17.ルドルフ・バーンズが遺した手紙
「そうそう。それで結局さ~、あの男も自殺して死んじゃったし。前払いでって言っておいて良かった~。まぁ、そこの二人は殺せなかったんだけどね?」
「距離が近い上に、一体どなたですか……?」
「こいつがふざけた子犬野郎だ。やめろ、ナイチンゲール。俺の婚約者の手を握るんじゃない!」
朝食の席にて、アーノルドが謎の男の手を叩き落とす。朝起きてラベンダー色のニットとデニムに着替えて降りたところ、何故だか黒いタートルネックの上から白衣を羽織った男に絡まれたのである。「おはよう、レイラちゃん。良い朝だね」なんて言いながら、椅子を引いて私を座らせると、おもむろに手を握ってきた。
「子犬? ナイチンゲール? 昨夜、エディさんも似たようなことを言って……」
「本名はアレクシスだよ~。あれだよね~、アーノルド君もアーノルド君で、意外と律儀で可愛いよね~」
「お前な……昨日、散々俺の首を狙っておいて……」
「狙ってって……まさか」
「そうそう。今は亡きルドルフさんがさ~、俺のこと雇ってたんだよね~。戦争の英雄“火炎の悪魔”とかの有名な“女殺し”を殺してくれってさ。笑えるだろう? 醜い嫉妬心だよなぁ~」
「わら、笑えないんですけど……? 全然」
そうか、この黒髪黒目の怪しげな男がエディとアーノルドの二人を殺そうとしたのか。フォークを置いて睨みつけてやると、眼鏡の奥の黒い瞳を恍惚と細めた。朝日に照らされて、黒曜石のようにきらきらと光り輝いている。
「大丈夫大丈夫。もう依頼人は死んじゃったし……でもさ、あの男。自分の死を予言していたんだよ」
「どういうことですか? それ」
「おい、ナイチンゲー……アレクシス。レイラの負担になるようなことを言うなよ? お前」
「ふっ、ふふっ。あれだよね? 過保護だ。彼。過保護」
「そうなんですよ、過保護で……」
「やめろ。殺し屋と意気投合するなよ、お前……」
食パンとベーコンエッグを乗せた皿を置いて、向かいに座ったアーノルドがこちらを見て苦笑する。白いタートルネックのニットを着ていた。今日も相変わらず色気がだだ漏れだ。
「……もしかして、ハーヴェイおじ様に殺されるのが分かっていたと?」
「おい、レイラ……」
「そう。だからまぁ、あらかじめ歯の奥に毒薬を仕込んでおいて自殺したんだろうけど? 元々ヴァネッセに機密情報流して亡命して、君を妻にするって、上手くいくとは全然思ってなかったみたい」
「何で……じゃあ、一体どうしてあんなことを?」
「恋する男だからね~。はははっ」
「答えになってないぞ、アレクシス。意味が分からん……それに父上も父上で油断したな」
「そうだね。お間抜けだったね、そればっかりは」
昨夜、捕まえた後自殺したんだろうか。ベーコンエッグをナイフで切り分けると、黄身がとろりと溢れ出てきた。塩と胡椒が効いていて美味しい。
「……ん? でも何で、アレクシスさんがここにいるんですか……? 殺し屋って」
「逃げ出してきちゃった! ほら、お腹も空いてて朝ご飯食べたかったし? アーノルド君、君の魔術は素晴らしかったけど完璧に解いちゃったよ~。どう? 嬉しい?」
「嬉しい訳ないだろうが……あーあ、お前を投獄出来たら良かったんだが。ま、いいや。首輪は付けたし……」
「首輪? もしかして獣人さんなんですか?」
「幻獣さんだよ~、もふもふさんだよ~。あとでいい子いい子でもする? 俺のこと」
「するっ! もふもふっ!」
「あのな? 可愛いなんてもんじゃねぇから、そいつ」
詳しく聞いてみると、どうもアーノルド達はこのアレクシスを投獄出来ないらしい。逃がしたというより、見逃したという表現の方が当てはまる。
「幻獣の上に、そいつ。レイフォードの現国王の弟だしな……」
「弟……王弟なんですね?」
「そーそー。腹違いでさ~。お兄ちゃん、俺のことすっごく可愛がってくれてるし? まぁ、エオストール側としてはあんま事構えたくないよね~?」
「えっ、ええええ……それってありなんですか? 大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。一応、誓約の首輪をかけておいたから……俺達含めエオストールに関わりのある人物、建物、事柄に何もするなってな」
「そうそう。だから今の俺、万引きも出来ないんだよね~。ははっ、あーあ。おかしい。お代わりってある? アーノルド君?」
「どんだけ食う気なんだよ、お前……」
後でもふもふしようと考えつつ、ベーコンを口へと運ぶ。人間と獣人の間に生まれた子供は、高確率で完全変化出来るらしいので、きっと彼もそうなんだろう。
「じゃあ、貴方のお母様が側室なんですね……?」
「そーそー。母は完璧な白虎で。狩りで一目惚れしたみたい」
「どっ、どっちが……? どっちが狩る方でしたか!?」
「んーとね、母かな! 父を狩ろうと思ったみたい!」
「よく生き延びてたな、国王……あ、あと父上も母上もいないし。エディ呼んでおいたから」
「えっ」
「“火炎の悪魔”か。いいな、昨夜はゆっくり話も出来なかったし」
「エディさんに何かしたら、尻尾の毛を引き抜きますからね……?」
「大丈夫~、もう何もしないよ~。お代わり~」
「エディが来るなら、追加で何か作っとくか……」
「レイラちゃーんっ! お待たせーっ! 君のちょっぴり間抜けで素敵な王子様だよー!」
「あれ? 根に持ってます?」
「持ってなーい、今日も可愛い! 好きっ! 大好きっ!」
あれからまだ一時間も経ってないのに来た。早い。のんびりご飯を食べてないで、着替えてもうちょっとしっかりメイクをしてって、した方が良かったかもしれない。ベージュ色のトレンチコートを羽織って、アーガイル柄のセーターを着たエディが満面の笑みで私を抱き締め、額にキスをし、すぐさま離れる。
「レイラちゃん、大丈夫? 今日はもう休んだの? お仕事」
「休みました~。昨日、ぐったりしちゃって……」
「“火炎の悪魔”だー、こんにちはー」
「うおおおおっ!? 昨日の頭がおかしい幻獣!? 何でオレンジジュース飲んでんの!?」
「エディ、お前は何にする? 紅茶か珈琲か?」
「あ、グレープフルーツジュースってある? 見てたら羨ましくなってきた、俺」
キッチンに行こうとしていたアーノルドに話しかけられ、答えつつトレンチコートを脱ぐ。そして優雅に椅子を引き、私の隣に座った。
「お前な……まぁ、あるけど」
「アーノルド君、ホットケーキお代わり!」
「えっ!? 俺もっ! 俺もふわふわホットケーキが食べたいでっす!」
「今焼いてる。お前ら、待て。待て!」
「犬への命令じゃん、それって……」
「ぶーぶー!」
おかしい。聞いた話によると、三人は殺し合いをしていた筈だが仲良しだ。焼いて貰ったきつね色のふわふわホットケーキにバターをたっぷり乗せて塗り広げ、その上にサワークリームとブルーベリージャムをこんもり乗せていると、エディが期待に満ちた眼差しでこちらを見つめていた。
苦笑しつつ切り分けて、口元へ運んであげると嬉しそうな表情であーんと口を開ける。まるで餌を待っているヒナのようだった。
「えー? アーノルド君? この二人、滅茶苦茶イチャイチャしてるんだけど……? ピンクオーラがえぐいんだけど? 死にそう、俺。辛い」
「……まぁ、いいんだよ。そこの二人は……近々婚約解消するつもりだし」
「あ~、振られちゃったんだ。可哀想に~。まぁでも、アーノルド君は美形だけど一緒にいて落ち着くタイプじゃないよね! 分かる!」
「あの、アレクシスさん? アーノルド様が傷付いちゃうんで、やめて貰えませんか……?」
「あっ! そうだ、レイラちゃん! 君にお土産を買ってきたよ~。珊瑚のイヤリングとネックレスとオルゴール!」
「えっ! 嬉しい! ありがとうございます……でも、三つもですか? 多くない……?」
店名が入った紙袋を受け取りつつ、首を傾げているとキッチンの方からやって来たアーノルドが渋い顔つきで「そいつ、絨毯も買おうとしていたから」と教えてくれた。絨毯……。
「そうそう。アーノルドに止められちゃってさ~……ごめんね? レイラちゃん」
「何に対するごめんねですか? それは。絨毯なら要りませんよ、そんな物理的に重たいもの……」
「物理的に軽くて、心理的に重たいものって。結婚指輪と婚約指輪かな……」
「そうですね。エディさんがゲロったら結婚しますよ、私」
「うん……大丈夫だって。忘れてないって……」
エディが落ち込んだように顔を伏せ、くちびるを尖らせている。でも、私が忘れていたら絶対に言わないつもりだったでしょう。何となく予想できる。深い溜め息を吐いて、甘酸っぱいブルーベリージャムとホットケーキを味わっていると、アレクシスが体を揺らして笑い始めた。
「俺、知ってるよ~。エディ君の過去。教えてあげよっか?」
「えっ!? 何でお前が知ってんの!? 会ったことないよな!?」
「自殺したルドルフが教えたんだろ。ほい、エディ。グレープフルーツジュースとホットケーキ」
「あっ、ありがとう……ん? ちょっと待って、自殺!? あと何でこいつ、ここでもっさもっさホットケーキ食ってんの……?」
「一からか、説明すんの……」
「あと生物兵器は……?」
「現場に行ってた本人が一番把握してないとは……」
「いいや、もう。とりあえずホットケーキ食おう……そのあと聞こ……」
「むぐ、むわっふぁっふぁっ」
「なるほど、話はよく分かった……危機が去ったということで、俺とデートでもしない!? レイラちゃん!?」
「いや、絶対よく分かってないだろ。お前……途中で寝てたじゃん」
「まっ、まぁまぁ、アーノルド様……その」
「いいよ、行ってこいよ。今更ぐだぐだ言わねぇよ、俺も……」
「可哀想に、アーノルド君……俺と一緒にボール遊びでもする?」
「ボール遊び……」
「フリスビーにする? それともロープにする?」
「丸っきり犬と一緒なんだな、お前……」
結局、アーノルドはアレクシスにリードを付けてドッグランに行くことにした。大丈夫だろうか、囲まれはしないんだろうか。どうも自分の美形っぷりに気を使う余裕も無いらしく、子犬姿のアレクシスに飛び付かれてよろよろしつつ出かけていった。
そして子犬姿でじゃれついているアレクシスは先程、嬉しそうな笑顔で「女性受けしそうな、白いふわふわの子犬ちゃん姿でお願いしまっす!」と頼んでいた。ある意味、欲に塗れている。
「あれ、いきなり元の姿に戻ったら悲惨だなぁ~」
「えっ? 元の姿ってどんな感じなんですか?」
「もう、すっごく大きいの! 小屋ぐらいある虎……」
「小屋ぐらいある虎……そんなのと殺し合いをしていたんですか……?」
「うん、もうすごかった。魔術も効かないし、走って逃げるしかなくて……」
流石は“共食い”と呼ばれる一等級国家魔術師だ。エディの「大変だったよー、本当に」という嘆きから始まった愚痴を聞きつつ、キャンベル男爵家の静かな廊下を歩く。白い壁には数多の絵画が飾られ、窓からは冬の陽射しが射し込んでいた。夏とは違って、陽射しが冷淡に静まり返っている。
「……ねぇ、エディさん?」
「ん? どうしたの? レイラちゃん」
「秋の収穫祭、楽しみですね……その、本当に話してくれますか?」
「ん~……ん~」
「何ですか? その曖昧な返答は?」
「ごめんごめん……ほら? 世の中さ? 知らなくてもいいってことあるじゃん……それに」
「それに? 何ですか?」
隣を歩くエディがこちらの手を握り締め、淡い琥珀色の瞳を細めて笑う。そのほんの少しだけ淋しそうな微笑みを見て、胸が狭くなる。もういいよ、じゃあって言ってしまいたくなる。そんな気持ちを飲み干して、エディを見つめながら手をぎゅっと握り返した。するとエディが嬉しそうに笑って、「あれだよね? お家デートだよね? これって」と呟く。
「俺……俺の全部を知ったら、結婚しないって。言われる可能性もちょっとだけあるからさ……」
「ええええー? 何でですか? 私がその、エディさんに何かしたのかとてっきりそう思って、」
「でも、最初は俺が望んだことだし……レイラちゃん、君は俺の命の恩人なんだよ?」
「えっ、命の恩人……? でも、何も覚えてない……」
「だろうね、ハーヴェイおじさんが君の記憶を消したから……」
ハーヴェイが消した。改めてエディ本人の口から聞くと、辛いものがある。
「ハーヴェイおじ様が……ルドルフさんが敵だって言ってた。ハーヴェイおじ様のことを……」
「うん。でも、レイラちゃんにとっては大事なお父さんなんだよね?」
「はい、裏切れないです……私」
まだちょっとだけ怖いのに。エディと結婚したいって言い出すのが。
「出来れば祝福して欲しいんですけど……」
「絶対に無理だと思う……あの人が絶対にそんなことを許す筈がない」
「でっ、ですよね……ああ、でも。ハーヴェイおじ様とも知り合いだったんですね? まぁ、当然っちゃ当然なのかもしれませんが……」
「レイラちゃん、俺のこと好き?」
「えっ」
突然ぴたっと立ち止まったかと思えば、そんなことをいきなり言い出す。戸惑ってその横顔を見つめていると、苦しそうな表情でこちらを振り返った。鮮やかな赤髪が冬の陽射しに照らされ、揺れ動く。息を飲み込んで、その両手を握り締めると顔を寄せてきた。
ああ、このままどうか私が流されてしまいませんように。エディがキスしている間中、「忘れてくれ、忘れてくれ」と言っているかのようで辛い。酷く悲しい。
「……エディさん、私は」
「お父さんと俺、どっちが好き? レイラちゃん」
「それは勿論、エディさんです……」
「じゃあ、何もかもを捨てて俺と一緒に来てくれない? ……海外逃亡、しない?」
「海外逃亡……」
「まぁ、駆け落ちだよね。それでもあの人はしつこく追いかけてきそうだけど……」
「私は……出来ればエオストールから離れたくありません。そりゃ、エディさんは何ヶ国語か操れるのかもしれませんけど」
「だよね、ごめん。馬鹿なこと言った。忘れて」
ああ、もう少し穏やかに過ごしたかったのに。
(どうして、最近はいっつもこんな感じになっちゃうんだろ……)
好きだと告白する前の方が、楽しく過ごせていたのに。俯いて擦り切れた赤い絨毯を眺めていると、エディが気を取り直したかのように明るく話し始める。
「ほらっ? レイラちゃん? 俺、久しぶりに君と図書室に行きたいなー?」
「久しぶり……そうか、エディさんにとっては久しぶりなんですね?」
「うん、久しぶりだね。本当に……君は覚えていないんだろうけど、俺と君はよくそこで遊んでてさ……ホットチョコレートが好きだったよね。一緒に図鑑も眺めたりしてさ……」
苦しいのか、途切れ途切れに話している。その苦しそうな声を聞いて、胸の奥が詰まってしまった。ああ、一体何が隠されているんだろう。私の過去に。そのまま廊下を歩いて、図書室の扉を開けるとエディが「変わってないなぁ! 良かった!」と歓声を上げて走り出す。そして奥の日当たりが良い肘掛け椅子に座ると、嬉しそうに笑って私を見つめた。
「レイラちゃん? ここでさ、俺────……」
「えっ、エディさん!? どうしましたか!? 大丈夫ですか!?」
「あっ、ごめん……ちょっと何だろう? 泣けてきたな、俺……ごめん」
エディがいきなり顔を覆って泣き始める。ああ、どうしたらいいんだろう。こういう時って。すかさず駆け寄ってそのごつごつとした両手を握り締め、しゃがみ込んでみる。
「エディさん? 大丈夫ですよ? ごめんなさい、ごめんなさい……」
「いいんだ、違う。君は何も悪くない……でも、たまに思うんだ」
「何を……?」
「もっと他の道があったんじゃないかって。でも、無いんだ。どこをどう探してもどこにも無いんだ……笑えるよね。無いんだ、本当に」
「エディさん」
ああ、私は何も知らない。無知は罪なりと言うけれど。苦しくて苦しくて仕方が無い。あともうちょっとなのに、あともう一歩なのに。薄いベールを剥がせば、全てが明らかになるのに。
「無くて。どこにも無くて……でも、俺。頑張ってきたよ……たった一言だけでいい。ありがとうって言って欲しかったんだ。君に」
「ありがとう……ありがとうございます、エディさん」
「うん、ごめん。レイラちゃん。全然分からないよね? 本当は俺、何も言いたくなくって……だって、ただでさえ、君は両親を殺したって嘆き悲しんでいるのに。それ以上、何も背負わせたくないんだよ……」
「でも、知りたい。知るべきです、きっと私は」
「いいよ、何も知らないままでいて。お願いだから本当は、そのままのレイラちゃんでいて欲しい……」
ぐすぐすと泣きながら、その背を折り曲げて私のことを抱き締める。つられて泣いてしまった。一体何があったんだろう、私の過去に。私は一体、エディさんに何をしてしまったんだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……エディさん、ごめんなさい」
「いいよ、レイラちゃん。これは俺が全部全部、望んでしたことだから……」
「でもきっと、私は何か酷いことをしてしまって……」
「大丈夫、大丈夫だよ。俺は明日も君がのんびり過ごして、笑ってくれたらそれで……」
ああ、それだけでいい。誰からどんなに憎まれようと蔑まれようと、それだけでいいんだ。それでも彼女は知りたいと言う。俺と過去の全てを知りたいと言う。その華奢な体を抱き締めて、両目を閉じると甘い甘い香りがした。
「エディさん……ごめんなさい、でも知りたい」
「分かってるよ、ちゃんと……分かってる、分かってる」
そうだ、分かっている。もう後戻りは出来ない、ちゃんと教えなきゃ伝えなきゃ。
(でも、本当は言いたくない……でも、言った方がいいんだろうなぁ)
少なくとも俺の気持ちは軽くなるから。「祝福」と見せかけた「呪い」をかけて、死んでいった叔父の顔を思い出す。
『エディ、これを私の遺言だと思いなさい……お前はそのレイラ嬢と結婚して、何が何でも幸せになるんだ。それが自分の犯した罪の償いだと思え。いいな?』
そうだ、どれほど自分の犯してきた罪が耐えがたくて重たくても。俺は幸せにならなくちゃいけない。自分の犯した罪に顔を覆いたくなっても、自分の浅ましさに吐きそうになっても、彼女の手を取って平穏に生きていくんだ。
(逃げることは許されない……きっと、俺は死んだあと地獄に落ちる)
それでも、彼女と一緒なら怖くない。そうだ、一緒に。彼女から離れて、その可愛らしい顔を見つめた。深い紫水晶のような紫色の瞳に涙を滲ませ、俺を見上げている。そうだ、一緒に。地獄に落ちるのなら彼女と一緒に。きっと怖くない、業火に焼かれても彼女を抱いたままなら、安らかに眠れる。
「レイラちゃん……全部話したら、一生俺の傍にいてくれる?」
「います、エディさん。います……」
だったらそれだけでもういい。また彼女と一緒に泣いて抱き合った。でも、いつかはこの苦しみも癒えるんだろう。いつかはこの苦しみも癒えて、自分の浅ましさに吐き気が込み上がるんだろう。でも、いい。でも、いい。でも、それでもいいんだ。最初から、戦場に向かって祖国を滅ぼすと決めたその時から、その覚悟は出来ている。
「……ありがとう。じゃあ俺、レイラちゃんの部屋に行ってアルバムが見たいな……」
「アルバムですか? 別にいいですけど……」
「随分前に見せて貰ったけど、また見たい……」
「いいですよ、それじゃあ行きましょうか。ええっと、どこにあったかな……」
夜、眠っているとおもむろに誰かがきいと扉を開けた。すかさず飛び起きて、警戒しているとアレクシスの笑い声が響き渡る。
「大丈夫……レイラ嬢。お届け物に来ただけだから」
「お届け物……?」
「そう。だからそっくりさんに……ああ、知らない人外者だな。そいつは。暴れなくてもいい。俺は彼女になんにもしないから……」
滑るように近付いてきて、にっと黒い瞳を細めて笑う。昼間の時と同じく、白衣を羽織っていた。そしてポケットを探ると、一通の血がこびりついた手紙を取り出す。
「はい、どうぞ。ちょっとだけ汚れちゃったけど。ごめんねー?」
「これは……ルドルフさんの遺書?」
「当たり~、いや、ちょっとだけ外れかな? 愛しい君が知りたがってたからって言って、お手紙にしたためたんだよ……“火炎の悪魔”の秘密を全部さ?」
「エディさんの、秘密を……」
「いやぁ~、びっくりしちゃったよ。俺。それを読んでさ? あー、怖い怖い。それじゃあ俺はこれで。さっきから人外者どもが、俺の首を狙っているんでね……」
そのまましゅるりと白い煙になって溶け、しんと静まり返る。窓からの月明かりに照らされたそれは、所々赤茶色の血がこびりついていてくたくたになっていた。でも。
「ルドルフ・バーンズって、ちゃんと書いてある……」
何を書いたんだろう、あの人はこれに。
(でも、嘘の可能性もあるから……しまっておこう、怖い)
急いで寝台を抜け出して、裸足で鏡台へと向かう。呪われた手紙を扱うかのようにしまって、引き出しに鍵をかけて溜め息を吐く。怖かった、心臓がばくばくとしている。
(もし……もし仮に真実が記されていたとしても。きっと、気持ち悪い言葉も並んでいるだろうから……)
その日は、エディがくれた悪夢避けのサシェのお陰で何の悪夢も見なかった。でもエディと呑気に海遊びをする夢だったので、余計に胸が苦しくなってしまう。朝起きてから憂鬱な気持ちで呟いた。
「どうしよう……怖い。今日、ちゃんと仕事に行けるかな」




