8.罪人が見ていた悪夢の概要
軽く流血描写があります、ご注意ください。
レイラ・キャンベル男爵令嬢である私が、一番最初に犯した罪は。紛れもなく、両親とこの世に生まれる筈だった命を殺したことだろう。あれからどんなに後悔しても後悔し足りない、今だってそれは昨日のことのように鮮明で。
私はやっぱり生まれてくるべきではなかったと、そう何度も嘆いては今日まで生きてきた。
それでも私は、どうか幸せになってくれとそう願われたから。だからどんなに。どんなに苦しくともそうするしかないのだと。私はこの歳になってようやく、それを心から理解することが出来たのだ。
――――彼の苦しみに比べたら、私の苦しみなんて苦しいと言えて?
私には言えない、だから今日も明日も幸せに生きて行こう。私に残された道は、たった一つだけなのだから。
「いいかい、レイラ? よくお聞き。お前は人よりも沢山魔力を持って生まれたんだよ」
「お父様と同じ?」
幼い私がそう聞き返すと、お父様は優しく微笑んでくれた。私と同じ紫色の瞳と緩やかな黒髪は、まるでもう一人のお母様のようだった。抜けるような白い肌に、背中まで伸びた黒髪が風に揺れる
幼い記憶の中にある父はよく、茶色のツイードチェックのスリーピースを着ていた。ネクタイはその時々によって変わるけれど、大抵は深い臙脂色。
お父様が私の頭を撫でる、今日は四歳になるお誕生日だから。可愛くてお気に入りだった、空色のワンピースを身に纏っていた。もうすぐで、ハーヴェイおじ様とイザベラおば様がやって来る。いつも一緒に遊んでくれるアル兄様と、小さくて可愛いシシィちゃんもやって来る。
それなのにお父様はどうして、そんな風に悲しい顔をするのだろうか?
もしかして、レイラが屋敷のお外に出たいと言ったからだろうか。アル兄様が話してくれた、まだ見ぬ世界に胸を期待で膨らませている。レイラよりも小さい、シシィちゃんだって屋敷の外に出ているのだから。四歳になったレイラの方がうんとお姉さんなのに。
それなのにどうして、レイラは屋敷のお外に出てはいけないんだろう?
町には沢山の人と美味しい食べ物があるのに、アル兄様とシシィちゃんのお家にだって遊びに行きたいのに? どうしてレイラはどこにも行っちゃいけないの?
「レイラ……本当にごめんよ。全部全部お父様とお母様が悪いんだよ。俺たちはただただ、人並みの幸せが欲しかったんだ」
お父様が私を地面から抱き上げて、うんしょとその大きな腕に乗せてくれる。訳も分からずに嬉しく笑うと、お父様が今にも泣き出しそうな顔をして笑ってくれた。どうしてそんな顔をするのかとは、怖くて聞けなかった。今となっては、その意味が痛い程によく理解出来るけど。
「……こうなるとは、よく分かっていたのになぁ。ごめんよ、レイラ? お父様とお母様はね、どうしてもお前に会いたかったんだよ、どうしてもお前に生まれてきて欲しかったんだよ……」
「レイラに? お父様とお母様が?」
「そうだよ、俺だけの可愛いお姫様? 大事な愛おしい宝物をね、俺たちは手に入れたかったんだよ」
「それってなに? 手に入った?」
「勿論! 今こうやって抱えている宝物だよ。レイラは俺たちの大事な大事な、愛おしい宝物だから!」
お父様が弾けるような笑顔で、私の頬に優しく沢山キスをしてくれた。ただただ嬉しかった。だから私は、あれだけで満足していればそれで良かったのに! それなのにどうして私は、屋敷の外に出たいだなんてそんなことを願ってしまったんだろうか!
あのままただただ、愛おしく穏やかに幸せに生きていたかったのに。それなのにどうして私は、あんなに愚かしい真似をしてしまったんだろう?
決して償いきれない、私の後悔と罪と過ちを今でも激しく憎んでいる。あの日さえなければ普通に生きてこれたのにと!
誰の、血にも染まっていない綺麗な手を。私も普通の女の子のように持てたらそれは、それはどんなに幸せなことなんだろう。今ではもう、どんなに後悔しても後悔し足りないけれど。誰をどんなに羨んでも、この手に染み付いた血の匂いが消えることはない。私はおぞましい人殺しなのだと。
そう、ほぼ毎晩うなされている。私の罪を誰か消して欲しい。
「ねぇ、お母様? レイラはどうしてお外に出ちゃいけないの?」
「レイラ……」
美しいお母様が困ったように笑う。笑ってからレイラの口にそっと、クッキーを運んでくれた。こんな美味しい焼き立てのクッキーでレイラは騙されないのだと、もぐもぐと食べながら母を見上げる。母親のメルーディスはそんなレイラを見て、可笑しそうに栗色の瞳を細めた。
柔らかな、秋の団栗のような優しい瞳。それに加えて、赤茶色に金色が混じった髪も艶々としていて綺麗である。秋の豊穣の女神のようだとは、お父様がお母様を褒める時によく言っていたこと。
メルーディスは、そんな美しい赤茶色の髪を結い上げて綺麗に纏めていた。深みのあるモスグリーンのワンピースに、白いエプロンが映えてとても美しい。レイラと同じ白い指が、レイラのぷっくりとした頬をふにふにとつついた。
ほろりと、口の中で甘いココアと甘酸っぱい苺の香りが広がる。お砂糖の優しい甘さとほんのりバターの香りが漂う、さくさくほろほろの、焼き立てクッキーはいつだって美味しかった。
それでも、レイラは屋敷の外に出たいのだ。だってレイラはもう、五歳のお姉さんなのだから。三歳のシシィちゃんは、もうとっくの昔に町にも遊びに行ってるのに!
「ねぇってば! レイラはいつになったらお外で皆と遊べるの?」
「そうねぇ……前々から繰り返し何度も言ってるけどね? レイラが、貴女がもう少しお姉さんになったら一度、お母様とお父様とお外に出て遊んでみようか」
「お姉さんになったらっていつ? 一体いつの話なの?」
「うーん、そうねぇ……レイラが、七歳のお姉さんになったらかな?」
メルーディスが栗色の瞳を泳がせて首を傾げる。今となっては、あんなに渋っていた理由もよく理解出来る。
私はお父様が持っていた、魔力障がいを受け継いで生まれてきたからだ。通常、この世の人々は生まれながらにして、魔力を自由自在にコントロール出来る。しかしそれでも、魔術を発動させる為の術語と、魔術書に記されている専門知識が無ければ魔術を使うことは出来ない。
それでも、遠く離れた人と文字のやり取りが出来る魔術手帳を使う時や、その他にも公共の場に設置されている魔術装置や、家庭の魔術道具を扱う時など、魔力とは魔術師でない一般人でも日々使ってゆくものだ。
このレイラとお父様が持っていた、魔力障がいとは、その魔力の出し入れが自由に出来ないことを意味する。要約すると、好きな時に魔力が使えないのだ。
普通の人々はその体の成長に合わせて、魔力量が増えてゆく。その一方で魔力障がい者は凄まじいスピードで魔力量が増えてゆき、魔力量が定まって、その成長が終わる七歳になった頃、人外者とほぼ同じ魔力をその身に蓄える。
その不安定さから、七歳になるまでの間に魔力が暴発する危険性があり、七歳になるとその不安定さが消え失せて、ようやく魔力を自由に使えるようになるのだ。
それまで暴発する危険性があるとは言えども、余程のことがない限り暴発することはない。
余程のこととは心身に支障をきたすようなレベルの過酷な体験、ショック状態、例えば目の前で交通事故が起きる、何者かに刃物で襲われる、誰かかけがえのない人が死ぬかもしれないという恐怖。
そんな激しい感情の揺れ動きによって、魔力が暴発して、周囲の人々が巻き添えを食らって死んでしまうのだ。レイラとエドモンは、そんな魔力障がいの持ち主だった。
ただ意思疎通が出来て人の姿にもなれる、銀等級人外者と契約している場合は安心だった。暴発する直前に、彼らに魔力を吸い取って貰えばいい。魔力は二十四時間でゆっくりと完全回復してしまう為、人外者に事前に吸い取って貰って暴発を防ぐという手段は取れないものの、それでも暴発は防げる。
そして悲しいことに効率良く、危険性も無く、人体から魔力を吸い取れるような魔術道具は存在しない。魔力の暴発を抑えるのは、出来る限りショック状態にさせないことだけで。そのショック状態とは、子供の判断によって決まるものだった。過去には魔力障がい持ちの子供がボールをぶつけられ、そのせいで魔力が暴発し、その場にいた人々の命が奪われてしまったこともある。
だからハーヴェイ・キャンベルはエドモンに、レイラを引き取りたいと、何度も繰り返し言っていたのだ。彼は銀等級人外者“月の女神”ダイアナと契約を交わしていたから。人外者は基本的に契約者の傍から離れたがらず、ハーヴェイも毎日屋敷に通うことは出来ず、そしてエドモンも大事な娘を手放したくはなかった。
それなら一緒に住もうと、ハーヴェイはそう提案したらしいが、思いっきり嫌がられてしまったらしい。あれは防げる事故であったと、レイラもハーヴェイ達もそう思う。ただひたすらに、エドモンとメルーディスの深い愛情が招いた事故なのだと。大事な大事な可愛いレイラを、彼らはとうとう最期まで手放せなかったのだと。
彼らの願いは、普通の家族のように暮らすことだった。あれは防げる事故であったと、皆それぞれ口を揃えて話す。
どうして私は生まれてきたのだろう、まるで最初から何もかもを間違えていたみたいだ。私がいなければ、お父様とお母様が死んでしまうことも無かったのに!
どうしてだろう? どうして。
一体どうして私は、あの緑が瑞々しくて美しい、初夏の季節にあんな悲劇を屋敷の中に招き入れてしまったのか――――……。
「ああ、そこのお嬢ちゃん? ちょっとこっちに来て、おじさん達を手伝ってくれんかね?」
それは美しい初夏の季節。あの眩い陽射しが、木陰をレース模様にしてしまう午後。汗が滲んだ。じりじりと熱い陽射しに照らされて。もうすぐで七歳の誕生日を迎えるレイラは、白と青のワンピースを着て、青いリボンが付いた麦わら帽子を被り、門の近くで遊んでいた。
このワンピースは大のお気に入りだった、明日を迎えるまでは。明日を迎えた後は単純に着れなくなってしまったから。愛おしい両親の真っ赤な血が染み込んで。
「おじさんたちは誰ですか? 一体どこからやって来たの?」
頑丈な黒い鉄扉門の外から、複数人の男たちに声を掛けられて首を傾げる。見たことが無い人たちだった、薄汚れたシャツにズボンを身につけて、よれよれの変な帽子を深く被っている。
そんな似たような格好をした男たちが、何十人もてんでばらばらに佇んでいた。その背後には大きなベージュ色の布が荷台に被せられた、小型のトラックが二台止まっている。アル兄様から聞いたことがあるな、町には少しだけど自動車が走っているって。
魔生物が引いている馬車もあるよ、とあの優しい声で写真を見せて教えてくれたのだ。彼は町に出れないレイラの代わりに、沢山写真を撮って持ってきてくれる。
それが更に、まだ見ぬ世界への憧れが募る原因になったけれど。それが無くとも、あの日のレイラは同じ過ちを繰り返したに違いない。
「おじさんたちはね、ここの子爵に渡すものがあってやって来たんだよ。お嬢ちゃんは? この屋敷に住んでいる子なのかな?」
「うん! 子爵って、レイラのお父様のことでしょう? お父様に何を渡しに来たの?」
「……ああ、そうか。君がレイラちゃんなんだね?」
「レイラのことをどうして知っているの? おじさんたちとは会ったこともないのに?」
レイラが紫色の瞳を丸くして、首を傾げた。まだ見ぬ世界からやって来た見知らぬ人達。どうしても、好奇心を押さえることが出来なかったのだ。
「勿論知っているよ。おじさん達は君のお父さんとお母さんとお友達だからね? 今日はそんなお父さんとお母さんに頼まれて、とある大切な荷物を持ってきたのさ」
六歳だったレイラはうっかり、そんな言葉に騙されて招き入れてしまったのである。それがどんな悲劇を招くかも知らないで。その男たちも今日が自分の命日になるとは露知らず、自分達は奪い尽くして狩る側なのだと信じきっていた。この幼い少女が、魔力障がい持ちだと知っていたら計画を断念していただろうに。
「っやめてよ、やめて! レイラのお母様に何もしないでよ、お母様のお腹の中には赤ちゃんだっているのに!!」
「れい、レイラ……!!」
レイラが先程まで被っていた、青いリボンの麦わら帽子がぱさりと、大理石の床に落ちる。レイラは複数人の男に腕を掴まれ、その小さな手足をばたばたと激しく動かしていた。お母様が男たちの腕を必死で振りほどき、華奢な妊婦とは思えない程の凄まじい速度と力で、動揺する男たちからレイラを奪い返して、しっかりと抱きしめる。
顔が柔らかなものに包まれる、いつもの優しくて甘いお母様の香り。それが失われてしまったらどうしようと、不安と凄まじい恐怖で熱い涙が滲む。レイラの案内で屋敷の中に入った男たちは、メルーディスを床に引き倒して、暴れる体を押さえつけると、血走った目で次々と屋敷の中を物色し始めたのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい!! お母様、本当にごめんなさい! レイラが全部悪いの、ごめんなさい!!」
「いいえ! レイラは何も悪くなんてないの!! 大丈夫だからどうか落ち着いてくれる!?」
血がマグマのように沸騰していて熱い。後から分かったことだが、これは魔力が暴発する兆候だった。体が壊れたみたいに激しく震えている、お母様がそんなレイラを強く強く抱きしめていた。そのまま抱きしめていたら確実に死ぬと、そう分かっていた筈なのに!
ああ、お母様。いっそ私を突き放して、遠く離れた場所へ逃げ出して欲しかった! それなら私も、お母様を殺さずに済んだというのに!
きっとお母様は、今の私がそう言ってもそんなことは絶対にしないのだろう。私は、深く愛されていたから。その愛情と選択を、娘の私が憎むとも知らずに。そんな行動を愛情だなんて綺麗な言葉で呼んで欲しくなんてなかった、そんな風に綺麗に片付けて欲しくなんかなかったのに!
一緒に生きていて欲しかったよ、何があっても。どんなことをしてでも、生きて私の傍にいて欲しかったのに? お母様、お母様。ねぇ、一体どうして? 一体どうして生きると、私の傍にいる為の努力をしてはくれなかったの? 私を本当に愛しているのなら、どうして生きる為の努力をしてはくれなかったの?
幼い私がただ望んだのは生きて傍にいて欲しいと、たったそれだけのことだったのに!
離れてくれたら、それで良かったのに。私がどんなに泣いて縋って喚いて絶望しても、後からやって来て。きちんと説明してくれたらそれで良かったのに!
それなら私は、一人であの男達を殺していたのに。お母様とお腹の中の赤ちゃんを殺さずに済んだというのに。私の大好きなお母様。今はもう、死んでしまったお母様。その愛情がこんなにも愛おしくて苦しい。
私の大好きなお母様、私が殺してしまったお母様。もうどこにも存在しない、大好きなお母様。
「っおい! お前ら!! 今更綺麗にいい子ぶってんじゃねぇよ、早くそのガキとデカっ腹の女をぶっ殺せよ!? ぐずぐずしてっと、お前ら全員ここに置いていくからな!?」
「それじゃあ、お前が殺せよ!? 俺らだってなぁ、流石に後味が悪いんだよ! 妊婦とガキなんてお前だって殺したこと無いくせによ!?」
「そうだよ、そうだ! そこまで偉そうに言うのならてめぇが殺しやがれ! 俺は仕事の後の酒が不味くなるようなことはしねぇ主義なんだよ! くそったれが!」
「っああ!? 何だと!? このクソ馬鹿腰抜け共が!!}
怖い怖い怖い、怖い。体がぶるぶると激しく震えている、骨まで震えて、あまりの状況に寒気と吐き気が込み上がる。それなのに全身の血が沸騰するように熱い、まるで血管の中をマグマが巡って、逆流しているかのようだ。レイラのせいだ、レイラが全部悪い。
(もうすぐ、もうすぐで赤ちゃんも生まれてレイラの誕生日もくるのに)
最近のお父様は本当に楽しみにしていて、毎日、お母様の大きなお腹に優しく話しかけているのだ。レイラの七歳の誕生日だって、ようやく初めて町に出れるからって。お父様とお母様が楽しそうにどこに行こうか、何がしたい? 何が食べたいってレイラに優しく聞いてくれて、本当にレイラも指折り数えて待っていて。
それに何よりも、レイラが七歳になるお誕生日にはあの可愛い、素敵なテディベアだって贈って貰える。お父様がそう約束してくれたのだ。昨日に戻りたい。昨日の、お母様とお父様に会いたい。
お願いだから、誰も奪ってしまわないで。レイラから、大好きなお母様とお父様を奪ってしまわないで。熱い涙が零れ落ちる。ぐしゅんと鼻を鳴らして、メルーディスにしがみついた。全部レイラのせいだ、ずっとお外に出たいだなんて、そんな我が儘を言って困らせていたから。
そんなこともう願ったりなんかしないから、もう一生町になんて行かなくていいから。お願いだからどうか、レイラから大好きなお父様とお母様を奪ってしまわないで。
「っどうかお願いです!! 私はどうなってもいいから、この子だけは、レイラの命だけはどうか見逃してください! 私達のせいでこの子は、まだ生まれてから一度も屋敷の外に出たことが無いんです!!」
「お母様!! そんなこと言わないで、お願い! レイラと生きていて!!」
「ごめんごめんね、レイラ! お母様が全部悪かったの、ごめんね! こんなことならもっと早くに貴女を外に出していれば良かった、本当にごめんね……!!」
「お母様、違うの、レイラが全部悪いの……!!」
「いいえ! 貴女はなんにも悪くなんて無いの、全部お母様が悪いの!! ずっとずっと怖くて、レイラに当たり前の、子供らしいことを何一つさせてあげれなかったの!! 怖くて仕方が無くて普通の、子供らしい当たり前の生活を、レイラから全部全部奪い取ってしまったの! 本当にごめんね、レイラ? どうか駄目なお母様のことを許してくれる……?」
それが母の最期の言葉だった。目の前が赤く点滅して、燃えるような熱さが襲ってきて、母の胸元を握りしめた。
ああ、お母様。貴女は全てを理解していた筈なのに、最期の最期までずっと、私を抱きしめて離そうとしなかった。全てを理解して。私に殺されると、そう全てを理解して。
そう理解していながらも貴女は、最期の最期まで私を抱きしめて、決して離そうとはしなかった。それがこんなにも苦しくて愛おしい。私の、大好きなお母様。
「っいいか!? よく見てろよ、この薄ノロ馬鹿共が! 人を殺すってのはなぁ!! 相手がでっかい腹を抱えた妊婦だろうと、泣いているクソガキだろうと……」
その言葉が引き金となってしまった。レイラの体の中から何かが弾ける。弾けて、放出されて目の前が真っ白になる。強烈な倦怠感と吐き気、めまいに虚脱感。貧血を起こしたかのように、頭がぐらぐらと揺れて手足の感覚が無くなった。息が出来なくて浅かった。レイラがふらつく体のまま、べしゃりと大理石の床に倒れこむ。
ハミルトン子爵家の玄関ホールは、白い大理石と重厚な赤茶色の壁で出来ていた。息が上手に出来なくて、無意識に母親のメルーディスを手で探った。手足が冷えて寒い。まるで全ての気力を使い果たしたみたいだ。
手に何かぬるりとした物が当たる、いや、手だけではない。顔にも何か、嗅いだことがないような、熱くて生臭い紐状のものがべったりと張り付いている。そっと瞳を開いて、そのぬるぬるとした気持ち悪い物を引き剥がす。
「うぇっ? 何これ、気持ちが悪い、ぬるぬるしてる……お母様?」
あの瞬間を、今でもこうして夢に見る。一気に血の気が引いた。誰か誰でもいいから、これは嘘だと言って欲しかった。これは嘘だよ、レイラはお母様を殺してなんかいないよって。目の前に広がるのは血の海で、綺麗なお母様だった物体が弾けて横たわっている。
嘘でしょう、と思考が止まった中で呆然と唾を飲み込んだ。皮膚がひりついている。あまりの事態に、息が止まって何も考えられない。嘘でしょう? お母様がそんなまさか、だって今までああやってレイラを抱き締めて。
抱き締めて、ごめんねって泣いて謝ってたよ?
だってそんな、まさかレイラがお母様を、大好きで大事なお母様を――――……。
「っこのクソガキ!! 自分で自分の母親を殺しやがった!! おいっ、お前ら! ちょっとまとめてこっちに来い!」
その言葉で理解した。いや、理解させられた。また体が熱くなってきた。全身の血が沸騰したかのように燃え上がって、収拾がつかなくなる。一瞬で沸いたのは憎しみと苦しみ、かつてない程の後悔と恨みと悲しみと罪悪感。
「っああああああああ!! レイラが、レイラがお母様を殺した! レイラが、お母様を殺しちゃったんだ!!」
絶叫する、ただ訳も分からずに。自分の障がいによって母を殺したとは、この時の私は何も理解なんて出来なかった。ただひたすらに、自分のせいで母が死んだのだと。レイラこそが、大事で大好きなお母様を殺したのだと。数多の刃物と拳銃を持っていた男たちではなく。私こそが、あの大事で優しいお母様を殺してしまったのだと。
全ての咎は私にあるのだと。
「っお前たちさえいなければ、それで良かったのに!!」
それは自然と出た言葉だった。内臓を振り絞るかのように、腹の底から憎しみを噴き上げて絶叫した。喉が痛い、全身が熱い。ぜえぜえと、あまりの憎しみで息が荒くなって、信じられない力が湧き出る。お前たちさえ生まれてこなければと、全身全霊で相手の存在を呪った。
私は立ち上がる、あるのはただ。あるのはただ、現実逃避で人を殺そうとする気持ちだけ。これは復讐ではなかった、そうではなく目の前の現実から目を背けたくて私は。相手の男たちを殺そうと、一瞬で決めたのだった。だって、人を殺す方法はとっくの昔に確立されているではないか。私のこの、体の中で熱く沸騰している魔力を相手に向けて放出すればいい。
お母様がそう、証明してくれたから。今なら何だって出来る。
「うわあああああっ!? やめろやめて、頼むからこっちに来ないでくれよっ! 誰か助け――――」
「何だ、このクソガキ!? まさかこの歳でそんな致死魔術を、」
「お前ら!! こっちだこっち! 早くこっちに逃げて、ここから脱出を……」
全員、逃がすつもりなんて最初から無かった。赤い血が飛び散って、誰かの悲鳴が後ろの方で上がって過ぎ去って、またそんな悲鳴が上がる。熱い体で走って走って、誰かの逃げる背中を全力で追った。不思議と高揚していたのを覚えている、口元には笑いさえ浮かんでいた。強い酒を一気に呷ったかのようだった。
頬が取り返しがつかないぐらいに熱くて、興奮状態だった。心臓がばくばくと叫んでいる、吐き気と悲しみと苦しみと憎しみが渦巻いている。体が信じられないぐらいに軽くて手足も冷静に動かせた、全速力で走っても躓くことさえなかった。馬鹿みたいに冷静だった。
私は今、相手の男たちを確実に殺している。お母様をこの手で殺してしまったから。
「っうあああああん!! レイラが、殺しちゃったんだ、お母様を!! この手で!」
もう、息をしている者は誰もいない。あるのは、冷たい現実と弾け飛んでぐちゃぐちゃとなった死体だけで。赤、赤、誰かの指と手足と噎せ返るような鉄臭い、生臭い血の匂い。それらの匂いが鼻から口に入って、吐きそうだった。彼らも食事をして、排泄をして生きていた人間だ。それを考えると、血の匂い以外にも何かが漂ってきそうで、吐き気がして口元を押さえる。
べったりと、誰かの乾きかけの血液が口元にこびりついた。人の血とは案外、あっという間に乾いてかさかさに固まるものなのかと、やけに冷静にそう考えていた。
それなのに息が荒い、心臓がばくばくと激しく脈打っている。鼻がつんと痛くなって、腹の辺りがズキズキと嫌な鼓動を刻んでいる。
「うあ、うわああああん、もど、戻ってきてよ、お母様!! ごめんなさい、レイラが悪かったから! ごめんなさい、もうお外に出て遊びたいだなんて、二度と言わないから戻ってきてよ、お母様……!!」
ぼろぼろと熱い涙が零れ落ちて、ようやくその場に座り込んで絶望出来た。また体が熱くなってきた。この時になるともう、何となく自分の体質を理解していた。母が恋しい、こんな時にこそ優しく傍にいて欲しいのに。
『おやすみなさい、私の大事な愛おしい宝物』
そうやってつい昨日の夜まで、私の額に優しくキスしていてくれたのに! それなのに私が、あの大好きで大事なお母様をこの手で殺してしまっただなんて!
お願い、お願い! どうか夢であって。
どうか誰かこれは夢で、優しい昨日の続きがこれから始まるのだと。お願いだからどうか、これは夢だとそう言って欲しい! 私はなんにも悪くないんだよって、誰でもいいからそう言って背中を擦って欲しい!
あまりの惨めさに、小さな拳を床に叩きつけた瞬間。
「っレイラ!! ごめん、遅くなった! 一体お前の身に何が……!!」
「だめ!! 絶対に来ないで、お父様!」
不意に玄関の扉が開いて、もう一人の大事な家族の声が響き渡る。父のエドモンは屋敷の惨状を目の当たりにしても、真っ直ぐレイラへと向かって走る。その足取りに一切の迷いはなかった、ただ。自分が父まで殺してしまうかもしれない、という恐怖で魔力を暴発させてしまった。
その一瞬で父の体が崩れ落ちる。直撃だった、腹に当たった。
「っお父様!!」
短く絶叫した、その言葉には全ての絶望が刻まれていた。喉が痛い、悲しみと苦しみで体の何もかもが引き千切れてしまいそうだった。
「っ嫌だ!! やだやだ、お願い! お父様まで死んじゃわないで!? レイラの傍にいてよ! お願いだからレイラを一人ぼっちにしないでよ、お願い……!!」
うつぶせに倒れた父の元に駆けつける。それでももう、体は熱くなんてならなかった。きっと、今のが最後の魔力だった。エドモンが何とか体を起こして腹這いのまま、泣いているレイラの手をそっと優しく握り締める。
「っう、大丈夫だよ、レイラ……絶対にお前を一人になんかしないからね……」
守られる筈がない約束に、レイラは紫色の瞳を大きく歪めた。嘘だ。だってこんなにも沢山の血が溢れている。ああ、失われてゆく優しい嘘がなんてこんなにも愛おしくて苦しいのだろうか。ただ黙って、父の手を両手で強く握りしめた。顔を伏せて、あまりの激しい苦しみに目を瞑る。
「める、メルーディス、彼女は、お母様は一体どこに……?」
「レイラが、殺しちゃったの。ごめん、ごめんなさい、お父様。あんなに楽しみにしていたお腹の赤ちゃんも、レイラのせいで死んじゃって……」
「っエドモン! ああ、なんてこった、エドモン!!」
はっと後ろを振り向くと、どこからやって来たのかハーヴェイ・キャンベルがこちらへ駆け寄ってくる。そのすぐ後ろには、眩い銀色の長髪をなびかせた“月の女神”を引き連れて。
「ハーヴェイおじ様!」
「っああああああああ!! だから俺がレイラ嬢を引き取るって言ったのに!! だから俺が、レイラ嬢を引き取って育てるって言ったのにさぁ! エドモン! 悪い、ダイアナ! レイラ嬢のことを頼めるか!?」
「勿論よ、ハーヴェイ。わたくしは子供を慈しむ人外者ですもの、貴方はエドモンを見ていなさいな」
自分が激しく罵られているような気がした。ハーヴェイはこちらに目もくれずに、床にそっと膝をついて、エドモンの体を抱きかかえる。
「……ああ、可哀想に。でも、大丈夫よ? だってわたくしは子供を慈しみ、守る人外者ですもの」
そんな深みのある甘くて優しい声と共に、月面のように光る白銀の腕がこちらへと伸ばされた。銀の光を紡いだかのような、豊かに波打つ眩い銀色の髪。それは彼女の足首まで流れ落ちていた。恍惚と猫のように細められた、青い宝石のような深い瞳が身震いする程に美しい。
彼女は神話に出てくる女神のような白い布を纏って、滑らかなドレスに仕立て上げていた。くっきりと浮かんだ谷間はどうしてだか、下品ではなく神秘的に見える。
「人間はね? いつからかわたくしのことをダイアナとも、月の女神ともそう呼ぶようになったの」
ダイアナが目の前にふわりと舞い降りて座り込み、こちらの両手を胸元で握ってくれる。滑らかな光沢を放つ、絹のような白いドレスが大理石の床に広がって美しかった。それはまるで、お伽話の挿絵のようで。
「とても可笑しな話でしょう? わたくしに塩の大海を引き摺るような力が無くとも、植物の種蒔きを手伝うような力が無くともそれはそれで、一向に構わないんですって……」
体からじんわりと苦しみが吸い取られてゆく、彼女がこちらを見て美しく微笑む。慈しまれる心地よさに深く息を吐いた。これは後から知ったことだが、ダイアナはレイラに精神安定のラベンダー魔術をかけていたのだ。ふわりと、甘くて優しい芳香がレイラを包み込む。
「もう、やめてくれよ、ハーヴェイ……致命傷だともう、治癒魔術だって発動しないって、ジョージ叔父さんからもそう習ったじゃないか……」
「っやめてくれよ、そんなことを言うなよ、エドモン!! ちょっと待っててくれよ、今すぐ俺がお前の傷を治すからさぁ!?」
ああ、終わってしまう。最愛の父から時間が奪われて、永遠に動かなくなってしまう。お父様には、もう永遠に会えなくなってしまう。咄嗟にダイアナの手を振り払って、ばっとハーヴェイに駆け寄った。ハーヴェイの腕の中で、父のエドモンが穏やかな微笑みを浮かべている。それはまるで、もう心残りは無いとでも言いたげに。
「お父様! ごめんなさい、レイラが本当に全部悪いの! レイラが、お母様とお父様と、生まれてくる筈だったお腹の中の赤ちゃんを、レイラが殺しちゃったの……!!」
「っそれは絶対に違う、レイラ!!」
「エドモン!? お前、そんなに動いたら傷が広がって、」
それまで穏やかだった父が一転して、がばっと、凄まじい勢いで体を起こして私の両肩を握りめる。きつく爪が食い込んだ。お父様の目が血走って、ひび割れたくちびるが震えている。恐ろしくて鳥肌が立つ。
レイラの、これからの運命を変える予感に満ちている。苦しそうな父の顔が歪んで、ごぼりと、口から泡立った血液が吐き出された。白いワンピースに熱い血がぶちまけられる、布地を通して、太ももにぐっしょりと重たく染み込んでゆく。
これも初めて知った、血が重たいことを。人が水を吐くみたいに血をぶちまけるのも。はっとエドモンが荒く息を吐き出して、心底苦しそうに息を吸い込んだ。
「っいいか!? 今日ここで起きたことは全て忘れるんだ、レイラ!! お父様とお母様が死んだのは絶対にレイラのせいなんかじゃない、お前はただただ、全てを忘れて、どうか幸せに生きて行ってくれ!!」
「絶対に無理よ、お父様! 絶対にそんなことは出来ない!!」
「あああああああっ、エドモン!! 俺は!? 俺への最期の言葉は!?」
焦ったハーヴェイが、無理矢理エドモンを引き剥がしてその両腕に抱える。ぐったりと、エドモンがハーヴェイの腕の中で目を瞑っている。それでも父は泣き虫な親友の為だけに、その澄んだ紫色の瞳をかろうじて開く。その顔色は白かった、血の気が全て失われていた。
やがて震える細い指で、ハーヴェイの頬に触れて、泣き出しそうな顔で笑う。
「さようなら、ハーヴェイ。俺の親友。……お前に看取って貰えて、これほどの幸せはないよ。ありがとう。いつまでもこんな俺の、親友でいてくれて……凄く楽しくて幸せだったよ」
「エドモン……!! 俺の方こそ、俺の方こそありがとう! 俺と親友になってくれて」
ハーヴェイも大粒の涙を零して、エドモンの手を強く握り締めた。
「生まれてきてくれてありがとう、エドモン! みんな、お前のことを愛していたよ……」
その振り絞った言葉に聞いて、エドモンが深く美しく笑った。それはまるで、遠い昔を懐かしむかのような、旅立ってゆく人の笑顔。
「……さようなら、ハーヴェイ。俺の大事な親友」
ぱたりと、エドモンの白い手が落ちる。苦しく、ただひたすらに絶叫した。
「っあああああああ!! ごめんなさい、ごめんなさい、お父様!! ごめんなさい、レイラが全部悪いの!!」
「っそれは絶対に違うよ、レイラ嬢! ごめん、おじさん、自分のことしか考えてなくてごめん!!」
はっと我に返ったハーヴェイが、それまで抱きしめていたエドモンを床に置いて、レイラを抱き締める。それは生きている人の力強い抱擁だった、その健やかな体温が酷く懐かしいものに感じられた。
「これからは一緒に生きて行こう、レイラ嬢! いや、レイラ! エドモンが言っていた通り、全てを忘れて幸せに生きて行こう! 大丈夫、その為におじさん達が傍にいるから……!!」
「絶対に無理よ、ハーヴェイおじ様!! そんなの絶対に無理よ、だって私が―――─」
こうして、私に呪いが刻まれてしまった。全てを忘れて幸せに生きろと言った、お父様の最期の呪いが両肩に刻まれてしまった。今でもあの、死にゆく人の爪の感触が残っている。まるで今でも、両肩を掴まれているかのように。爪が。
爪が食い込んでいる。
「っ私がお父様とお母様と、お腹の中の赤ちゃんを殺してしまった―――─……!!」
「うわあっ!? れい、レイラちゃん!? どうしたの、大丈夫!?」




