8.公衆浴場の悪魔と彼女の嘆き
ああ、一体どうしてだろう。
(好きだって自覚したばっかなのに。なんでいきなりこんな仕事が入ってくるんだろう……)
特殊な石鹸で、魔生物のクチバシ鳥が黄色く塗りたくった洗面器を洗いつつ考え込む。ここは淡い水色のタイル床と白い壁の公衆浴場で、今現在エディと二人で依頼をこなしている最中なのだが。
(死ぬ、死んでしまう……)
顔を上げて半裸のエディを見つめる。流石にいつもの紺碧色ズボンは履いているが、それだって時間の問題だろう。絶対に近い内に脱ぐに違いない。
彼が鮮やかな赤髪を揺らして、デッキブラシでクチバシ鳥の体をころころと動かす。このクチバシ鳥はころりんとした丸いフォルムのペンギンで(そうとしか見えない)、嬉しそうに「きゅっ、きゅっ」と鳴きながらデッキブラシでころころと転がされていた。わらわらと数十羽ほど集まった黒いペンギンを転がし、エディが嬉しそうな笑顔で話しかける。
「お前ら~、もう一回やるか~?」
「きゅっ! きゅっ!」
「よっしゃ! 向こうの壁まで滑りに行くぞ~! あはは、なんかこれってアイスホッケーみたいだ!」
エディが楽しそうに笑って走り、デッキブラシの先でクチバシ鳥をころころと転がす。ああ、かっこいい。かっこいい……。
(末期、末期だ……エディさんが物凄く格好良く見える。末期だ、末期……)
日に焼けた筋肉質の体を見るとうぐっとなる。それにキラキラの眩しい笑顔が追加される。ああ、胸が忙しない。ずっともぞもぞとしてしまう。
スポンジをぎゅっと握り締めると、黄色い泡が溢れ出てきた。このクチバシ鳥達は何故か公衆浴場に大量発生して、黄色や赤のスプレー缶で床と壁を汚し始めたのだ。
だからこうして遊び相手になってやり、くたくたに憔悴しきったご主人の代わりに掃除しているのだが。ふっと影が落ち、何だろうと思って顔を上げる。そこにはエディが立っていた。気遣わしげな淡い琥珀色の瞳を向けられ、きゅっと胸が狭くなってしまう。
「レイラちゃん、大丈夫? さっきからなんか、元気ないし……」
「えっ、ええっと、ふっ、ふく。服着たらどうですか? エディさん……」
思わず足元の白い泡を見つめると、エディがふっと笑った。そしてしゃがみこんで、こちらの顔を覗き込んでくる。さらりと、黒髪を耳の後ろへとかけてくれる。
「あれだよね……レイラちゃんって本当、男慣れしてないよね……」
(にっぶ!! 何なの、その鈍さは!? 照れてるだけなのに私! 直視できないだけなのに、その半裸姿を!!)
熱い指先が遠ざかって、どうしようもなく胸が締め付けられる。ああ、どうしてだろう。どうしてそんなに鈍いんだろう。立ち上がったエディが低く笑って、こちらの頭を撫でてくれた。
「あんまり無理しないでね、レイラちゃん。代わろうか? 洗面器洗うの」
「いっ、いいです……あり、ありがとうございます……」
また誰か他の女性にアタックしたら嫌だから。なるべく好意が伝わるように優しく、優しく……。エディが淡い琥珀色の瞳を瞠って、にっこりと笑った。眩しい……。
「これ、終わったら服を着るから待ってて。あ~、でも俺。いっそ下も脱いじゃいたい!」
「わーっ! 待って待って!! 駄目です、ベルトに手をかけないで下さいよ!? エディさん!?」
慌てて立ち上がって、エディのベルトをぎゅっと握り締める。あっ、どうしようこれ。かなり距離が近いし、ちょっと駄目なのでは。エディがこちらの手に手を重ね、嬉しそうに笑う。
「大丈夫だよ、レイラちゃん! 流石にしないって、そんなこと。まぁ、汗も掻いてて張り付いてくるから、脱ぎたいのは本当なんだけどね……」
「だっ、駄目です。絶対に……そっ、その。もう少し私の心臓のことも考えて下さいよ……?」
ああ、伝わらないかな。伝わるといいのに、この好意が何となく。顔を伏せてエディのベルトを握り締めていると、困惑した様子が伝わってくる。体を揺らして、そっと私の手を振りほどいた。
「じゃっ、じゃあ俺、まだもうちょっと遊んでくるから……だいぶ満足してきたみたいだし、あいつらも」
「あっ、はい。行ってらっしゃい……」
何故逃げる。そのぎくしゃくとした足取りで遠ざかってゆくエディを見て、苛立った。ああ、もう。彼はずっと今朝からこんな調子だ。
(折角、分かりやすく好意を示しているのに……それとも分かり辛いのかな、もう少し何か)
でも他に思いつかない。エディの手を握ったりとかは無理だ。死んでしまう。
(ああ、どうしよう。どうしたらいいんだろう、私……)
呆然と突っ立っていると、足元に丸いフォルムのクチバシ鳥がやって来た。そのまん丸な黒い体を揺らして、「きゅっ! きゅっ!」と心配そうな声で鳴き始める。思わず笑みが零れた。そのころころとした体を抱き上げ、ぎゅっと抱き締める。
「ふふっ、ありがとう。何でもないの」
「きゅっ! きゅっ!」
「え~? 貴方も抱っこ? 仕方が無いなぁ、も~」
足元にわらわらと寄ってきたクチバシ鳥に笑いかけていると、少し離れた遠くの方でエディが「えーっ!? 羨ましい! 俺もレイラちゃんに抱っこされたい!」と叫ぶ。ああ、もう。まったくもう。
「流石に無理でしょ、それは! 絶対絶対八十キロ以上あるでしょう、エディさん!」
「最近計ってないから分かんないな~。じゃあ後で膝枕して欲しい……」
「じゃあって何ですか……? 駄目でーす、しませーん」
「え~? ぶ~、ぶ~!!」
両手の親指を下げて、不満そうな表情でくちびるを尖らせている。ああ、好きだなぁ。どうしようもない。今までずっとずっと封じ込めていた分、溢れ出してきてどうしようもない。
「さっさと終わらせてご飯を食べに行きましょうよ、エディさん! さぁ、ほらっ、早くっ」
「うぇーい。お前ら、まだ満足してないの? もう一回やるか、あれ!」
「きゅっ、きゅ~」
ころころと黒いクチバシ鳥が転がってゆき、それを見てエディが笑う。淡い水色のタイル床には白い泡が落ちていて、その上をデッキブラシ片手に走ってゆく。
(ああ、格好いい……というか逆に何で、私は今まで好きにならなかったんだろう……)
やたらとキラキラしていて落ち着かない。黄色いスポンジを握り締め、エディを見つめる。しかしそれではいつまで経っても終わらないので、洗面器に向き直ってがむしゃらに磨く。ひたすら磨く。
「エディ、エディさん。どこで食べますか? 今日……」
「えっ? どこでもいいけど、別に。レイラちゃんの好きなところで」
ああ、伝わらない。隣を歩くエディを見上げ、深く考え込む。ここは飲食店が集まっている通りで、エディの好きな店で食べようと思ったのだが。
(そう言えば、私。いつもここに入りましょうか! って言って入って食べてた……)
エディが笑って「じゃあ、ここにしよっか」と言ってくれるから、何も気にしてなかったが。上機嫌なエディの横顔を見つめ、くちびるを噛み締める。
「あの、私。物凄く我が儘なのでは……?」
「えっ!? どうしたの、レイラちゃん? そんなことないと思うけど」
「エディさんは優しいと言うか、甘いと言うか……でも、優しくてとっても素敵な男性ですよね!」
やった! 言えた! それなのにエディが物凄く微妙な顔をしている。何でだろう……。
「あれかな、レイラちゃん……またどっかで困ってる人とか……俺に手伝わせたいことでもあるのかな?」
「うっ、疑り深い……何でそうなるんですか? 純粋に褒めただけなのに……」
エディが「うーん」と低く唸って、二の腕を組む。何で警戒されているんだろう、私。
「俺がやった! デートだ! ってはしゃいだ時も結局、修道院で畑仕事だったし……あの日もやたらと俺の服を褒めてくれたけど。その後に待ち受けてたのは、くっさい鶏糞が山積みにされたおんぼろトラックという……」
「あっ、ああ。そんなこともありましたね……」
エディが肩を落とし、「そうだよね、レイラちゃんからしたらそう言えばそんなこともあったな~にしか過ぎない出来事だよね……どうでもいいよね、俺のことなんかね」と言って暗い眼差しになってしまう。ああ、折角褒めたのに何故かネガティブモードに……。
「えっ、エディさん! ほらっ! エディさんが好きそうな、でっ、デート向きのカフェがありますよ! テラス席で一緒にご飯を食べませんか? ぱっ、パフェとかもシェアして食べて、」
「ありがとう、レイラちゃん。大丈夫だよ、そんなに無理して励まさなくっても……俺、午後からの仕事もちゃんと頑張るからさ?」
(ああああっ、伝わらない……一体どうして!?)
駄目だ、私の日頃の行いが悪いせいだ。エディが力なく微笑んで、白い石畳を見つめる。いいや、でも。ここはお洒落な雰囲気のデートスポットなんだから。前にも後ろにも、幸せそうなカップルが沢山いるんだし。
「エディさん! ほらっ、エディさんの好きなお店で食べましょう? いっつも雑誌とかチェックして、」
「じゃあ、あの……ピンクと黒のドット柄の店に行きたい……あの店、カップルシートがあるんだって」
「カップルシート……」
「レイラちゃんと二人で並んで座って、手を繋いでフルーツパフェが食べたい。あれだって、ぐるぐるの二人で吸えるストロー付きのジュースとかがあるんだって」
凄い、滅茶苦茶把握している。いや、それよりも何よりも、エディと手を繋いで座ってそうやってジュース飲むの────……。
「無理無理、絶対に無理。無理……」
「だっ、だよね!? ごめんね、俺が気持ち悪いこと言っちゃって……」
ああ、伝わらない。でも、どうしよう? このままの調子だったら、嫌われてしまうのでは……。
「エディ、エディさん。カップルシートは無理ですが、ほら。こことかは……?」
「あっ、うん。何でもいいよ、もう。俺」
二人で落ち込みつつ、木と白い壁がナチュラルな雰囲気のカフェに入る。恋愛って本当に難しいな。
しかし、困った。どうしよう? 美味しそうな料理が数多く載ったメニューを見て固まる。
(しょっ、食欲が湧かない……何で?)
エディはもう早速食べたいのが見つかったのか、「俺はこれとこれにしよっかな~」と言いつつ顎に手を添えている。流石は元王族、そんな仕草も様になっていて優雅だ。思わず見惚れてしまう。そうやって見惚れていると、ふと淡い琥珀色の瞳がこちらを向いた。きゅっと胸の奥が狭まって、途端に食欲が無くなる。
「レイラちゃん? 何にする? もう決まった?」
「あ~、私は何か。食欲も無いし、このシーフードサラダだけで……」
「えっ!? 大丈夫!? 今朝からずっとぼーっとしてるし顔も赤いし、もしかして!」
あっ、ばれたかもしれない。エディが眉を寄せて、気難しい表情で近寄ってくる。そして何故か、ぴたりと私の額に手を当てた。
「熱でもある!? 季節の変わり目だしね!? そう言えば今日の十時五十二分と十一時三十八分にくしゃみを二回ずつしてたよね!? 昨日だって泣いてたし元気が無かったし!」
「ちょっと待って下さい、エディさん……怖いです。あと昨日泣いていたのはその、」
「てっきり怒って泣いてるのかと思ったけど……涼しくなってくるとメンタルもがたがたになっちゃうし、秋の始めで人肌が恋しいからかなって思ってたんだけど」
一体、どうしてそんな思考回路になったんだろう。
(あれ? ひょっとして全然伝わってない? 私の好意……)
どうしよう。エディが私にがっかりして、離れて行ったらどうしよう。
「折角頑張ってるのに……もういいです、サラダも食べません……ジンジャーティーと林檎とバニラアイスのせのワッフルを頼みます」
「ええっ!? 体に良くないよ!? あと具合も悪いのに無理して頑張る必要無いからね!? ねっ!?」
ああ、腹が立つ。
(どうしてそんなに鈍いんだろう……あーあ)
深く溜め息を吐いて、メニューを睨みつけた。でも、ワッフルもサラダも食べたいとは思わない。ひたすら頭がぼーっとして、胸の奥が詰まって何も食べれない。食べたくない。ふすんと鼻を鳴らし、向かいに座ったエディを眺める。
「エディさんの顔、見てると食欲無くすんですよね……」
「ごっ、ごめん……そんなにまだ怒ってる……?」
(やっぱり伝わらなかった……)
あのままぼんやりと仕事をして、上の空で屋敷に帰る。アーノルドがやたらと物言いたげな顔をして、あれこれ聞いてきたが上手く返事が出来ない。ぼんやりとエディの顔をずっと思い浮かべている。
(まさか、こんなに……本当に恋をしたら、こんな感じになるんだな……ずっと頬が熱い)
そしてやたらと喉が渇く。胸の奥がきゅっと甘く詰まって、ひたすら妄想を繰り広げてしまう。食欲も湧かず、心配そうな顔のハーヴェイに頭を下げた。
「ごめんなさい、ハーヴェイおじ様。食欲も無いので寝ます……」
「えっ!? 大丈夫か!? 風邪か!?」
何故皆、よってたかって私を体調不良にしたがるのだろう。そのことにも苛立って、「大丈夫ですって、ただ疲れただけなので!」と声を荒げて自分の部屋に行く。
(連絡来てるかな、魔術手帳……来てないか)
ブラウスとスカートを脱いで、ゆったりとした紺色のシャツワンピースに着替える。洗面所で顔を洗ってメイクを落として、髪も解いてごろりんと寝台に寝そべる。化粧水すらつける気力が湧かない。顔が後でぱりぱりになるのに。片足を持ち上げ、何となく自分の白い足を見つめる。
(エディさんから連絡来ないかな……あっ、そうだ。テディベア!)
むくりと起き上がって、カウチソファーの上に座っているテディベアを見に行く。そこには真っ赤なリボンを巻いたテディベアが座っていて、愛くるしい表情で私を見上げてくれる。私の宝物、私の大事な大事な宝物。
「そっか。好きな人からの贈り物なんだな、これ……」
短い毛並みのテディベアを抱き上げ、笑う。お父様が私にくれる予定だったテディベア。エディが全部全部、私の淋しさを埋めてくれた。満たしてくれた、どこまでもひたひたと。ぎゅっと抱き締めて、両目を閉じる。
「好きです、エディさん……」
自分のしていることに赤面して、慌ててテディベアを元に戻す。カウチソファーから離れてほっと胸を撫で下ろしていると、テーブルの上に置いた魔術手帳がちりりんっと鳴る。
「えっ!? でんっ、電話!? エディさんかな!?」
慌てて妖精に触れると、ぽんっと音が鳴った。魔術手帳が淡く光って通話が始まる。
「あっ、でた。良かった! 今喋れる? レイラちゃん」
「あっ、しゃっ、喋れますけど……」
「野菜は無理だったけど、ハーブが収穫出来たよ! 今日! レイラちゃんが好きなバジル!」
「えっ? 一体何の話ですか、エディさん……」
やたらといきいきとした声でよく分からないことを言い出す。よくよく聞いてみると、どうやら私のために野菜を育てているらしく。
「えっ? そんなことをしてたんですか……?」
「うん。流石に小麦を作るのは断念したけど……」
「手作りのサンドイッチって多分、そういうことじゃないと思うんですよ……エディさん」
思わず笑ってしまう。そうだった、以前。エディの作ったサンドイッチが食べてみたいと言ったんだった。
(おかしいな、前だったら気持ち悪いって思ってたのに)
なのに可愛いと思ってしまう。好きが溢れて止まらなくなってしまう。
「エディさん、ありがとうございます。じゃあまた明日、楽しみにしていますね?」
「うん、楽しみにしてて! レイラちゃん! ジェノベーゼソースを作ってパスタにするね! 持って行くね!」
「あれ、サンドイッチは……?」
寝台で魔術手帳を開き、両足をぱたぱたと動かす。胸が弾んで、途端に幸せな気持ちになる。ああ、楽しいな。こうやって喋るの。
「両方作って持っていく! ほら、レイラちゃんさ? 今日食欲無いって言ってたから……」
「えっ? 大丈夫ですよ? 風邪とかじゃないし、別に……」
「じゃあ、俺の顔が暑苦しくて食欲が湧かなかったのかな……」
「何でそんなにいちいち落ち込むんですか? 違いますから! 本当に!!」
つい声を荒げてしまい、エディが「うっ、うん。ごめんね? レイラちゃん……」と謝ってくる。どうしてこんなに上手く行かないんだろう、色々と。
「とにっ、とにかく! 違うのでまた明日……その、楽しみにいますね?」
「ありがとう、レイラちゃん。じゃあまた明日……」
「えっ? もう終わりですか? もう少し喋っていたいんですけど……」
エディが困った様子で「ごめん、俺。腹減っちゃってさ……飯食ってくる」と呟く。あっ、ああ。もう。私ってば!
「ごっ、ごめんなさい……じゃああの、その、後で電話してもいいですか……?」
「喜んで!! 五秒で飲み干してくるね!!」
「いえ、よく噛んで食べて下さい。喉やられますよ、それ」
するとまたしょんぼりと落ち込んで「はーい。じゃあ食べてきまーす……」と呟く。名残惜しい気持ちで「また後で」と言い、魔術手帳を閉じた。
「あーあ。好きなのに上手く行かないな、本当にもう……!!」




