24.俺だけが知らない彼女の幸福とその穏やかさ
知らなかった、知らなかったんだ。
(まさかそんな、テディベアが欲しかったんだなんて)
言ってくれたら俺が買ってあげたのに、いつだってレイラのことを知っているのは俺だけだと、そう思っていたのに。
「ああ。……レイラ。くそっ!!」
手放そうと手放そうとしているのにどうして、こうも胸の奥から湧き出てくるのか。レイラレイラ。
「ずっとずっと、俺だけが知っていると思っていたのに」
「それじゃあ」
アーノルドの呟きにそっくりさんが呑気な声を出す。ここは真夜中の寝室で、レイラの姿形をしたそっくりさんがソファーに座って、こちらを見つめてくる。いつもの紺碧色の制服を着て、何故かバニラアイスをゆうゆうと食べていた。
「君も贈れば良かったのに、そのテディベアをさ?」
「っ知らなかったんだよ! 知っていたら、俺だって贈っていたさ!!」
「ふぅん? それじゃあさ? あの悪魔は一体どうして知っていたんだろう、レイラが教えたのかな?」
ああ、俺の嫉妬心を煽る為の言葉だと理解している筈なのに。止まらない。
「そうだ、レイラは。あいつにだけは教えていたんだ、あいつにだけはテディベアが欲しいってことを教えていたんだ……!!」
「諦めてしまえばいいのに。あのプレゼントだってそうだろう? 悪魔に味方するためのメッセージ。それなのに、まだ諦めがつかないのかい?」
「ああ、そうだ。つかない、まだ割り切れない……!!」
あいつが後から来たのに、本当は俺がレイラと結婚する筈だったのに。頭を抱えて考え込んでいた。やめておけばいいのに、テーブルに置いた酒を呷ってしまう。かんとグラスを置いて、次第に酔ってきた頭で考え込んでいた。
「レイラだって、俺のことが好きだって言っていたのに。エディよりも誰よりも理解していた筈なのに。嘘だって、嘘だって、そう!! 分かっていた筈なのに。俺は、俺は、」
「だよねぇ~、レイラは嘘吐きだからねぇ~」
あの時の嬉しそうな表情が目に浮かぶ、あいつから貰ったテディベアを抱きかかえていた。わざわざ玄関まで持って行って、嬉しそうな表情でエディを見送っていた。
『それじゃあ、エディさん。どうもありがとうございました! これっ、そのっ、大事にしますね?』
『うん。ありがとう、レイラちゃん! 気に入ってくれて良かったよ、本当に』
まるで恋人のように黒髪を撫でていた、黒髪を掬い上げてその毛先にキスをしていた。途端にレイラが真っ赤になって怒り出して、こちらを申し訳なさそうな紫色の瞳で見つめてくる。胸が詰まって、歯を食い縛っていた。そんな表情をするのなら、最初から俺と結婚するだなんて言って欲しくなかったのに。
「レイラ、レイラ。ああ、辛い。苦しい、レイラレイラ……!!」
「元は君のなんだからさ? 別にいいんじゃない?」
「っ良くない!! あいつが、エディが今まで一体どんな思いで過ごしてきたことか、」
「大丈夫だよ、アーノルド君?」
そこには、エディの姿をしたそっくりさんが立っていた。絶望して見上げていると、俺の顎をぐいっと持ち上げたエディが笑う。その淡い琥珀色の瞳が残虐に光っている。
「君が手放すって決めたんだろう? レイラは君と結婚するって言ってくれたのに。だから」
「頼む。もう、もうやめてくれよ、そっくりさん?」
「どこへ行くんだい? アーノルド君?」
「レイラのところ。会いに行く」
分かっている、分かっているんだ。
「でも、俺だけがレイラの傍にいたのに。どんな時だっていつだって」
それなのに、どうして話してくれなかったんだろう?
「どうしてエディばかりを頼るんだろう? そんなに俺って頼りない存在なのか? なぁ、レイラ!!」
レイラレイラ、分かっているのに。どうしても諦めきれないんだ、レイラレイラ。レイラ。
(この執着がお前を傷付けるとは分かっているのに。幸せにしてやりたいのにお前のことを)
ずっとずっと昔から見てきた、俺の腹に抱きついて笑って、こちらを見上げていたのに。
『ねぇ? アル兄様? 今日のおやつはなぁに? あのね、レイラはね────……』
ああ、可愛い可愛いレイラ。愛おしい。俺だけを見ていてくれたというのに、レイラレイラ。
(多分、純粋に好きとかじゃないんだろうけど。でも、お前は俺と結婚してくれるって、そう言っていたのに。俺は好きなのに。ちゃんと好きなのに)
酒に酔った足取りで扉へと向かうと、背後でアイスを食べていたそっくりさんが呟く。
「やめておいた方がいいと思うけどねぇ、僕は。傷付くだけじゃないか、お互いに」
「分かっている、分かっているけど。話を聞きに行きたい、レイラに会いたい」
「あーあ、もう。折角のお誕生日なのに。レイラも可哀想だなぁ~」
傷付ける為に会いに行くのだと理解しているのに止まらなかった、辛くて悲しくて苦しい。
「淋しい、淋しいんだ。レイラ。俺は。俺にも話していないようなことをあいつに。エディに話していたから」
だから、これはきっと嫉妬心じゃない。そうだ。淋しいだけなんだ、別に俺はお前のことなんか好きじゃない。レイラ、レイラ。
ずっと欲しかった贈り物、お父様が私にくれると約束していた贈り物。遠いあの日のお父様の声が蘇る、いつもの温かな手のひらが私の頭を撫でてくれる。
『そっかぁ~、レイラはこれが欲しいんだな? それじゃあ、七歳のお誕生日にはこれを買ってあげよう。リボンは何色がいい?』
『赤! 真っ赤なやつがいい、真っ赤なやつ!』
お父様がふっと笑って、私と同じ紫色の瞳を細めていた。その手には魔術カタログが握り締められている。街に行って、これを直接見てみたいなと思っていた。
『レイラは赤い色が好きだなぁ~。よし、分かった。それじゃあ、七歳のお誕生日にはこれを買ってあげよう。もう少しだよ? もう少しだよ、ごめんね。レイラ、お前にお父様の厄介な性質を受け継がせてしまって────……』
ああ、お父様。
(最後の最後まで貴方は気にしていた、私を外に出せないことを)
お母様も気にしていた、普通の子供のように外に出せず閉じ込めていたと。最後の最後まで気にしていて、私を抱き締めたせいで死んでしまった。生きていて欲しかったのに、何が何でも。
「っう、お母様……」
お母様が生きていたら、何て言っていた? エディさんのことを。真っ赤なリボンのテディベアを眺めて、その柔らかな毛並みに微笑んでしまう。愛くるしい顔立ちのテディベアの目は琥珀色だった、彼はそれを狙って買ったのだろうか。
「エディさん……どうして、私の欲しいものが分かったんだろう? きっと、貴方のことだからただの偶然なんだろうけど」
彼には野生の勘とでも言うべきようなものがあって、それで、私の言いたいことやしたいことを汲み取ってくれる。かつてのお父様のようにエディさんが笑って、こちらの頭を撫でてくれる。
『無理しなくてもいいよ、レイラちゃん? さっきの人の言い草は確かにちょっと嫌だったよね? ごめんね、俺がもう少し上手く立ち回れたら良かったんだけど……』
好きだと言ってどこまでも優しくしてくれるから、その熱に戸惑って、何をどうしたらいいのかよく分からなくなってしまう。
「エディさん。……エディさん」
愛くるしいテディベアを抱き締めて呟く。真夜中の寝室はどこまでも静寂だった。レイラはパステルピンクのネグリジェを纏って、寝台でテディベアを抱き締めていた。寝台近くのサイドテーブルには真っ赤な薔薇の花束が飾られていて、暗闇の中で光り輝いている。そう見えるだけなんだろうけど、でも。
「嬉しい、嬉しいんだけど。……エディさん」
嬉しいが、その気持ちには応えられないと言うのに。「君は自由なんだよ、レイラちゃん」とあの日のエディの声が蘇ってきて、こちらの胸を大きく揺さぶってくる。
「ああ、嫌だ。……嫌だ」
泣き出しそうな声で呟いていると、ふいに、コンコンと控えめなノック音が響き渡った。
「誰だろう? アーノルド様かな?」
名残惜しい気持ちでテディベアをそっと置く。それがきちんと寝台の上に座ったのを見て、落ちないかどうかを確認してから向かう。
「レイラ」
「アーノルド様? わっ、酒臭い。ちょっと弱いのに一体どうして、」
「何で話したんだ? あいつには」
「へっ? 一体何の話ですか? アーノルド様?」
アーノルドが酒に酔った顔で問いかけてくる。その仄暗い銀灰色の瞳に怯えてしまった。白いシャツに灰色のガウンを羽織ったアーノルドが近寄ってきて、その酒臭い吐息に思わず、顔を顰めてしまう。
「も~、酔ったらろくなことしか言わないんだから! ほらっ? 今日はまだ私の誕生日なんですから、もう少しちゃんとして」
「何で話してくれなかったんだ? あいつには、俺には話してくれなかったのに? テディベアのことを!」
「えっ!? 痛い痛い! ちょっと痛いって、アーノルド様!?」
両手首を強く強く、握り締められて戸惑ってしまう。私だって聞きたいぐらいなのに。
「あのねっ? エディさんに話した覚えなんかちっともありませんって! 考えられるのは街中で、私がテディベアに見惚れていたとか、」
「魔術祝祭も遠いし、冬でも何でもないのに? テディベアが飾られていることなんてそうそうないだろう? 今の季節は夏で、お前が仕事中にそんなことをするのか? なぁ?」
「っいや、でも、だって、子熊のピンブローチには見惚れていたんだしそれで、あっ」
失言に気が付いて口を噤んでいると、アーノルドがショックを受けたように、銀灰色の瞳を瞠っていた。
「他にもまだあったのか? 貰ったのか!? 俺の知らない所で!? なぁ!?」
「いっ、痛い痛い! 痛いってば、アーノルド様!! エディさんなら絶対にそんなことはしないのに!」
腹が立って、最も言ってはいけない言葉を口にしてしまった。背筋がぞっとして、アーノルドを見上げてみると、美しい顔がぐしゃりと歪んでいた。
「レイラ? 俺は、」
「っやだ! お酒臭いし嫌だ!! それに、あの誕生日プレゼントは一体何ですか!? 可愛くてそりゃあ嬉しかったけど! でも!! わざとらしくエディさんのイニシャルとか向日葵の花とか、痛い!!」
おもむろに首を噛まれて、涙が滲む。そのままぎりりと、手首も握り締められる。両手の手首にぐっと爪が食い込んで、お父様の爪が食い込んだ瞬間を思い出してしまう。泣き出してしまいそうだ。
「嫌だ、嫌だ!! 痛い、痛いよ! アル兄様、」
「その名前で俺を。呼ぶなって言っているだろう!? なぁ!?」
「っう、嫌だ。何でどうして!? 痛い! んっ」
酒臭い舌を捻じ込まれ、乱暴に胸を揉まれて、ぞわっと嫌悪感が這い上がってくる。思わず両手で突き飛ばして泣いていた、堰を切ったように涙が溢れ出してくる。ぎょっとした表情でアーノルドがこちらを見ていた。後から後から、涙が溢れ出てきて止まってくれなかった。
「じぶん、自分勝手で嫌い。アーノルド様なんて、アル兄様。一体、どうして? 昔は、昔はこんなことをしなかったのに!! いつまでも私は、私は。あの時、甘えれる存在を失ってしまったことが悲しくて仕方がなくって、うっ、う~……」
そこで耐え切れなくなって、両手で顔を覆う。ずっとずっとあのままでいられたら良かったのに。
「アーノルド様なんて嫌い。もういやだ、ずっとずっと優しいアル兄様のままでいて欲しかったのに。きょう、今日だって折角の楽しいお誕生日なのに、」
「ごめん、レイラ。……確かに俺が自分勝手だった、ごめん」
今度は優しく抱き寄せられて、背中をぽんぽんと叩いてくれる。そのことに酷くほっとして、胸元で泣きじゃくっていた。ずっとずっとこうだといいのに。
「ごめん、レイラ。お前が、だってお前が。あいつにだけ打ち明けたりするから」
「打ち明けてないもん、そんなこと! テディベアが欲しいだなんてそんなこと!」
「だったら、あいつは何でお前にテディベアなんか贈ったんだよ? 有り得ないだろ、普通。定番でも流行でも何でもないのに?」
「知らない、そんなこと。知らない……」
「レイラ」
体を離したアーノルドがそっと、目尻に浮かんだ涙をくちびるで拭き取ってくれる。その優しい温度にほっとして、両目を閉じていた。今度は壊れ物を扱うように、私の頬を包み込む。見上げると、苦しそうな銀灰色の瞳が光っていた。その美しさに恍惚と見惚れていた。夜空に浮かんだ月のようで、ずっとずっと私だけの美しい煌きだった。
「レイラ。ごめん、その、キスしてもいいか……?」
「その、ちょっとだけなら。でも、お互いに苦しくなるだけじゃないの? んっ」
そんな言葉を聞くようなアーノルドではなく、先程とは違って、優しく優しく舌を捻じ込んでくる。その熱さと愛情に酔い痴れて、胸元を握り締めていた。この歪みを一体どうしたらいいんだろう。
「アーノルド様、アーノルド様。ごめんなさい、アーノルド様」
「いいよ、もう。俺の方こそごめんよ、レイラ。いつもいつも暴走してばかりで、お前のことを傷付けてしまうから……」
甘えるように首筋にキスをしてきた。こちらもお返しにと、肩に両手を回してキスしていた。ああ、何てどうしようもない。どうしたらいいんだろうか、本当に。私は。
(エディさん。エディさんが知ったら何て言うんだろう? 会いたい、会いたいな。無性に。エディさんに)
「今日は元気が無いね? 一体どうしたの、レイラちゃん?」
「エディさん……ああ、すみません。ジュースを零してしまって」
握り締めた紙パックから林檎ジュースが、ぼたぼたと溢れ出していた。慌てていると、エディがさっとハンカチで拭き取ってくれて、ベンチへと座り直す。ここはいつもの噴水がある公園で、きらきらとした水しぶきが陽の光に反射していた。頭上には木の枝葉が広がって、こちらに涼しい木陰を提供してくれる。
「いや、別にそれは全然構わないんだけど。ぼーっとしているのも上の空なのも。でも、何かあったのかな? って。それだけがちょっと心配で俺」
「んっ、ん~。アーノルド様のことなんですけど。その、エディさんに相談してもいいのかどうか……」
隣に座ったエディが、気難しい顔でベーコンエピを齧り取っていた。どうやらかなり固いらしく、先程から飲み込むのに苦労している。
「うーん、まぁ……言うだけ言ってみて? 事の次第で泣いちゃうけど。この間みたいに」
「えっ? 泣いちゃうんですか? ん、ん~。じゃあやめておこうかな? エディさんをその。傷付けるような内容だし、これは自分一人で解決すべきことだから、」
「そんな悲しいことを君が言うくらいなら。俺が泣くよ、レイラちゃん。一体どうしたの? 悩みって? 俺に教えてくれる?」
エディが優しく微笑みかけてくれる、淡い琥珀色の瞳が甘く細められていた。夏の枝葉が濃い影を落として、エディの鮮やかな赤髪をきらきらと彩っている。思わずハムとキュウリのサンドイッチを握り締めて、それをぱくりと頬張ってしまう。あぐあぐと噛み締めていると、エディがふっと微笑んで自分もベーコンエピを頬張った。
「……私。アーノルド様とその。ちょっとだけ歪んだ関係を続けていて」
「おっと。その一言だけで泣いちゃいそうだよ、俺は……そ、その。やっぱいいや、やめておこう。それで? 話の続きは?」
「えっ、えーっと。まぁ、昼間の公園だし。ちょっと、うーん」
「昼間に話せないようなことなんだ……!?」
エディが分かりやすく青ざめていて、笑ってしまう。多分、私は彼にどうしようもなく惹かれている。
「ふふっ、んー。でも。いいや、もう。人目も気になるし、もうすぐ昼休憩も終わっちゃうし」
「じゃっ、じゃあさ!? 俺と連絡先を交換してみない!? レイラちゃん!!」
「わぁ、光の速さで取り出しましたね!? ベーコンエピは一体どこへ行ったんですか!?」
「さっき一気飲みしちゃった。それよりも俺とその、交換して貰えないかな……? 連絡先を」
どうやら、私がぼんやりと噴水を見ている間に飲み込んでしまったらしい。その両手には紫色の魔術手帳が握り締められていて、菫と白百合のブーケと、白鳥柄の本革ケースに目が奪われてしまう。
「わ~、綺麗ですね? これ。品が良くてシック、わ~」
「あっ、でしょ? これってさ、その、菫も描かれているし!! 俺が持っていても、違和感が無いようなデザインでかなり気に入っていて」
何故かエディが顔を赤くして笑う。どこに赤くなる要素があるのかと思いつつ、私も首筋が熱くなってしまった。
「あっ、あ~。確かにそうですよね? 程良く繊細で綺麗だし。エディさんが持っていても違和感が無いデザインで、あーっ、そうじゃなくって!!」
「う、うん。何かな? 俺とその……交換してくれる?」
悲しい子犬のように見つめてくるエディが魔術手帳を握り締めて、こてんと首を傾げていた。そのあまりにも弱々しい表情にきゅんとしてしまい、慌てて、その邪悪な考えを頭から振り払う。
「あっ、あの。それじゃあいいですか? その、交換しても?」
「喜んで、レイラちゃん!! はーっ、長かった!! 苦節四ヶ月!! 初対面で会ってプロポーズした時も! あれから毎朝毎朝、休みの日以外にはお願いしていたのに!! ちっとも連絡先を交換してくれなくって! はーっ、長かった!!」
「うっ、うるさいうるさい、声が大きいですよ? エディさん……」
その言葉にへへっと照れ臭そうに笑って「ごめんね? レイラちゃん。つい嬉しくってさ~!」と呟いて、菫のブーケ柄の魔術手帳を持ち上げていた。心臓がうぐっとなってしまい、慌てて目を逸らし、ポケットの中から魔術手帳を取り出す。これはメモ帳サイズに変更出来るので、普段はポケットに入れて持ち運んでいるのだ。それを手の中でぽんっと、ノートサイズにしてみる。
ぺらりとページをめくると、お知らせの光がちかちかと光って、黒い文字が浮かび上がった。
「あっ、ジーンさんが。また揉め事を起こしたみたい、女性関係で」
「え~? あれかな? 付き纏ってくるって言ってた元カノ関係? それともあれ? 半年前に慰謝料を請求してきたっていう男性のほうかな?」
「ん~、元カノ関係みたいですねぇ~。ミリーさんにこってり絞られたから、後で慰めて欲しいって。後はセクハラ用語が並んでる」
「貸して? 俺がページを燃やしてあげるからさ?」
「やめましょうか、いきなり過激になるのは……」
二人で魔術手帳を覗き込んで、二つの手帳を重ね合わせて連絡先を交換する。
「っよし、どうかな? 完了メッセージ来た?」
「来た来た、来ましたよー。エディさんのは? どうですか?」
「俺のも来た~、わーい! 試しに書いてみようっと。メッセージ送ってもいーい? レイラちゃん?」
「はい、どうぞ。私も何か送ろうかな~? 何がいいかなぁ」
エディが機嫌良くさらさらと書いている。彼のは紫色と黒の羽根ペンで、何故だかそんなことでこの胸は高鳴ってしまう。厄介だ、胸が苦しい。
(うーん。どうしようかな? 何を送ろうかな?)
真っ白なページを見て、考え込んでいた。絵を送ろうか、文字を送ろうかで悩んでしまう。上には今日の日付とエディの名前が記されてあって、ふと、黒い文字がぼんやりと浮かび上がってきた。
“昨日はどうもありがとう、レイラちゃん! 楽しかったよ、花束もテディベアも気に入ってくれたみたいで良かった、ほっとした。これからもよろしくね? 愛してる”
送られてきた文章に思わず笑ってしまって、そっと指先でなぞってみると、黒い文字がゆらゆらと揺れ動いた。エディがそわそわとした様子で見つめてくる。
「っふふ、まったくも~。最後の一言が余計じゃないですか? エディさん?」
「えっ? 余計なことなんかじゃないよ!? いつだって、俺の心を占めているのはレイラちゃんだからね~、それであの。俺にも何か返事をくれる……?」
緊張した表情で問いかけられ、微笑んでしまう。彼は何かと表情と仕草が可愛い。ずっと一緒にいて眺めたくなる。
「うん。それじゃあ書いてみますね? 返事!」
「アーノルド様と婚約解消しますね! って書いてくれると嬉しいなぁ~、レイラちゃん?」
「しません! そんなことは絶対に書きません!」
「え~? そんなぁ~?」
淋しそうな声でぼやくエディを無視して、私も羽根ペンを取り出して考え込む。
(ん~、どうしようっかな? あっ、そうだ。あれがいい、あれにしようっと)
さらさらと書いていると、書いている内容が気になるのか、エディが覗き込んでくる。鮮やかな赤髪がさらりと当たって、あまりにも近い距離に戸惑ってしまった。
「えっ、エディさん!? まだですよ!? 黙って紙でも眺めていて下さいよ!?」
「えっ!? 俺、まだなんにも言ってないけど!?」
「うっ、いや。あの、そのっ! だから離れて下さいってば!!」
「いだだだっ! ごめんね? レイラちゃん。いつもと同じ距離だと思ったんだけどなぁ~、俺は」
エディが頬を押さえて、しょんぼりとした様子で俯く。
(そう言えば。あれ? んー、確かにいつもの距離だったか……)
仕事をする上で一緒に地図を覗き込んだり、メニュー表を覗き込んだりするのだからまぁ、いつもの距離と言えばいつもの距離だったが。
(っよし! 考えるのをやめよう、そうしよう!!)
開けてはいけない箱を開けてしまうような気がして、さっと閉じて、真剣に文章を書き始める。
(エディさんの文字が意外と綺麗だったから。緊張するなぁ、ん~)
隣のエディはそわそわとした様子で、何度も座り直している。そのお尻の動かし方が可愛らしくて、ついつい笑ってしまった。
(ん、これでいいかな? っと)
全てを書き終えて、スペルミスが無いかどうかチェックする。
“こちらこそ昨日はどうもありがとうございました。貰った花束も寝室に飾って眺めています、ありがとうございます。テディベアも嬉しくて、抱き締めて眠ってしまいました。あと、婚約解消は絶対にしません!! いい加減に諦めて下さい”
抱き締めて眠ったという文章は余計だったかなと考えつつ、えいっと「この文章を送信する」と書いて送る。
「あっ!? きた、可愛い! いかにも真面目そうな文章で可愛い!! あと線が細い!」
「んっ? ただ単にそれは、ペン先が細いってだけの話なのでは?」
「冷静な指摘をどうもありがとうね、レイラちゃん! は~、嬉しい」
「え~? 大袈裟なのでは?」
エディが魔術手帳を抱き締めて体を丸め、嬉しそうな表情で覗き込んでくる。
「ううん、なんか。俺がプレゼントを貰ったみたいな気持ち。ありがとう、レイラちゃん。そんで」
「はっ、はい? どうかしましたか?」
エディがふっと悪戯っぽく微笑んだあと、こちらの手を掬い上げ、ちゅっと口付けてくる。乾いたくちびるが当たって触れて、その温度にぼんっと顔が赤くなってしまった。そんなこちらの様子に構うことなく、エディが淡い琥珀色の瞳を細めて笑う。
「改めて。二十三歳のお誕生日おめでとう、レイラちゃん! これからもずっとしつこく口説き続けるからね? 早く諦めて俺と結婚してね?」
「しっ、しないし!! もっ、も~! エディさんってば本当にも~!!」
「あはは! 痛い痛い、ごめんねー? はははっ」
エディの手のひらを拳で叩いて笑い合う。アーノルドのことなんてすっかり忘れていた。
(あ~、楽しいなぁ。ずっとずっとこのままでいられたらもう。それで全部いいのに)
我が儘なんだろうけど、そう思ってしまう、そう願ってしまう。
(お父様とお母様なら何て言ったんだろう? ああ、相談してみたかったなぁ)
叶わぬ夢に両目を閉じていた。胸が痛むことはもうなかった。だって、家に帰ればあの輝かしいテディベアが、エディと同じ琥珀色の瞳で出迎えてくれるのだから。今夜もそれを抱き締めて眠ろう、そうしよう。




