19.三人の現状と彼女の歪な独白
「だぁーっ!! 昨日といい! 今日といい! 肉体労働が多すぎるっ!!」
「エディさん!? 屋根の上から落っこちないで下さいよ!?」
見ると下には、不安に満ちた表情の彼女がいる。それに手を振って、前を向いて、走り去ってゆく人外者を見据えていた。
「くそ! 人外者ごときが! 何たってもう、ひったくりなんかするかなぁ!? ととっ!」
強い風が吹きつけてくる中、民家の屋根の上を飛ぶように走って、人外者の黒い背中を追いかける。遠くの方には時計台と王宮が佇んでいた。頭上には爽やかな青空が広がっている。本来、こういった仕事は、通称「人外者被害相談課」の仕事なんだが、依頼されてしまったものは仕方が無い。それに、あの部署は多忙で常に人手が足りてない。息を荒げて、走って、屋根の上を飛んで走ってゆく人外者に話しかけようと口を開く。
「っおい! お前っ! 本当は構って欲しいだけなんだろ!? 荷物っ、返せーっ!!」
「やなこった! それが分かっているのなら少しは遊べよ、火炎の悪魔!」
「ああ! くそっ! どいつもこいつも!」
火炎の悪魔、火炎の悪魔と。
(ああ、分かってる! 覚悟もしてた! でもさ!)
好きで戦争の英雄になった訳じゃない。
(俺の意思じゃないのに。ああっ、もう! 言っても仕方が無いことか、これも!)
大丈夫、大丈夫。まだ頑張れる。まだやれる。
(嫌だ嫌だ。先人達のようにはなりたくない、俺は何が何でも)
正気を保って彼女と結婚するんだ。いつかは殺してしまうかもしれないだなんて考えたくない、考える必要も無い。
「ああっ、あっつ!! あいつもあいつで。あんな黒いスーツを着て、暑くないのかねぇっと」
「それじゃあ」
そこでふっと、銀髪に銀色の瞳の人外者が現れた。息が止まって、そのらんらんと輝く銀色の瞳を見ていたが、気を取り直して術語を組み立てる。
「っくそ!」
咄嗟に後退して炎の魔術を展開すると、ごうっと人外者と俺の間に、真っ赤な炎と氷の柱が生み出された。ぱらぱらと、氷の粒と炎が舞っている。
「やぁ、流石は火炎の悪魔だ。氷漬けにされるのは嫌だったのかな?」
「お前! 銀等級が! 暇なのか!? なぁ!?」
「俺達はいつだって暇だよ、エディ君。とんだ愚問だな、それは」
愉快そうに笑って、白い手袋を嵌めた指でぱちんと音を鳴らす。背筋がぞっとした。瞬く間に、こちらの首に蔦が巻き付いてきたので、瞬時に炎で燃やしてやる。ごうごうと、自分を燃やしはしない炎が舞って、緑色の蔦だけを燃やしてゆく。楽しそうに微笑んでいる、黒いスーツ姿の人外者を眺めながら舌打ちをする。
(ガイルの助けは期待できそうに無いな。こいつに殺意は無い)
あくまでもお遊びの範疇で、ガイルも助けてはくれないだろう。この辺り、あいつはシビアだ。
「まぁ……。確かに俺は、もう子犬じゃないけどなぁ~」
「いいね、それもまた。君のところの狼くんはどうも俺の味方らしい」
『味方ではないが。怪我をさせたら噛み殺すぞ、ブラッディ・マリー」
足元の影から、低く唸るような声が聞こえてきた。目の前に立った人外者が、その美しい眉を顰める。
「懐かしい名前をまた……彼女はとっくの昔に、その呼び名を忘れてしまったのに」
「お前。その荷物の女性と知り合いだったんだろ? そうだろう?」
苦々しく舌打ちをして、淡いグリーンのショルダーバッグを睨みつける。
「ああ、そうだな。だが、それに何の意味がある? 彼女はとっくに、俺のことを忘れてしまったのに?」
「意味はあるだろ、記憶喪失じゃない。いつ頃知り合ったんだ?」
人外者に年齢という概念は無いから。あの若い女性が幼い頃に、こいつにブラッディ・マリーとでも名前を付けて呼んでいたのかもしれない。その呼び名に笑みが浮かんでくる。
「おおかた、お前。そのカクテルが好きだったんだろう? ねだっていたのか?」
「でも。……忘れているんだ」
青ざめるような美貌を持っているくせに、子供のように顔を歪めて、自分の胸元を押さえていた。
「だから、とても悲しい。どうすればいい? どうすればいい? どう生きていけばいい? せっかく、会いに来たのに……」
その苦しそうな人外者と自分の姿が重なる。胸の奥が痛んで、どうしようもなくなった。俺も胸元を押さえて、相手の男を睨みつける。
「いいだろ、忘れているだけだ。……記憶喪失とかじゃない、取り戻せる」
「本当か? 彼女は思い出すと思うか? 俺のことを」
そう問いかけられ、頷いてやる。はたはたと、風に自分の赤髪がたなびいていた。
「思い出せるとも。二歳の頃とかじゃなきゃな」
「少なくとも、彼女はオムツをしていなかったが。分かるか? 年齢」
「……いや、人間。それだけで特定出来るようなもんじゃないから。年齢」
落ち込んでしまったのか「そうか」と呟いて、淡いグリーンのショルダーバッグを眺める。どうすれば良かったんだろうとでも言いたげに、ぼんやりとしていた。
(ああ、しまったな。レイラちゃんに。あの女性を連れてくるよう、頼めば良かったかもしれない)
背後に彼女の気配を感じて、振り返ってみると。そこには何故か、小柄な女性を抱えているレイラちゃんがいて。
「えーっ!? 何でっ!? ずるいずるい!! 俺もお姫様抱っこして欲しいのに!?」
「重たいから絶対に嫌だ!! あと、他に何か言うことはないんですか!?」
「好きっ! 俺と結婚して欲しい!!」
「違う! 不正解!! ああっ、もう!」
「れ、レイラさん……」
彼女にしっかりと抱えられたまま、先程の女性が困ったように呟く。名前はレイチェル・ホースフォールといって、茶髪に緑色の瞳を持つ女性だ。今回の依頼人であり、ショルダーバッグをひったくられた被害者である。柔らかなクリームイエローのワンピースを着ていて、はたはたと、長いスカートが風に舞っていた。そして許しがたいことに、レイラちゃんの肩にしっかりと手を回している。
(よっ、よくもまぁ、そんな! レイラちゃんもレイラちゃんで! どうかと思うよ!?)
こちらが震える程に嫉妬していても、事態は進んでゆく。
「っレイチェル! 思い出したのか、俺のことを!?」
「ええ、何とかね! もう少し、ちゃんと話しかけてくれれば良かったのに!」
「レイチェルさん、そのままじっとしていて下さい。ちゃんと運びますから。ね?」
「はっ、はい。お願いします」
レイチェルさんは片足を捻挫していて、だから、レイラちゃんはお姫様抱っこしているんだろうけど。
(ゆ、許せん! 辛い!! ええーっ、何で? 何で!?)
俺だってあともう少しぐらい、レイラちゃんと触れ合っていたいのに! 嫉妬で気が遠くなっていても、彼女は素知らぬふりですたすたと、横を通り過ぎていってしまう。緩やかな黒髪がたなびいてた。どうしようもなく恋焦がれ、彼女の後ろ姿を見つめる。
(ああ、今日も可愛い。天使。レイラちゃん、レイラちゃん)
少しでもこちらを向かないかな、こちらを振り向いてくれないかな。紺碧色の襟から覗く、白いうなじに目を奪われていた。風が強く吹いて、彼女の黒髪を舞い上げている。それを見てどうしようもなく、触れたくなる。
(レイラちゃん。レイラちゃん。君もレイチェルさんみたいに。思い出してくれたらいいのにな)
レイラちゃん、レイラちゃん。こんなにも愛おしくて気が狂いそうなのに、彼女はちっとも振り向いてくれない。伝わってくるのはただただ、無関心な感情ばかりで。
(レイラちゃん、レイラちゃん。まだかな。仕事なんてしなくていいのに。俺に話しかけて欲しいのに)
レイラちゃん、レイラちゃん。
(こちらを向いて欲しいのに。俺のことを見て欲しいのに。レイラちゃん、レイラちゃん)
何回も何回もその名を唱える。彼女が依頼人を降ろし、感動した人外者がその女性を抱えた。そしてようやく、彼女が深い紫色の瞳で俺を捉えてくれる。見つめてくれて、呆れたように溜め息を吐き、こちらへと来てくれる。
「っレイラちゃん。俺。すっごく淋しかったんだけど!?」
「少し離れていたぐらいで大袈裟な……はーあ。まぁ、一件落着ということでいいんですかね?」
彼女と一緒にそちらを見てみると、バカップルのように人外者の男が女性を抱えて、相好を崩していた。
「良かった、レイチェル。君が思い出してくれて。とりあえずこのまま、俺の屋敷にでも来ない?」
「も~、マリーったら! ああ、でも私。貴方の本当の名前を知らないわ。教えてくれる?」
「いいのに、俺は。君が戯れに付けてくれた名前で」
死ぬほど羨ましくなって、恨みがましい目で彼女を見てみると、そっと目を逸らされてしまった。報われない。でも、その耳が赤くて、胸の奥が温かく緩んでゆく。
「レイラちゃん可愛い。俺も、レイラちゃんとイチャイチャデートがしたい……」
「しません! 私はアーノルド様としかしませんっ! ほら、もう行きますよ?」
どんなに冷たくされても、照れているのが分かったからそれでいいんだけど、でも。彼女の隣を歩いて、市街地を見渡して、爽やかな青空を眺める。
「レイラちゃんってさぁ。俺に見惚れたり、照れたりする割には全然、好きになってくれないよね?」
「なっ、何を言っているんですか? もー。一体いつ私がエディさんに見惚れたのやら!」
「そんな気がするんだけどなぁ~。ちぇっ」
「気がするだけでしょ、気がするだけ。勘違い、勘違い」
「れ、レイラちゃん……!! でも好き! 結婚して欲しい!!」
「うーん。不死身メンタル」
そこで彼女がふっと、微笑んでくれて。そのリラックスした表情を見て思わず、俺も笑ってしまう。
「良かった。レイラちゃんもレイラちゃんで。最近、笑顔が増えて」
「えっ? そうですかね……ん? 私もって、他は誰?」
「アーノルドかなぁ? なんか、んー。いや、自暴自棄由来の笑顔かもしんないけど」
「あー、あの人は追い詰められた時ほど、笑うから」
エディからそのことを聞いて、少しだけ不安になってしまう。
(んー、今日あたりしっかり話さなきゃな。どうせまた、拗らせているんだろうけど)
でも、心配だ。辛い時ほどあの人は、笑顔で取り繕うとするから。ふと視線を感じて、そちらを見上げてみると、エディがぞっとするように冷たい、淡い琥珀色の瞳で見下ろしていて。
(っう、まただ。嫉妬深いなぁ。心なしか、胃が痛くなってきたかも?)
エディとアーノルド、どちらにするのかだなんて。
「現状維持を選びたい……!! 誰とも結婚したくない!」
「ええっ!? それじゃあ、事実婚だけでも! レイラちゃん!!」
「意味が分からない! ほらっ、とっとと早く! 仕事に戻りますよ!?」
「え~、そんなぁ~。え~!?」
「どうしたんだ? レイラ。そんな、険しい顔をして」
「はいはい、そういうのはいいんで。ちょっと入らせて頂きますね!」
「えっ? ああ、まぁ。別にいいけど」
休日の昼間だったからか、すんなりと侵入に成功した。部屋で寛いでいたらしいアーノルドは、白いシャツにデニムを履いていて、いつも通りの服装である。ただ私は、彼をデートに誘おうと思っていたので、両肩にリボンが付いた、白黒ギンガムチェックのワンピースを着て、黒髪をゆったりと下ろしていた。
「レイラ!? 近い、近い! 一体どうしたんだよ、急に!?」
「アーノルド様。夜、ちゃんと眠れていますか?」
「へっ? 眠れてるけど。ちょっと落ち着こうか、レイラちゃん?」
まるで「お兄さん」の仮面を被ったみたいな、困ったように笑うアーノルドを見つめる。
(ああ、もやもやするなぁ。嫌なら嫌って、そう言えばいいのに)
丁寧に整えられた部屋には、午後の陽射しが柔らかく射し込んでいた。滑らかな草花柄絨毯の上にて、戸惑うアーノルドと向き合って、下から強く睨みつけてやる。
「アーノルド様、ちゃんと答えて下さい。私がもし、エディさんのことを好きになったら?」
「婚約を解消する。父上は納得しないだろうが、まぁ。元々、口約束みたいなもんだ。別にそれで構わないだろう?」
弱々しく笑っているくせに、その銀灰色の瞳だけが仄暗い。それを見ていつも思う。
(やっぱり、世界で一番美しいのはアーノルド様だって)
これは多分、憧れと執着と愛情を煮詰めたもので。その美しく整った顔立ちと、寒空の月みたいな銀灰色の瞳はいつだってこちらを見ていた。思わず息を飲むくらいに、優しく微笑みかけてくれるのだ。私の、私だけの優しいお兄様。美しくて、優しくて、独り占めにしてもいい男性。いつだって色んな意味で焦がれて、美しいアーノルドを見つめていた。
(だから、いきなりエディさんを好きになれと言われても。全然、納得が出来ない)
だからきちんと告白しよう、この気持ちを。私は別に、アーノルド様に恋をしている訳じゃないけれど。
「淋しいです、アーノルド様……こんな風に突き放したりしないで下さい」
「レイラ、レイラ」
ぎゅうっとアーノルドを抱き締めてみると、そこで彼も限界が来てしまったのか、こちらを強く抱き締めてきた。
「ごめん、レイラ。ごめん。でも、ずっとずっと、こうするべきだったから」
「何が? エディさんのこと? どうして何も教えてくれないの?」
「ごめん、レイラ。ごめん、意気地なしの弱虫で」
「ちっともよく分からない……!! アーノルド様の馬鹿」
詳しく聞き出そうとすると「ごめん、レイラ」としか言わないので、その苦しみに両目を閉じて「もういいから」と言うしかなくて。更に強く抱き締められ、久々の温度と匂いにほっとしてしまう。
(ベルガモットみたいな、オレンジみたいな。いつもの、いい匂いがする)
白いシャツに顔を埋めていると、優しく微笑んでまた、こちらの頭を撫でてくれる。
「お前。お前が俺のことを好きになってくれたら良かったのに。なんて、言っても無駄だろうけど」
「私は誰のことも好きじゃありません。エディさんのこともです。でも」
「でも? 何だ?」
体を離して、その苦しそうな銀灰色の瞳を見つめていた。昔からずっとずっと、傍にいてくれた、褐色の肌に銀髪の美しい男性。いつだってきらきらと輝いていて、憧れの存在だった。
『レイラ、ほら。今日は見たがっていた、動物園の写真を────……』
遠い昔の彼の声が蘇って、その懐かしさにくちびるを噛み締める。どうあっても取り戻せはしない宝物なのに、今でも未練がましく、その影を追いかけているのか。
「アーノルド様。お願い、誰とも結婚しないで。……私と結婚して」
「レイラ。お前は、お前は」
悲しく見上げてみると、アーノルドが追い詰められたような表情を浮かべ、こちらの頬に手を添えてきた
「嘘だ、楽な方へ逃げたいだけだろう? 好きでも何でもないくせに、俺のこと」
「分かってる、分かってるけど。ごめん、お願い。私と結婚して欲しい」
「もういい。もういい、頼むから何も言わないでくれよ、もう」
くちびるを重ねてきて、恋人同士のようにキスをしている筈なのに。空虚さと気怠さが降り積もって、その歪さに叫んでしまいたくなる。
「ごめんなさい、アーノルド様。好きになれたら楽だった、好きになれたら」
「いいよ、もう。慣れっこだから。いいよもう、レイラ。全部全部」
肩を抱いて、その手で黒髪を弄んで、つむじに優しくキスをしてくれる。どこまでも甘やかしてくれるお兄さんで、ずっとずっと、私だけの物なんだと。執着していて、自分のどうしようもない部分に息を止める。
「アーノルド様。折角のお休みだから、出かけてみません?」
「そうだな、そうしようか。レイラ」
見上げてみると、弱々しく微笑んでいた。やっぱり笑っていて欲しいのは、幸せでいて欲しいのはアーノルドという気がした。
(執着しているだけなんだろうか、それとも)
どんな感情が恋心なのか、よく分からなくて。ーノルドにしがみついて、ずっとずっとそうやって甘えていた。私の全部を許して欲しいと、そう願って甘えていた。




