、真っ暗闇の中をひたすらに歩く。人ではない何かや気持ち悪い虫、蛇、クマが真っ暗闇の向こうで目を凝らしている気がして震えた。骨まで震えてしまう。怖い、怖い、暗い、暗い、何も見えない。原始的な恐怖が襲いかかってくる。



「兄上、キースの友人っていうのはどこに……うわっ!?」

「いたぞ、あそこだ!!」

「っ早いな! 死んだんじゃ無いだろうな、キース!!」



 ぼうっと赤い炎がすぐ傍の木々を燃やし、暗闇を払う。それに驚いて足を滑らせてしまった。すぐそこは崖だった。暗くて気が付かなかった。



「エディ!! 嘘だろ、エディ!?」

「わああああああっ!? 兄上っ!!」



 ざざざざと、凄まじい速度で落ちてゆく。必死に腕を伸ばして何かを掴もうとするが、掴めなかった。口の中に石と土が入ってくる、服が捲れて腹が擦れて、燃えるような痛みが襲いかかってくる。どこかの石で頭を打った、口の中を噛んでしまった、血が出てくる、痛い。無意識に手を伸ばして何かを掴み、止まる。



「っは、生きてる。何とか……兄上? 兄上?」



 無事だろうかと考えた瞬間、遠くの方から銃声のような音が聞こえてくる。まだだ、まだ逃げれていないんだ、俺。走って逃げようと思い、立ち上がった途端、またずるりと足を滑らせる。



「うあっ!? 地面がぬかるんで……!!」



 ひゅるるると空気が切れる音が響いて、耳元で流れていって、そのままどぼんと水の中に落ちる。どこか硬い地面に投げ出されたのかと思った。凄まじい衝撃が体を打って、身も凍るような冷たい水が襲いかかってきて、口と温かい耳の中に浸入してくる。



(今、思えば。よく生きていたな、俺……)



 でも、もうすぐだ。もうすぐでレイラちゃんに会える。十三歳の可愛いレイラちゃんに会える。呪いの中にいるのに胸が弾んだ。ああ、後悔なんかしないで。君がしたことは何一つとして、間違っていなかったんだ。君は俺の女の子、命の恩人で俺の心も救ってくれた子。初恋の女の子で俺のご主人様。



「っぶ、は、は、は……」



 冷たい水の中で必死にもがいてもがいて、水面に顔を出して腕を伸ばした。コートが水を吸って重たい、冷たい、死ぬ、死にそうだ。もう冷たさも苦しさも感じない。肺が痛い、心臓が痛い。死にたくない死にたくないと気が狂うほどに願って、もがいているとふいに足がついた。浅くなっている、いける。そのままじゃぶじゃぶと水の中を歩いて、岸を目指す。この頃になると、恐怖心も薄れていた。真っ暗闇の中には何もいないと、ちょっとだけそう思えたから。



 俺を救ってくれるようなものも何もいないと、そう思えたから。



 ざぶんと冷たい水の中から上がって、大きく息を吐き出す。そこは白い小石が転がっている地面で、僅かな月明かりがこうこうとそれらを照らしていた。



「ああ、三日月か……細い」



 木々の間から見える暗い夜空に、黄色い三日月が浮かんでいた。寒い。いや、どこもかしこもかじかんでいて痛い。顎の骨でも折ったのか、ずっと嫌な痛みがじんじんと疼いている。息をする度、ずきりと脇腹に痛みが走る。もう限界だった、何でこんな風に逃げているんだろう、俺。髪も手も心も冷たくて悲しかった。何で俺は生まれてきたんだろうと、虚ろな思いを抱えて地面に両手を突く。



 火が恋しい、料理が恋しい、誰か人のいるところへ行きたい。死ぬのならもう少し、そうだ。誰か人がいるところで死にたい。こんな真っ暗闇の山の中で死にたくない。



(死ぬんだろうな、俺……でも、不思議と怖くない。母上と父上のところに行こう。行って謝ろう……)



 もう諦めよう。生きていたって無駄だ。サイラスだってキースだって、死んだのかもしれないし。月明かりに照らされて輝いている小石をぎゅっと握り締め、術語を組み立てる。教わったばかりの移動魔術。ここから出来る限り遠くの場所へ、ありったけの魔力を使って逃げよう。



 こんな山の中で死にたくない。きっと大丈夫だ。ここに来るまでにも民家をいくつか見かけた。キャンベル男爵家の屋敷が、ここから少し離れた遠くの方にあると聞いた。じゃあ、そこだ。そこへ飛べばいいんだ。



「お願い、上手くいって。俺を連れてって……」



 心の中で術語を唱えた瞬間、ぐらりと意識が傾いた。それはそうだ、だって魔力量を気にせずに魔術を使った。死ぬ一歩手前だった、あの時は。もう惜しくないと思った、魔力を使い果たして死んでも惜しくないって。これから先の人生、生きていても無駄だって。疲れきった体でそう考えていた。



「っう! ぐ……!!」

「わあああああっ!? 誰!? 何!?」



 どさっと投げ出され、低く呻く。女の子だ。女の子の声がする。じゃあ、成功したのか。ここは誰か人の家なのか。ぐわんぐわんと揺れる意識の中で何とか寝返りを打ち、転がった。良かった、絨毯だ。それに温かい。ふわりと、甘いミルクのような匂いが漂ってきた。



「どうしよう!? 誰!? そんな、そんな……酷い怪我をして」

「ごめん、助けて……」



 柔らかい手が俺の凍えるような手を握っている。口の中にじんわりと血液の味が広がった。魔力を使いすぎたんだ。多分、内蔵から血が出ている。あちこちが痛い、顎も熱を持ってじくじくと痛んでいる。薄っすらと目を開けてみると、可愛い女の子がこちらを覗き込んでいた。揺れる長い黒髪に、吸い込まれそうな紫色の瞳。白い肌にフリルとレースが付いたネグリジェ。



 こんな真夜中なのに起きていたのと、そう尋ねそうになった。どうしてだろう。でも、今なら分かる。彼女は眠れなかったんだ。両親を殺してしまう悪夢を見て、飛び起きて泣いていたんだ。



「どっ、どうしよう? お願い、死なないで……貴方まで、私のお母様とお父様のように死んでしまわないで……!!」



 女の子が俺の手を握って、泣いている。ああ、俺のことを心配しているんだ。こんな真夜中に唐突に現れた見知らぬ俺の手を握って、心配して泣いている。その瞬間、恋に落ちた。今まで誰もちゃんと俺のことを気にかけてくれなかったのに、この子は本気で心配して泣いてくれている。



(俺の髪色……赤なのに)



 ぱっと見ただけで、ルートルード人だって分かるのに。エオストール人なのにその差別意識も無いのか。突然現れた俺の手を握って、泣いてくれるのか。生きたい生きたい、君の名前が知りたい。君とどこかでご飯を食べたりしてみたい。君と手を繋いで、楽しく街を歩いてみたい。ぎゅっと、その細い手を握り返す。



「死にたくないんだ……お願い、助けて……」

「そっくりさん! お願い、今すぐ来て!! ああ、ハーヴェイおじ様が今日いてくれたら良かったのに……!!」



 足元の影からしゅるりと、誰かが現れる。人外者だ。それも銀等級の。ふわりと真っ赤なドレスの裾が翻って、甘い声が響き渡る。



「あーらら、大変だねぇ~。無茶をしすぎだよ、君は……魔力が枯渇する一歩手前だ」

「お願い! そっくりさん! 何か、何か……どうにかしてくれない!?」

「一体どうしてそんなことをしなくちゃいけないんだい? どうして、見ず知らずの少年を助けなきゃいけない?」

「そんな、そっくりさん……お願い。駄目なの?」

「救急車も間に合わないだろうねぇ~、これ。死ぬね、あと数分ぐらいで」



 そんな。絶望していた。生きたいと思えたのに、彼女の名前を知りたいのに。女の子が俺の手をぎゅっと握り締めて、ぼろぼろと涙を零して泣く。



「っご、ごめんなさい。私、貴方のために何も出来ない……!! 許して、ごめんね、ごめんね……!!」



 柔らかい、温かい。大粒の涙がぽたりぽたりと俺の頬に落ちてきて、その温度に震えて目を開けてみると、紫色の瞳を歪ませて泣いていた。ああ、俺のことを見てくれている。可愛い女の子が俺の手を握って泣いて、心配してくれている。俺を見てくれている、ちゃんと。



「ごめんね……でも、傍にいるから。貴方が苦しまないように、淋しくないように最期まで傍にいるからね……ごめんね、ごめんね? でも、生まれてきてくれてありがとう……辛かったでしょう? 苦しかったでしょう? こんなに、怪我をして……」

「レイラ、死体の処理はそっくりさんに任せて。アーノルド君のお願いならねぇ、聞いたんだけどねぇ~。まぁ、もう死ぬか。じきに」



 そうか、レイラか。この子の名前はレイラなのか。かろうじて知れた、死ぬ前にかろうじて知れた。いいや、違うな。こんなところで死にたくない、彼女と生きて行きたい。残った力を振り絞って、彼女の手を強く強く握り締める。



「嫌だ、死にたくない……まだ生きていたい!! お願いだよ、レイラちゃん! 俺のことを助けて!!」



 彼女が紫色の瞳を大きく瞠って、次の瞬間、すぅっと深く息を吸い込む。



「そっくりさん! お願い! 何でもするからこの人のことを助けて!! 私の命だって何だって差し出すから!」

「本当に? レイラ、本当に?」



 ああ、駄目だ。人外者にそんなことを願っちゃ駄目だ。命を差し出すだなんて。俺のために死のうとしている。初めてだ、こんなこと。なんて優しいんだろう、なんて優しい女の子なんだろう。



「本当に! そっくりさん、何でもするからこの人のことを助けて……!!」

「本当に? その首も差し出す?」

「差し出す!! お願いだから、この人を助けて……!!」



 ああ、意味が無いのに。君が死んだら何の意味も無いのに。そっくりさんがにやりと不気味に嗤い、その手に小さな剣をしゅわりと生み出す。それは深い青紫色の炎を纏って、ゆらゆらと揺れ動いていた。柄には禁忌の証の、真っ赤な薔薇と蔦が絡み付いている。



「じゃあ、こうしよう……レイラ、君には人外者並みの魔力がある。あの魔術が使える……」

「そっくりさん……? それは」

「さぁ、この少年に魔力を注ぎ込んで魂を縛るんだ。レイラ、彼を君の眷属にするんだ」

「眷属に……? でも、私は怪我を治して欲しいだけで」

「怪我は僕が治そう。さぁ、その今にも死にそうな少年に魔力と血を注ぐんだ。これは相手が死にかけていないと、使えない魔術だからね……」



 うやうやしく彼女の白い顎を持ち上げ、そのくちびるに剣を押し当てて、すっと滑らせて切る。彼女が「いたっ」と叫んで、両目を閉じていた。真っ赤な血が溢れ出して、俺の頬にぼたぼたと落ちる。ああ、あの血の温度を今でも覚えている。彼女が俺のことを救ってくれたんだ、その命を惜しまず。



「一体何を……」

「さぁ、レイラ。早くキスをして、彼に。それでその少年は君の眷属になる……ああ、面白いなぁ! 君と彼を結び付ける、魅了の魔術も重ねておいたんだ、きっと目が覚めたらその子は君に夢中になってる────……」



 彼女がそっと両目を閉じてから開き、俺の顔を覗き込む。その頬はちょっとだけ赤かった。おずおずと黒髪を耳の後ろへとかけ、深い紫色の瞳を歪ませる。



「ごめんなさい、勝手にキスをして……こんなことをして。でも、死ぬよりはマシだろうから。本当にごめんね……」



 いいよ、何も気にしないで。そんなことも言えずに両腕を伸ばして、彼女のくちびるを受け入れた。慎重に重ねられたくちびるから、血と魔力が溢れ出してきて術が発動する。ふっと意識が揺らいで、信じられないぐらいおぞましいものが這い出てきた。背筋が冷たく震える。心臓が痛い、ああ、これは絶対に手を出しちゃいけない領域のものだ。人はそこに触れちゃいけない、そんなものだ。怖くて怖くて仕方が無い。



「ああ、どうかな。でも、死ぬかもしれないなぁ……耐えれるかな、この禁忌の魔術に」



 そんな人外者の気怠げな声が響き渡って、意識がどんどん遠のいてゆく。ああ、死ぬのかな。嫌だな、生きたいな。彼女の熱い魔力が流れ込んでくるのが分かる、俺の体に注ぎ込まれる。手足に感覚が戻ってきた、コートが重たくて冷たくて濡れている。そこから腕を伸ばして、彼女の頭を抱え込んでキスをした。



 彼女が懸命に、くちびるから血と魔力を注ぎ込んでくれる。何かが目まぐるしく書き換えられて、ちかちかと赤く点滅した。体の奥深くで何かが渦巻いて、俺の頭の中を巡って塗り変えてゆく。彼女への愛おしさだけが募っていって、自分が違う何かへと変わってゆく。彼女の気配と感情が流れ込んできた。ああ、そうか。眷属になるから、俺。彼女の。



(初めてだったんだ、ちゃんとまともに心配して貰えたのって)



 誰も俺のことを気にかけてくれなかったんだ。父上も母上も、キースもサイラスも自分のことで手一杯だった。淋しくて淋しくて、仕方が無かった。でも、君だけなんだ。君だけなんだ、俺のことを心配して泣いてくれたのって。



 だからいいよ、もう君のために生きよう。君のためなら何だってしよう。君に救われた命だから、君に捧げよう。俺の人生を君に捧げよう。魅了にかかり始めているから、そう思うのかもしれないけど。



 でも、魅了にかかってなくてもきっとこう思った筈だ。君が初めて俺の手を握って、泣いてくれたあの瞬間からそう思っていた。恋に落ちていた。



 夢中で彼女を抱え込んで、くちびるを貪っていた筈なのに、いつのまにか暗闇に滑り落ちていた。真っ暗闇の中で漂い、何か大きなものに意識の端を引っ張られる。ぐんと引っ張られつつ、ああ、あっちに行けば死ぬんだろうなと悟っていた。じくじくと燃えるような痛みが心臓を襲って、息が出来ない。視界の端でちらちらと、青紫色の炎が燃えていた。



 禁忌か。禁忌の魔術が俺のことを殺すのか。絶えず痛みが襲ってくる、心臓が痛い。逃げたい。どうしよう? でもレイラちゃん、レイラちゃん。君の傍にいたいよ、レイラちゃん。真っ暗闇の中で手を伸ばした。そこには地面があった。おそるおそる目を開けてみると、ぼんやりとした明かりが飛び込んでくる。その向こうには母がいた。いつもと同じ、淋しげな微笑みを浮かべて手を振っている。



 思わず駆け出して、その手をぎゅっと握り締めた。



「母上……!! ごめんなさい、俺! 全然気持ちに寄り添えなくて、俺……!!」

「エディ、いいの。私、貴方に止められても死ぬつもりだったから」

「母上、そんな、そんな……!!」



 泣く俺の頬に手を添えて、にっこりと悲しげに微笑む。お気に入りの麦わら帽子を被って、白いワンピースを着ていた。父上が贈っていた、レースとフリルの上品な白いワンピース。



「ごめんね、お母さんらしいことが何も出来なくて……貴方のせいじゃないのよ、エディ。またキースに預けた手紙を見て? ちゃんと書いておいたから……」

「母上、母上。俺は……俺も死にます。母上と一緒に」

「エディ、それは駄目だ。悪かったな、散々お前に迷惑をかけて」



 ぬっと腕が伸びてきて、俺の肩をどんと押す。そこには淋しげな微笑みを浮かべた父が立っていた。母の肩を抱いて、寄り添っている。母が嬉しそうな微笑みを浮かべ、そっと父の肩にもたれた。



「もういいの、誤解も全部解けたから……あのね? この人がもう、ずっとずっと私と一緒にいてくれるんですって……だから大丈夫。ようやく幸せになれたの、私達……」

「エディ。彼女のことは俺に任せてくれ……ごめんな、今まで散々振り回して。何も、父親らしいことが出来なくて……だから、せめて最後に父親らしいことをさせてくれ。愛しているよ、エディ。またいつか会おうな……」



 真っ暗闇の中へと落ちてゆく。その父の淋しそうな、でも、ほっとしていて幸せそうな微笑みを見て確信する。好きだったんだ、ちゃんと。本当に。母上のことが。信じられない気持ちで両腕を伸ばし、叫んだ。



「父上!? 好きなら好きで、どうして傍にいなかったんですか!? 一体どうして母上の傍にいなかったんですか────……」



 その叫びも吸い込まれてゆく。父は淋しげに笑うばかりで、何も言ってくれなかった。手と目に熱が宿って、心臓がどくりと動き出す。ああ、違う。変わってしまった。何が? そうだ、彼女だ。俺は彼女の眷属になったんだ。どこだろう、愛しい彼女はどこだろう。苦しくて恋しくて仕方が無い、レイラちゃん、レイラちゃん、レイラちゃん……。




「っう……」

「何てことをしたんだ、レイラ!!」






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