6.ローストビーフの悪意とパンナコッタの謎
「うーん、レイラちゃんは今日は何を食べる予定? 俺、割といっつもこういう所でメニューが中々決められないんだよなぁ~、なんだかやたらと、ここの食堂のメニューが豪華だしで余計に迷う……」
「あー、それは何か分かる気がする。ここの食堂は主に裕福な国家魔術師が利用するので、まぁ、国家魔術師なんてエリートの集まりだしで、安いメニューと高いメニューが混ざって豊富なんですよね」
カラフルな写真が並んだメニューの立て看板を眺めて、隣のエディが唸っている。これはまだまだ時間がかかりそうだなと思って、さりげなく横の彼を見上げた。まだお昼休憩も始まったばかりで、食堂は比較的空いていた。本日の天気は快晴で、まるでお洒落なカフェテリアのような食堂が、明るい陽の光に照らされている。
(……エディさんが来て、もう一週間ぐらいか)
彼は戦争の英雄だ、それなのに。それなのに私は、彼といて楽しいと思っている。彼の傍がとんでもなく落ち着くのだ。彼は育ちが良い元王族なので、いつも背筋がぴんと伸びている。それなのに私が話しかけると、その背中を曲げて目線を合わせてくれる。「どうしたの?」と、シナモンのように甘い声で優しく聞いてくれる。
その蕩けるような淡い琥珀色の瞳も何もかも。どうすればいいのかよく分からない熱に、胸の奥が苦しくなる。どうすればいい。私にどうしろと言うの、貴方は?
私は貴方のことなんか、好きになる訳にはいかないのだから。私はこれまで通りアーノルドと歪んだ関係を続けて行くのだろうし、何が何でも絶対に義理の両親を悲しませたくないのだ。
それに何よりも、罪人の私はそんな風に幸せになるべきではない。そこまでを考えてからふと、アーノルドに思いを馳せる。アーノルドは私のことが好きでも何でもないくせに、最近はエディに嫉妬して、甘えてくる回数が増えてきている。
今夜もまたあんな感じだろうか、と憂鬱に考えて深い溜め息を吐いた。
「レイラちゃん、こっちの海老アボカド玉子サンドとチキンベーグルサンドのどっちがいいと思う!?」
「……海老アボカド玉子サンドかな? 何でかは知りませんが、春限定メニューです」
エディが満足そうに頷いてから、こちらを見つめて穏やかに笑う。背中までの長く、鮮やかな赤髪が揺れ動いた。
「それじゃあ、そうしようかな? レイラちゃんは何を頼むか決めた?」
「私も同じ物にしようかな? 何か、エディさんがいっつも美味しそうに食べているからか、私まで食べたくなっちゃうんですよ……」
ばくばくと軽快に食べている彼を見たら何故だか、こちらまで余計にお腹が空いてしまう。
「あはは、俺、人からよくそう言われるよ。デザートも俺と同じ物にする?」
「ちなみに何を頼む予定なんですか?」
「葡萄ゼリーと林檎のタルト! あの、バニラアイスも乗っかったやつ!」
「……私は葡萄ゼリーだけにしようかな。よく入りますよね、そんなの」
「俺は燃費が悪いからね~、大体いつも腹が減ってるよ?」
「言われてみれば、確かにそんな感じですね……」
エディとは難なく上手くやっている。もしかしたらそれは、あんまり良くないことなのかもしれないが。それでも、どうしても気がかりな事が一つだけある。それは彼が時折こちらを、酷く冷たい目で見下ろしてくることだ。
全ての感情を打ち消したかのような、暗くて虚ろな瞳に不信感が募ってゆく。どうしてそんな風に、虚ろな表情でぼんやりと眺めてくるのか。そう尋ねる勇気はなかった。
「……婚約者がいるくせに、信じられない。他の男と嬉しそうに歩いて」
「本当、その通りよね。アーノルド様がお気の毒だわ、あんな男に媚を売るだけの女が婚約者で……」
ひゅっと息を飲み込み、トレイを持ったまま振り返る。その小さな悪意に、ともすれば聞き逃してしまいそうな程の囁き声に。そこには歪んだ微笑みでこちらを見つめている、美しい金髪の女性と黒髪の女性がいた。
(私にだって、この婚約はどうしようもないものなのに? 私は、死んでしまったお父様の代替品でしかないのに……?)
誰かの代わりでも何でもなく、存在を愛して貰ったら、それはどんなに幸福なことなのだろう?
今は亡きハミルトン子爵に、お父様に会いたくなった時は鏡を見ればいい。そこには亡きお父様と髪も目の色も、顔立ちまでそっくりな女の子がいるから。生前のエドモンが着ていたという、ヘリンボーン柄の薄茶色ジャケットを羽織ってみる。
「わあ、なんてそっくりなんだろう? ……まるで私が、生きているお父様のようね」
真夜中の鏡の前で泣きたいような笑い出したいような、そんな気持ちで顔を歪ませた。鏡を見ながら、胸元をそっと苦しく押さえる。
「私のお父様はもう、どこにもいないんだけどね……だって私が」
愛されたい、愛されたい。そのままで愛されたい、誰か誰でもいいから私だけを見つめて欲しい。誰か誰でもいいから、私を亡きお父様の代わりになんかしないで欲しい。誰かお願いだから、私がお父様の娘ではなくとも、似ていなくとも愛していたと、そう言って欲しい。
それともこれは、罪人のおこがましい願いなのだろうか?
「お父様の髪が、もう少し短ければ代わりにはされなかった? お父様が生きてたら、」
お願いだから私だけを見て見つめて。私はレイラだから、たとえどんなに死んだお父様に似ていたとしても。
「っ私が、お父様に似てなかったら? ハーヴェイおじ様に、このままの私が好きって。そう言って貰えたのかな? ……それとも私はいらない? このままの私は誰もいらないの?」
涙が滲んで、鼻がつんと痛くなる。熱い涙が込み上げて、必要とされたい惨めさに胸が苦しくなる。愛されたい、愛されたい、そのままの存在を。誰の代わりにもされない、幸福な夢を見ていた。私はお父様なんかじゃないの、お父様には到底なれないの。
だからどうか、誰も私を亡きお父様の代替品なんかにしないで────……。
「っおい! そこの性格の悪さが滲み出ているクソブス女ども! 今、俺のレイラちゃんに何て言いやがった!?」
容赦のない鋭い声が、勢い良く発せられる。エディだった。エディが燃えるような怒りを宿して、ずかずかと彼女達の下へ向かう。慌ててその後を追った。まだ休憩時間が始まったばかりの、昼時の食堂に不穏な気配が満ちる。
不思議と何の言葉も出なかった、でも。守られているなと思うと、熱い涙が滲み出てきた。
(ああ……!! エディさんお願いだから、お願いだから)
お願いだからそんな風に私を守らないで欲しいと、その背中に泣いて縋りたくなった。好きになってしまうのが怖いから、嫌だから。はっと、息を荒げてエディの背後に到着する。ここからはあまり、相手の顔が見えない。
「なん、なんですか? あなたはいったい、」
「とぼけるなよ、このクソブス女ども!! 性根の悪さがありありとその顔に浮かんでやがる!」
「えっ、エエエディさん!? 今すぐこの方達に謝って下さい、いくら何でもそれはちょっと!」
海老アボカドサンドイッチをトレイに乗せたまま、背後からエディの袖をぐいぐいと引っ張る。すると彼は憤慨したように、ぐるりんと勢い良くこちらを振り返った。
「だってレイラちゃん!? この性悪ブス女どもはわざわざ通りすがりに、それもぎりぎり聞こえるか聞こえないかの声量で! レイラちゃんのことを他の男に媚を売るだけの女って呟いてきたんだよ!? 性格が悪すぎるだろ、手口が陰湿だ、陰湿!!」
びしっと、引き攣った表情の美しい女性達を指で指し示す。くるりとまた、彼が私を背中に隠して向き直る。
「俺がな!? レイラちゃんに優しくされているとでも思っているのか!? 今朝だって足のつま先を踏み潰されたばっかりだし、何なら俺がおはようって言っただけで嫌そうに顔を顰めるんだぞ!?」
「え、エディさん!? もう色んな意味で黙ってて欲しいです!!」
「ほらぁ! 今だって俺がレイラちゃんの為に動いてんのに、こうやって邪魔者扱いされてるじゃん!? もう嫌だ、俺! この片思いが不毛過ぎて心が折れそうだよ、謝れ! レイラちゃんと主に俺に謝れ!! 俺だってレイラちゃんに媚を売られたいよ、そんなもん、夢のまた夢だよ!! 俺に今すぐ謝れ!!」
「え、エディさん!?」
あまりの突然の出来事に、彼女達は反応が出来ないのか呆然と突っ立っている。深緑色の制服を着ていることから、魔術装置及び魔術道具修理課の職員なのだろう。その二人が持っているトレイの上には、柔らかそうな赤いローストビーフとマッシュポテトが美しく添えられていて、玉葱と葡萄酒のソースがかけられている。
「そうか、お前らがきちんと俺に謝らないのならこちらにもそれなりの考えはある」
ぐっと低くなった声が聞こえたかと思うと、彼の方からぼっと火の付くような音が聞こえてきた。驚いてその手元を眺めると、彼の指先が、赤い炎の魔力にゆらりと包まれている。エディが人差し指と中指を合わせて、くちびるの前でぴんと立てて見せた。その仕草は少しだけ、内緒だよという時の仕草に似ている。
「レイラちゃんに悪口を言うようなお前らは、赤いローストビーフなんて食うな!! 食らえ、ローストビーフ丸焦げパワー!」
エディが指先を振り下ろすのと同時に、ぼっと音を立てて、赤いローストビーフが炎に包まれる。「きゃあっ!?」と小さく悲鳴が上がって、瞬く間に黒焦げのローストビーフが出来上がった。
(す、すごい! 何て精度なんだろう、距離も対象も術語で指定して、それなのに魔術発動まで僅か数秒だなんて、流石は一等級国家魔術師……って違う!! 感心している場合じゃない! 今すぐ逃げなきゃ!!)
それなのにエディは物足りなかったようで、険しい目つきで指を差している。
「いいか!? これに懲りたらもう二度と、絶対にレイラちゃんの悪口を言うなよ!?」
「わーっ!? エディさん、もういいから行きますよ!? あとそれからそこのお二人も! これでおあいこという事で! 私でも見ての通り、エディさんを制御出来ないので! 次はどうなっても知りませんよ!? それでは!!」
ちょっと脅すぐらいは許されるだろう、と思ったので面と向かってそう言ってやった。彼女達は訳も分からず、ただひたすら呆然と佇んでいるので、その隙に逃げる。エディを急かして追い立てていたレイラが、その後ろでふっと笑みを零した。
「なんですか、あのローストビーフ丸焦げパワーって! 子供ですか? 魔術を使うのに、呪文なんて必要ないのに!」
「でも、こうやってレイラちゃんが笑顔になってくれたからね。唱えた甲斐があっただろう?」
エディがお茶目にウィンクをしてみせ、それにつられて、弾けるように笑ってしまった。
(ああ! 敵わないなぁ、本当に)
彼といると、こんなにも世界が輝いて見える。たとえ私が、どんなにおぞましい罪に手を染めていたとしてもだ。
「はい、これどうぞ。レイラちゃんの好きなパンナコッタ」
それはデザートの、葡萄ゼリーの最後の一口を飲み込んだ後だった。二度手間になるが、空いたお皿は早々に返却してしまって、食後に心ゆくまでデザートを楽しみたい派の私の目の前に、とろりんとした白いパンナコッタが現れる。
「……何ですか、これは?」
ゼリーの容器を持ったまま首を傾げると、向かいの席に座ったエディがくすりと笑い、淡い琥珀色の瞳を優しく細める。
「何って、レイラちゃんの好きなパンナコッタだよ? さっきは嫌な目に遭ったからね、そういう時は好きな食べ物でも食べて元気を出して貰おうと思って」
「だからわざわざ、これを追加注文をしに行ってたんですね……?」
それにしてもパンナコッタが好きだということを、彼はどうして知っているのだろう? 少なくとも話した覚えは無い、甘い物が好きだと話した事はあるが。エディにはあまり、個人情報を話さないようにしている。なるべく距離を縮めたくないからだ。他にも様々なケーキやデザートがある中で、どうしてこのパンナコッタを選んだのだろう?
メニューの隅の方にひっそりと載っている、昔から好きな食べ物を。アーノルドがよく、私を励ますためにこれを作ってくれる。
「……あの、いらないならいらないで、俺が全部食べるから……」
「ちょっと待って下さい、別に食べないとは言ってませんよ!? 折角なので有難く頂きます!」
「そ、そう? 俺からの施しは受け取らないって言って、ひっくり返されるかと思ったよ……」
「私は一体いつの時代の貧しい人なんですか? 職場の同僚からの頂き物ですからね、有難く頂きますよ?」
「えっ? そこは好きな人からの贈り物だって、そう言って欲しかったな……」
「図々しいにも程がありません? それでは、早速頂きます!」
さっとスプーンを持ち上げ、その滑らかなパンナコッタを口に含む。予想通りの口どけの良さに、思わず頬が緩んだ。甘いミルクの味わいとひんやりとした滑らかさに、先程の悲しみもほろりと解けてゆく。
「……良かった、元気が出たみたいで」
優しくて心底ほっとしたような、甘くて低い声に思わず泣きたくなった。見るとエディが、蕩けるような淡い琥珀色の眼差しで、優しい微笑みを浮かべている。ああ、敵わない。本当にどうしてなんだろう。彼には全部を洗いざらい打ち明けてしまいたくなる、思わず甘えて縋ってしまいたくなる。
「いっつもそうなんです、アーノルド様の熱狂的なファンの方や本気で恋焦がれている人達が、ああやって私に嫌がらせをしてくるんですよ。私にだってこの婚約はどうしようもない物なのに、本当になんでって……」
堰を切ったように話してしまえば、後はもう止まらなかった。息が苦しい、一人が淋しい、誰かに話を聞いて欲しい、彼に優しく慰めて欲しい。胸がどうしようもなく狭苦しくなって、熱い塊がせり上がってくる。
「私はどうすればいいと思いますか、エディさん? たとえ婚約破棄したって、私はアーノルド様とはずっと家族で、これからもひとつ屋根の下で暮らしていくのに、本当に私は一体どうしたら、」
「どうもしなくていいと思うよ、レイラちゃん。君は何も悪くないんだからさ?」
そっと優しく手を重ねられ、見ると、エディが痛ましげな微笑みを浮かべていた。鮮やかな赤髪に淡い琥珀色の瞳がどこまでも穏やかで、その澄んだ眼差しに気持ちが落ち着く。
「いいよ、何も気にしなくて。またああやって、性悪クソ女どもから何か嫌がらせをされたら、俺がその都度撃退してあげるし。こうして悲しくなったら俺がいくらでも慰めて、話を聞いてあげるから……」
ぎゅっと温かく手を握り締められ、悲しく俯いた。こんなことをしているから、ああやって通りすがりに悪口を言われてしまうのだと。それをよく理解している筈なのに、どうしてもこの手が振り払えない。どうしても、この温かい手のひらと優しい眼差しを求めている。エディの手を、もう片方の手でそっと包み込む。
「エディさんは本当にずるいです……そんな風に言われてしまうと、際限なく甘えたくなるからもうやめて下さいよ……」
エディがふっと穏やかに微笑んでから、身を乗り出して顔を寄せてくる。夕陽のように鮮やかな赤髪からふわりと、瑞々しい柑橘系の香りとスパイスのような匂いが漂ってくる。息を飲み込んで淡い琥珀色の瞳を見つめていると、エディの端正な口元が動いて。
「……好きだよ、レイラちゃん。だから早く諦めて、俺のことを好きになって?」
ああ、それは悪魔の甘い誘惑にも等しい。私には婚約者がいるのに、彼ともそれなりに楽しんでいるくせに。その近さに戸惑って、思わず間近でエディの顔を見つめてしまう。睫が長い、その熱い琥珀色の瞳に息が止まってしまいそうだ。
「早く何もかもを諦めて、俺のことを好きになってくれたら。どこまでも思う存分、甘やかしてあげれるのになぁ……」
ひっそりと落ちてきた甘い囁き声に、心臓が限界を迎える。今すぐここから逃げ出したい、心が痒くて仕方が無い、心臓がばくばくと混乱に陥っている。
「いっ、いいです!! じゅうっ、十分間に合っておりますから!! もういい加減に手を離してくださ、」
「顔が真っ赤ですごく可愛いね? 俺に甘やかして欲しいのなら、もっと素直におねだりしてごらん?」
「むっむむむむ無理でふ!! 今ので私の心臓は限界になりました、今すぐ逃げ出したいきぶんです、どうか勘弁して下さい……!!」
ざっと勢い良くエディから離れ、猛然とパンナコッタを食べてみる。今は何も考えたくない、とにかくこの場から脱出したい、こういったことに自分はちっとも慣れていないのだ、心臓がばくばくするやら恥ずかしいやらで目が虚ろになってしまう。機械的にかこかこと、パンナコッタを掬い上げていると、正面の席に座った“火炎の悪魔”がにっこりと美しく微笑んで、不吉な予言をし始める。
「可愛いね、レイラちゃん。俺のことを好きになるのも、時間の問題かな?」
ああ、先が思いやられる。これからはたぶん、ずっと彼と一緒なのに。好きになんてなりたくないのにどうしよう。どうしたら私は、この悪魔から逃げ出せるんだろう?
(ああ、胸が苦しい。恋愛ってもっと楽なものかと、てっきりそう思ってたのに……)
自分の罪と欲望と凄まじい罪悪感に苛まれて、胸がどうしようもなく苦しい。義理の両親に対する申し訳なさと、アーノルドと結婚するべきだという義務感。そして、エディと一緒にいて楽しく思う自分を激しく罵っていた。
私は幸せになってはいけないのに。
今は亡きお父様の最期の呪いが、血と共に両肩に蘇ってくる。あの噎せ返るような血の匂いと、死にゆく人の爪が食い込んだ瞬間。私の両肩にまた、あの両手の爪がぎりりと食い込む。
ぞっとした、これから失われてゆく命の重たさに。私はあの時の瞬間を今でも夢に見る。私は一生楽になれない、きっとどこまでも。




