2.夏の社員旅行 行きのバスと海辺にて
「ねぇねぇ、レイラちゃん? これ食べる? 君の好きなお菓子。リュックサックに山ほど持ってきた、」
「おい、エディ。前を向け。前を。お前、さっきからずっと後ろを向いているじゃねぇか……」
「レイラちゃんがそこにいる限り、俺はそっちを向くから……」
きょとんと、不思議そうな表情でエディがナッツチョコバーを齧り取っている。バスの座席にもたれたエディを見て、隣のアーノルドが深い溜め息を吐いた。そう、今日は待ちに待った社員旅行の日である。
「レイラちゃん~、いる? チョコバー。あとキャラメルビスケットとピスタチオと檸檬のクリームサンドと、」
「ぴっ、ピスタチオと檸檬のクリームサンド! 下さい!」
赤と青のキャップを被ったエディがにやりと笑って、淡い琥珀色の瞳を細めた。我ながら確かに単純だが、でも。
「レイラ、お前。寝とけ、昨日全然眠れてなかったんだろ? 向こうに着いたらどーせすぐに海で遊ぶつもりなんだろうから。ほい」」
「あっ、ありがとうございます……でもクリームサンド。ピスタチオ!」
隣の席に座ったアーノルドが毛布を取り出して、こちらへと渡してくれる。そんな彼は今日、紺色の貝釦が美しいシャツとデニムを着ていた。サングラスもかけているのでいつもより色気が増している。
「レイラちゃん、ピスタチオも好きなんだ? そう言えば先週の火曜日と先々週の月曜日の食後のデザートはピスタチオのムースケーキとジェラートを食べてたよね~」
「くっ、詳し過ぎる……!! 見てたんですね、と言うか覚えてるんですね……」
相変わらずの記憶力だ。凄まじい。若干慄きつつ、青と白の包装紙に包まれたクリームサンドを受け取って眺める。
「これは……かなりお高めのやつなのでは? エディさん」
「最近、俺。お取り寄せにはまってて。だから。何だっけ? どこの地方のお菓子だっけな、それ。ミエレ島のお菓子だっけな」
「俺にも一つくれよ、エディ。どーせアホみたいにたっぷり持ってきてるんだろ? あと酔わないのか? ずっと後ろ向いてて」
アーノルドにお菓子を渡すためなのか、エディが前を向いてがさごそと何かを漁り出す。
(うーん。仲が良いんだか悪いんだか……)
白いノースリーブのフリルニットに青いスカートを履いたレイラは溜め息を吐き、ぱりぱりと包装紙を破く。どっしりとした黄金色のクッキーに挟まれているのは滑らかな檸檬とピスタチオのクリームで、ふわりと砂糖の甘い香りが漂ってくる。
「お、おいし~。流石ミエレ島のお菓子……」
「でしょ、最近はまっててリピートしてる。ほい、アーノルド。お前は檸檬より紅茶だろ。ダージリンと胡桃のバタークッキー」
「ありがとう、エディ。ってお前、流石にそんなには食えん! あと三枚ほど減らしてくれ」
わさっと、一気に五枚ほど受け取ったアーノルドがぼやく。すると後ろの席に座っていたジーンとミリーが話しかけてきた。
「ぶちょ~、俺達にもちょーだい。それ~」
「エディ君、貰っても大丈夫? あと揺れるからそんなに動かないで! ジーン!」
「へ~い、ごめんごめん」
「いいですよー、ミリーさん。お口に合うといいんですけど」
アーノルドが無言で伸びてきた白い手にクッキーを押し付け、通路の向こう側に座ったエマにも勧める。
「エマ、いるか? お前。さっきから滅茶苦茶視線を感じるんだが……」
「エマがレイラちゃんの隣に座りたかったのに、エマがレイラちゃんの隣に座りたかったのに、エマがレイラちゃんの隣に、」
「はいはい、落ち着けよ。エマ? 部長、すみません。貰います。あ、こいつの分だけでいいです。一枚だけで。俺、そんなに食欲無いんで」
虚ろな深緑色の瞳でエマがじっとアーノルドを見つめていた。首を伸ばして手を振ってみると、にっこりと微笑んで手をひらひらと振り返してくれる。
「レイラちゃーん、海楽しみだね~! 糞悪魔と婚約者が邪魔だけど~! 一緒に泳ごうね~!」
「泳ぎましょうね~。と言うかアラン君は大丈夫なんでしょうか……? トイレから全然戻ってきてない」
立ち上がって後ろのトイレを振り返ってみると、ちょうど青白い顔で出てくるところだった。心なしか、いつもの金髪巻き毛も元気が無い。すかさず強面のライが立ち上がって、揺れているのにそちらへと駆け寄る。
「だっ、大丈夫か? アラン。っとと、揺れるな。もうすぐ着くからな?」
「ごめん、ライおじさん。ありがとう…………大丈夫、吐いたらすっきりしたみたい。酔い止め飲んでたのに」
まぁ、彼のことは優しいライに任せておけば大丈夫だろう。前を向いて座り直していると、エディがこちらをじっと凝視していた。その真っ直ぐな淡い琥珀色の瞳にたじろいで、膝の上の毛布を握り締める。
「あっ、あの……?」
「やっぱりあの水着は着ないで欲しいよ、レイラちゃん。俺」
「あっ、ああ。水着の話でしたか…………そんなに真剣な顔をしているから。一体何事かと思いましたよ、エディさん」
エディがふっと無邪気に笑い、こちらを熱っぽく見下ろしてきた。
「あとその服も凄く似合ってる。可愛いよね、背中がなんかあみあみのリボンになっていて」
「あみあみのリボン……? ああ、編み上げリボンのことですね。そうそう、スカートに付いていて。こういうのは意外と無くてめずらし……」
そこでふと気が付く。車内の意識がこちらに集中していることを。唾を飲み込んで振り返ってみると、アーノルドが二の腕を組んで不貞腐れていた。ああ、また。
「エディさんと喋り過ぎてしまった……!! すみません、エディさん。もう二度と私に話しかけないで下さい。あとちゃんと前を向いて座って下さい。寝ます」
「ええーっ!? そんなぁーっ!? え~、つまんない。俺。お前が睨んでいるからじゃねぇの? アーノルド?」
「俺は睨んでない。レイラの被害妄想だ、俺も寝る。おやすみ」
「え~? おやすみ。ええええ~、つまんないなぁ、もう」
がたごとと、バスの振動を感じながら眠る。ああ、どうしよう。好きになる訳にはいかないのに、距離を縮める訳にはいかないのに。
(頬が熱い。……褒められるのも何もかも。いつものことなのに)
「ついたぁーっ!! 海っ、海-っ!」
「っおい、エディ? さき荷物運び出してホテルに行くぞー、つっても誰もいないが」
「へっ? なんでいないの? かなり豪華だけど? 元離宮なんだっけ?」
青い海を眺めていたエディが、不思議そうな表情で振り返る。そして鮮やかな赤髪を揺らし、遠くのホテルを指差した。今日は社員旅行だからか麻のゆったりとした黒いシャツにデニムを履いており、いつもより随分とラフな格好である。
レイラもつられてそちらを見てみると、白亜の宮殿のようなホテルはヤシの木と砂地に囲まれ、いかにも高級リゾート地に建っているホテルという風情だった。レイラはリュックサックを背負いつつ、にやりと笑う。
「エディさーん。ふふふふ。どうしてたかだか社員旅行で。あの高級ホテルを貸切にして泊まれるのか。教えてあげましょうかー?」
「えっ!? しかも貸切なの!? 贅沢!!」
「おい、レイラ? あの、」
「部長もねええええ~…………イケメンだとあれっすよね、得っすよね」
「本当マジでそれな、マーカス。あー、あー、あー。羨ましいなぁ、本当」
「おい、お前ら……」
地味な顔立ちのトムとマーカスに肩を叩かれてしまい、アーノルドが顔を顰める。しかし薄い色合いのサングラスをかけて立つ彼は美しく、その手足も恐ろしく長い。
「それで? レイラちゃん。どうして貸切なの? あれ」
「あのホテルの持ち主のおばさんが。もといマダムが無料で借してくれるんですよ。毎年」
「毎年無料で……?」
「こっちを振り向くなよ、エディ。さっ、行くぞー」
アーノルドが触れて欲しくないと言った様子で鞄を持ち上げ、ホテルの方へ向かう。仕方が無いので歩きつつ、まだ不思議そうな顔のエディに説明してやった。
「そのお金持ちのマダムが一週間、アーノルド様を連れて夜会やお茶会だの何だのに行くんですよねー。だからその代わりに。交換条件、交換条件」
「へー……あいつがそんな、条件を飲むとは思えないんだけどなぁ」
「私が飲ませたんです、私が。無料で高級ホテルに泊まりたかったから。それにプライベートビーチだし、他に誰も来ないし」
ざくざくと砂混じりの道路を歩きつつ、エディがぽつりと呟いた。
「俺、どうして夏真っ盛りの時じゃなくて。今の時期に行くのかなって思ってたんだけど」
「一番ホテルが儲かる時ですからね~、夏は。だからまぁこうして。かろうじてシーズンを過ぎた時に借りるんですよ、無料で」
「嬉しいんだね、レイラちゃん。無料が…………」
「はい、嬉しいです。アーノルド様って本当に便利な存在ですよね!」
「そっかぁ~……そっかぁ。気の毒だな、あいつも。常々そう思ってたけど」
「マーカス君にトム君。それにジェラルドさん。俺、レイラちゃんの水着姿が楽しみでなりません…………」
「いや、ちょっとそれは共感出来ないなぁ、エディ君……後ろに部長がいるから」
砂浜で体育座りをしているジェラルドが遠い目で呟いた。その隣に座ったエディは灰色のパーカーを着て、トロピカルなパイナップル柄の水着を履いている。鮮やかな赤髪が陽に煌き、辺りを灼熱の太陽がじりじりと照らす。やはりまだ夏だ、暑い。
四人の背後に立ったアーノルドはふとサングラスを外し、鋭い銀灰色の瞳で見下ろした。
「別にいいぞ。……楽しみにするぐらい」
「えっ、あっ、はい。うん、いや……まぁ、俺も婚約者に怒られちゃうんで」
「嘘っ!? 婚約してたのかよ、お前! あーっ!! さっきまで無かった婚約指輪が嵌まってる!! 誰もいねーんだから女避けする必要ないだろ!! 俺らへの当て付けか!? なぁ!?」
恋人がいないマーカスがジェラルドの手を持ち上げ、食ってかかる。その隣で体育座りをしていたトムは静かにその横顔を見つめていた。しかし、黒いサングラスをかけているので表情が窺えない。
「おい、誰と婚約したんだ? エマか?」
「いや、アーノルド。それは流石にちょっとないって、」
「そうです、部長。流石ですね、正解です」
「えええええええーっ!? だったらジェラルド君!? もうちょっと君の婚約者を何とかしてくれないかな!? エマさん、今日もレイラちゃんの胸を揉みしだいていたんだけど!?」
「エディ君、お祝いの言葉は……? まぁ別にいいけど」
ジェラルドの手を放して、マーカスが深い溜め息を吐く。どうやらマーカスも祝う気が無いらしい。「おめでとう」と言おうかどうしようか悩んだものの、そんな雰囲気ではないので口を噤む。
かっと灼熱の太陽が辺りを照らしていた。青くさざめく海から潮風が吹きつけ、自分の銀髪を揺らしていく。
「なぁ……お前。またそんな一体どうして。自殺願望があるとしか言いようがないことを……? 何か深刻な悩みでもあるのか? なぁ?」
「失礼な……おめでとうぐらい言ってくれよ、マーカス君」
ざざんと、波の音が響く。その音を聞きつつエディとマーカス、トムとジェラルドの四人は体育座りをしていた。全員、その眼差しは遠い。こいつら、何で並んで座っているんだ? しかしそんなことも言えず、また口を閉ざす。
「いや、初恋の女性だったんだよね。そもそもの話。わりと振られっぱなしだったけど」
「マジか、器用だなぁ~。お前。俺にも幼馴染の女子がいるけどさ~。なんかもう、そんな感じじゃないもん。あいつゴリラだもん。完璧に」
「何でだろうなぁ、マーカス君。本当何でだろうなぁ~、マーカス君」
「大丈夫? 騙されたりしてない? あとエディ君、何でそんなに静かなの?」
そこでじっと、ひたすら虚ろな瞳で黙っていたエディが口を開く。
「いや……先を越されたなと思ってさ。ごめん、ジェラルド君。俺、祝えないや全然。嫉妬で気が狂いそう。いいなぁ、俺も幸せな結婚がしたいなぁ~。いいなぁ~」
「素直だな、ほんと……エディ君は」
「…………まぁ、別にいいだろ。エディ。いつかは俺も婚約解消してお前とレイラの、」
「うえええええっ!? マジっすか!? 浮気公認!? 公認的な!?」
「うるさいな、トム……あと近い。もう少し離れてくれよ、暑苦しいから」
ざっと砂浜から立ち上がったトムが驚愕の表情で詰め寄ってきて、黒いサングラスを持ち上げる。
「本当に本当にレイラ嬢のことを諦めるんすか? ねぇ? ねぇ!?」
「うるさいな、も~。あいつが、レイラがエディのことを好きになったらだ。意味無いだろ、そんなの。俺とレイラが結婚したってさ」
「あ~……まぁ、急速に惹かれてってるから、レイラ嬢もエディ君に」
「そっ、そうかな!? 惹かれてるかな!?」
慌てて立ち上がったエディを見て眉を顰める。口を開きかけた瞬間、背後からレイラを含む女性陣がやって来た。
「アーノルド様~! ってあれ? 皆さん全然泳いでな、」
「レイラちゃん、パーカーを着よう!? パーカーを! ほらっ、俺のパーカーを貸してあげるからさ!? 隠そう!? 脇腹とおっぱい!!」
「せいっ!! おおっ、凄い。腹筋。殴ってもびくともしない……!!」
「かっ、かなり痛かったけどね、レイラちゃん……」
苦笑しつつ片手で腹を押さえ、愛おしそうな眼差しでレイラを見つめる。ああ、苦いものが胸の奥から込み上げる。早く言えばいいのに。
(気が付いていないんだろうが、お前らは……どこからどう見てもイチャついているカップルにしか見えないよ、最近は)
その言葉も飲み込み、背を向ける。おそらく好奇の視線を送ってきているであろう、部下どもから目を逸らすため。自分がどう足掻いても手に入らなかった、好きな女性から目を逸らすため。
「それじゃあ、レイラ。俺、泳いでくるな? ああ、そうだ。遠くの方へ行くなよ? 海で泳ぐ時は必ず浮き輪かエディを持って、」
「大丈夫ですって、だから! 溺れませんって、もー! 毎年言うの何でですか!? うるさい!」
「……悪かったな、うるさくて。じゃ」
あいつは十二歳の時、海で溺れかけたのに。そのことを覚えていないのか。背後で誰かが低く笑った、エディだ。
「お前も気をつけて、アーノルド。あんま遠くに行くなよー?」
「うるせぇよ、エディ。お前が俺を子ども扱いするなよ、鬱陶しい。じゃ」
振り返って手を上げれば、口をぱくぱくと動かして「ありがとう、ごめん」と言っていた。ああ、だから嫌いなんだ。その鮮やかな赤髪も琥珀色の瞳も。だから嫌いなんだ、お前さえいなかったら俺は。俺は。
(やめよう、考えるの……レイラはエディと結婚して幸せになるんだ。それが最善で、ずっとずっと、昔から俺が願ってきたことだから…………)
この苦しみは全て海に流してしまおう、そうしよう。
ぎゅっと、灰色のパーカーを握り締める。レイラは揺らめく木陰のビーチベットにて、膝を抱えて座っていた。サングラスを持ち上げたエディが、不思議そうな表情で見下ろしてくる。
「あれ? レイラちゃん。泳がないの? 一緒に泳ごうよ、海で~」
「えっ? でっ、でも」
わりと直視が出来ない。そして羽織った灰色のパーカーから、瑞々しいライムとベルガモットのような香りが漂ってくる。汗と陽の光の匂いも。ばくばくばくと心臓が鳴っていた。エディがふっと、淡い琥珀色の瞳を細めて笑う。
「いいじゃん、泳ごうよ? それともあれかな? 顔が赤いけど。……ひょっとして照れてる?」
乾いた指先が黒髪を絡め取って、そのまま頬の輪郭を優しくなぞってくる。レイラは紫色の瞳を揺らがせ、エディを見上げた。
「あっ……の。エディさんがその、ええっと、パーカーを着ればいいと思います…………」
「ん~、となると今度は俺が照れる番だからさ~。白い脇腹とおっぱいが目に毒。いっつも我慢してんのに、俺」
「がっ、がまん……海で泳ぎます! そしてパーカーお借りします!!」
どうしてそういうことを言ってしまえるんだろう、こうも軽くあっさりと。脇に置いてあったイルカの浮き輪とゴーグルを持って、ビーチサンダルに足を突っ込んで海へと向かう。するとエディが背後で笑い声を上げ、ざくざくと砂浜を踏みしめつつ近寄ってくる。
「レイラちゃんってさ、そういうところが本当に可愛いよね。純粋というか何と言うか。分かりやすくって」
「おいっ、置いて行きますよっ? 海で遊びませんよっ?」
「ははは、ごめんごめん。可愛いなぁ、もう」
本気でそう思っているような口調だ。どこまでも甘く、蕩けている。ごくりと唾を飲み込み、青い海だけを見据えてひたすら歩いていた。熱い砂地を踏みしめて歩き、蟹や魚の死体を乗り越えて波打ち際へ辿り着くと。
「レイラちゃあああんっ! かっわいいー! 水着がっ、ぶっ!?」
「エマ、行くぞ。エディ君の目が凄いから。ほらジーンも来い。邪魔するなよ、お前」
「えーっ!? つまんなーいっ! 俺もレイラ嬢と、」
「いいから行くわよ、ジーン。はい、さっさと歩く!」
それまで波打ち際で遊んでいたミリー達がそそくさと、こちらを振り返りもせずに去ってゆく。凄い目とはどんな目だろうかと思って振り返ってみると、そこには甘い微笑みを浮かべたエディが立っていた。……うん、いつも通りだ。いつも通りの、蕩けるような淡い琥珀色の瞳がこちらを見下ろしている。
「さっ、レイラちゃん? 遊ぼうか? 俺と二人きりでね?」
「うっ、ううーん……何だか陰謀の香りがする。怪しい。あとちょっとだけサイラス様に似ててやだ!」
「ええっ!? いやっ、まぁ。双子だからね、俺達…………雰囲気は違うみたいだけど。あと性格もね」
しょんぼりと落ち込んだ様子でサンダルを脱ぎ、その足先を海へと浸す。私も真似して浸してみると、思ったよりも冷たい海水が揺らいでこちらの足を撫でていった。
「わっ、わ~! 海って感じがする! ねっ? エディさん! ちょっと遠くの方まで行ってみませんか!?」
「別にいいけど。俺としてはレイラちゃんとキャッキャウフフがしたい。こんな風にさ! ほらっ!」
「おわぁっ!? ちょっ、エディさん!?」
一応メイクもしているのに、ばしゃりと海水をかけられてしまった。エディが悪戯っぽく笑って、その両手から海水を滴り落としている。思わず笑みが浮かんで、お返しにと屈んで海水を掬ってかけてやる。
「わ~! いった! 目に入った!! しまったなぁ、ゴーグル。してくれば良かった~!」
「私、一応ゴーグル持ってきたんですけど……ほら、貸してあげましょうか?」
「えっ? いいの? でもさ、それってさ、レイラちゃんの目が痛くならない?」
「本格的に泳ぐ気は無いから、別に。もうちょい進んでみましょうよ、ほら」
手を差し伸べてみると、エディが淡い琥珀色の瞳を瞠って途方に暮れていた。そして宝物か何かに触れるかのように、私の手をそっと握り締めてはにかむ。
「……うん、ありがとう。レイラちゃん。行こうか、もうちょい向こうに」
「えっ、あっ、はい…………」
しまった、手を握ったのは失敗だったかもしれない。それでも放せずに手を繋いで、ちゃぷちゃぷと青い海を掻き分けて入ってゆく。途端にほんのりと冷たい海水が水着へと染み込み、肌を撫でていった。
「わ~、晴れて良かったですねぇ。天気予報では何か、ところにより雨が降るって。そうありましたけど」
「ね、良かった。晴れて。たまには新聞の天気予報も当たるねぇ~。あっ、そうだ。レイラちゃん、髪が」
「髪? 何かなってます?」
不思議に思って振り返ってみると、エディが笑って零れ落ちた黒髪を掬い上げてくれる。きちんと後ろの方で纏めていたのだが。どうも零れ落ちていたらしい。
「…………まぁ、ちょっと。触りたいっていう下心からかな?」
「きょっ、今日はやけに……積極的? 積極的ですね?」
珍しい。エディは近頃、私を子供扱いしてばかりだったのに。ふと湧き上がってきた子供っぽい考えに頬が熱くなってきて、ゆらゆらと揺れ動く海面を見つめた。美しく透き通っていて、カラフルな小魚と白い砂地が見える。
「レイラちゃん、俺。そろそろ我慢の限界だから……」
「ひえっ!? ちょっ、逃げるしかない! 逃げるっ!!」
「えっ!? なんで!? くっそ、こんにゃろっ! よしっ、捕まえたっ!」
「おわっ!? はっや、流石エディさん。戦争の英雄……」
あっ、余計なことを言ってしまったかもしれない。背後のエディが静かに笑って、こちらのお腹に手を回してぎゅっと抱き締めてくる。海水に濡れた逞しい両腕に、あっという間に息が詰まってしまった。心拍数が凄いことになっている。
「エディ、エディさん。これ、絶対に誰かが後ろの方で見てる……」
「気にしなくていいよ、レイラちゃん。……お願いだから気にしないで欲しい、何も」
あれ? 以前にもそう言っていなかったっけ。彼は。その腕に手を添えて、きらきらと光り輝く青い海と広い空を眺めていた。絶景だ。青い海がどこまでも透き通って広がっている。
「エディさん……そおいっ!!」
「あいてぇっ!? やっぱ駄目だった!? 駄目だった!?」
「駄目ですぅー! 恥ずかしいから! そんじゃっ!」
やけになってじゃぶじゃぶと海水の中を歩き、流動的な砂地を踏みしめていると。背後に立っているエディが喉を鳴らして笑い、ぼそりと呟いた。
「恥ずかしいからなんだ? …………婚約者がいるからじゃなくて?」
「っそれは」
振り返ってみると、淡い琥珀色の瞳を細めて妖艶に笑っていた。どこまでも鮮やかな赤髪がざぁっと風に揺らいで、それを見て心臓がどきりと跳ね上がってしまう。
「レイラちゃん、いつか絶対に君は俺のことが好きになるよ。諦めが悪いよね、君も」
「……エディさん」
深く息を吸い込んでその名前を呟けば、どこかで何かが酷く痛み出す。じくじくと膿みを伴って溢れ出し、どうしようもなく胸の奥が締め付けられる。エディは「なんてことないよ」とでも言いたげに、いつもの明るい微笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちょっとあっちの方まで泳いでみる? レイラちゃん」




