17.騙された悪魔と騙した悪女
がたがたと、揺れている。この辺りは舗装されていない道路が多く、オンボロトラックは奇妙な音を出して進んでいた。隣のエディが、薄い色合いのサングラスを持ち上げて話しかけてきた。
「ねぇ、レイラちゃん。これってさ、本当にさ?」
「デートですよ、れっきとした。エディさんがそう思えばデートです、真っ最中です」
夏の陽射しが目に眩い。冷房なんてものはそもそもの話、付いていなかったので魔術で車内を冷やしている。
「いや、流石の俺も心が折れちゃいそうなんだけどなぁ~」
「私はエディさんとのデートが楽しみで眠れませんでしたよ? 服選びにも時間をかけました」
「わお。凄いや、レイラちゃん。息を吸うように嘘を吐くね、君は……」
その淡い琥珀色の瞳は虚ろで、ハンドルを握り締めたまま「何か違う」としきりに呟いている。どこまでも続く田舎道の両脇には、草がぼうぼうと生え、向こうには白い入道雲がもくもくと湧いて浮かんでいた。喫茶店のソフトクリームのようで、思わず微笑んでしまう。
「いいじゃないですか。念願のデートですよ、念願の。エディさん」
「こんなオンボロトラックだとは思わなかったし。それよりも何よりも!!」
「何ですか、エディさん?」
そこでばっと、振り向いたエディが声を張り上げる。
「行き先が! 女子修道院だってことも聞いてないし!! あと荷台の鶏糞がくそほど邪魔っ!! デートの雰囲気が台無しだよ、もうっ!」
「鶏糞はいい肥料になるんですよ。寄付しようと思いまして」
「何も、俺とのデート中に寄付しなくても良くない!? 必要だった!? 鶏糞! デートに!?」
「少なくとも私には必要でした。前を向いて運転して下さい。危ないんで」
エディが悲しげな表情で前を向いて、ハンドルを握り締めつつ叫ぶ。
「うっ、つらい! それでも好き!! 俺と結婚して欲しい!!」
「呆れた」
「れっ、レイラちゃん……」
車内にはぷんぷんと、凄まじい悪臭が漂っていた。鶏糞の匂いは強烈なのだ。だからこそ、デートにこの香りを採用した訳だが。そしてこの、今にも壊れてしまいそうなオンボロトラックは、アーノルドが領民のおじさんから貰ってきたものである。おじさんはしきりに「捨てるようなやつなんだけどなぁ~、大丈夫か?」と心配していたらしいが、あっさりと「直して使うので大丈夫です」と言って、引き取ってきたらしい。
「あいつもあいつで、陰湿過ぎない? 鶏糞もあいつのアイデアなの?」
「こちらはハーヴェイおじ様のアイデアですね。鶏糞付きなら、デートしてもいいそうです」
「早くもお義父さんに恨まれてるなぁ~。まぁ、でも、俺だって娘にそう言うかも」
「私と結婚する前提な上に、子供が生まれるのも確定なんですか?」
「すっ、すみませんでした……!! 声がツンドラで可愛かった、今の。もう一度だけ聞きたい」
「うーん。不死身メンタル……」
今日のエディは黒いTシャツにデニムを着て、素材の良さをこれでもかと言うぐらいに見せつけていた。逞しい胸元には金色の鎖が光っている。
(うーん。弱い。あからさまだな、私も)
実はさり気に直視出来ないのだが。顔を背けて、あまり見ないようにする。心臓に悪いから。一方の私はドライブデートということで、長時間座っていても疲れない、青いフリルブラウスとデニムを着ていた。エディが調子に乗らない為にも、ごくごくシンプルな服装を心がけたのだが。待ち合わせ場所に現れた彼が、深く感動して「わ~、可愛い。凄い、私服! 最高!!」と言っていたので、思ったような効果は得られなかった。
非常に残念である。それでもお腹の底が甘く、ふわふわとしていて。どうにも落ち着かない気分になってしまう。
(平静を保とう。ええっと、今日の晩御飯のことでも考えるか。今日は確かセシリア様が、)
その時ふっと、エディがこちらの黒髪に触れてきて。びくりと驚いて、勢い良く振り返る。
「なっ、何ですか!? 今の! エディさんっ!?」
「えっ? ご、ごめん。あの、蚊がいたから。仕留めようと思ったんだけど。ちょっと難しくって」
「あっ、ああ。蚊……」
びっくりした、頭を撫でられたのかと思った。心臓がばくばくと早鐘を打っている中で、わしゃわしゃと、エディが頭を撫でてくる。
「えっ? いや。あのっ?」
「んー。何となく。頭を撫でたくなって? ごめんね、レイラちゃん」
照れ臭そうに笑って、言うものだから。胸がぐっと詰まって、思わず胸元を握り締める。しかし、鼻から空気を吸い込めば、鶏糞の匂いが全てを解決してくれる。
「うん……鶏糞効果。凄いですね! 甘酸っぱい雰囲気が霧散します!! さすがっ!」
「頼むからさ、レイラちゃん!? 魔術で匂いを消してもいい!? 鼻が曲がりそうだし、」
「駄目です、絶対に駄目です! これが無くちゃデートじゃないです!!」
「世間一般の認識と死ぬほどずれているんだけど!? 君のデート観!!」
そこで振り返ってきたエディに苛立ってしまう。是非とも、運転中だということを思い出して欲しい。
「いいから前を向いて、運転して下さい! 危ないから!」
「はい。すみませんでした……心が折れそう、つらい。好きっ!!」
「エディさんのメンタルが凄くて、ドン引き中です。折れて欲しい、早く」
「……」
流石のエディも黙り込んで、ハンドルを片手で握り締めながら、自分のポケットを探る。
「はい、これ。レイラちゃんもいる?」
「……これ」
思わず言葉に詰まったのは、ずっとずっと食べてみたいと思っていた、クッキー専門店のフロランタンだったから。包装紙に包まれた、艶々と光っている、フロランタンを見つめる。
「最近、俺。クッキーとかフロランタンとか。そういうのにはまってて。美味しいよ、それ」
「じゃあ、まぁ……頂きます。ありがとうございます」
「ん。どーぞ」
一瞬、このクッキー専門店の前で挙動不審になっていたのがばれたのかと。てっきりそう思ったが。
(違った。まぁ、ほっとした)
よく分からない感情が渦巻いていた。食べようとしたその時、ふと鶏糞の匂いが邪魔になる。
「もしかして、エディさん。これが狙いだったんですか……?」
「ん~?」
エディがにっこりと微笑んで、鮮やかな赤髪を揺らして、こちらを眺めてくる。淡い琥珀色の瞳が、茶色いサングラス越しに煌いていた。
「どっちだと思う? レイラちゃん。君にあげたかったのと作戦なのと」
「無駄口を。まぁ、いいや」
「じゃあ、消しちゃうね~。悪臭」
「はぁーい……」
「滅茶苦茶不満そうだね、レイラちゃん。可愛い」
くすりと笑って、前を向いてハンドルを握り締める。その一方で私は、ほんの少しだけ後悔していた。包装紙を破いて、無臭になった涼しい車内で、香ばしいフロランタンを噛み砕く。がりがりと、香ばしいアーモンドを噛み砕けば、ふんわりと、優しいキャラメルの甘さが広がっていった。素朴な味わいでしみじみ美味しい。
(これ……ときめきが増すだけなのでは!?)
どうやら彼は、鶏糞があってもオンボロトラックに乗っていても、こちらを口説くつもりらしい。
「うーん。エディさんて本当、不死身メンタルですよね」
「えっ? そんな、しみじみ言う場面だった……?」
「それで、レイラ。貴女はその方を平手打ちしてしまったのですね?」
「申し訳ありません、院長。その。彼が眠っている私の頬に、キスしてきたもので……」
「俺が全部悪かったんです、院長。無断でキスしたりするから……」
じんじんと、赤い手形が付いてしまったエディが、辛そうな表情で項垂れる。彼は目的地に着いても眠っている私を見て、起こそうとはせずに、頬にキスしてきたのだ。そこから妖しい展開になってしまったので、つい、うっかり。思いっきり、平手打ちをしてしまったのだ。落ち込むエディを見て、皺だらけの顔で低く笑った。そして黒い修道服を着た、この女子修道院の院長であるラウラが、厳しく見下ろしてくる。
「はしたないですよ、レイラ。思わず平手打ちしたくなる気持ちも分かりますが」
「はい。申し訳ありません、院長。以後、気をつけます……」
「そして」
先程までの親しみを打ち消して、落ち込んでいるエディを見上げる。鷲のように鋭い瞳が、エディを射抜いていた。
「我が国の戦争の英雄。エディ・ハルフォード。貴方がまさか、こちらへいらっしゃるとは」
「あー、彼女にデートだって、そう言われて来てみれば。俺を待ち受けていたのは、あのオンボロトラックと鶏糞の塊でした……!!」
どうも彼は、厳かな修道院の前でも緊張することなく、いつも通り話せるらしい。それを聞いて院長が、口元に手を当ててお上品に笑う。
「あー、おかしい。ふふっ、それは災難でしたね。ハルフォードさん。そしてレイラ。感謝しますよ、いつもいつも。ありがとうございます」
「いえ。私にはこれぐらいしか……」
思わず口を噤んで、不思議そうな表情のエディから目を逸らす。今ではもう、罪の意識は殆ど無いが。どうしても苦しくなった時は、この女子修道院に訪れて寄付をして、畑を耕したりと、奉仕活動に勤しんでいたのだ。黙り込んでしまった私を見つめて、やれやれとでも言いたげに、ラウラが見下ろしてくる。この厳しくも優しいラウラとは付き合いが長く、叔母のような存在だった。
「とにかくも。助かりますよ、ハルフォードさん。ちょうど物置小屋が壊れてしまって。あと井戸も」
「……えっ? でも男は立ち入り禁止じゃ、」
「観光客向けに、解放されている所にある小屋と井戸ですから。そこまでなら大丈夫ですよ、お願いしますね」
「えっ? デートは……?」
「エディさんがデートだと思えば、デートなんですよ?」
「わっ、わぁい、デートだ~、楽しいなぁ~」
「声と目が虚ろ」
「お気の毒に、ハルフォードさん。それではご案内しますね?」
「ねぇ、レイラちゃん。これって本当にデートなのかな?」
「畑仕事と言う名のデートですよ、エディさん。私語を慎んで頑張って下さい」
「えっ、ええ~? 俺の知っているデートとその、かなり違うんだけどなぁ~。デートって畑仕事だったっけ? あと、私語禁止だっけ? おかしいなぁ~」
夏の炎天下で、エディが汗だくになりながらも、白い軍手でクワを握り締めている。今は修道院の裏手に位置する、雑草と小石だらけの、荒れた畑を耕している最中だ。私はその様子を眺めつつ、緑豊かな木の下に座って針仕事をしていた。この肘掛け椅子は、エディが魔術で出してくれたもので、何とクッションまで付いているのだ。甘やかされている。エディが汗だくで耕している最中に、ゆったりと座って、のんびりと針仕事をしているのは気が引けるが、仕方が無い。
ぐったりと柔らかくなった、黒い布地と睨み合って針を持ち直す。へとへとに疲れきったエディが、とうとう音を上げて、こちらへやって来た。先程までかけていたサングラスは、色気たっぷりに、胸元にさしてあって。ほんの少しだけやめて欲しいなと思う。
「あーっ! もうっ! 限界!! あっつい! 不毛地帯だよ、あそこ!!」
「エディさん。でも、ある程度耕して下さいね? いつかは畑にしたいそうです」
「つっら、あっつ……!!」
周囲は石造りの壁に囲まれ、頭上には緑豊かな枝葉が揺れていた。ぴちぴちと小鳥が囀る。濃い影が落ちている木の下で、エディが持参したペットボトルの水を一気飲みして、ぷはっと息を吐いていた。青空には白い入道雲が浮かんでいて、爽やかな風が吹いている。
「あーっ! 疲れた! 本当にこれ、デートなの!? レイラちゃん!? 俺の自己暗示もそろそろ限界なんだけど!?」
「一応、自己暗示をかけていたんですね……?」
「一応ね、一応。あー、あっつい!! はーあ!」
エディがタオルで顔を拭いて「もー、やだー!」と呟いて、俯いている。
(うーん、やり過ぎちゃったかなぁ?)
しかし、私はアーノルド様と結婚したいのだ。そんなことを考えていると、エディが先程のペットボトルを傾けて、べこべことへこませながらも、残りの水を全て飲んでしまう。
「あー、後で。ワインとか貰えないかなぁ? 無理かなぁ。飲まないとやってらんないよ、俺」
「んー。試飲とかは出来そうですけどねぇ。でも、観光客向けだし」
「でっ、ですよね~。あーあ、折角の、レイラちゃんとのデートだと思ったのに!!」
わっと、両手で顔を覆ってエディが嘆いたその時。遠く離れた場所に位置する、白い柱が並んだ回廊から、先程の院長が声をかけてきた。
「ハルフォードさん。少しよろしいですか? 手伝って欲しいことがあるのですけど」
「はっ、はーい! 今行きまーすっ! はーあ、レイラちゃんの奴隷になりたい……」
「いきなり怖いことを言わないで下さいよ、エディさん……何の脈略も無く」
その言葉にひらひらと、片手を振って無言でそちらへと歩いてゆく。鮮やかな赤髪が揺れて、逞しい背中が遠ざかっていった。ようやく息が吐ける。
「うーん。これはちょっと重症かもしれないなぁ……」
自分のときめきに蓋をして、複雑な気持ちで俯いて、足元の地面を眺める。雑草が生えた地面には、蟻が列をなして、白い何かをせっせと運んでいた。胸元をぎゅっと握り締めて、それらを見つめる。
「どうしたらいいんだろう、本当に。好きになんてなりたくないのに」
最近では、エディに緊張してしまうのだ。それが耐えがたく、信じられないことで。嫌な予感がひたひたと近付いては、さざ波が立って、どうしていいのかよく分からなくなる。
「エディさん……」
答えが出ないまま、俯いていた。頭上の枝葉が揺れて、何とも言えない心地良い風が首筋を撫でてゆく。いつだって私が選ぶべきなのは、アーノルド様の筈なのに。
「ここへ来て。一体何を悩んでいるんだろう、私……」
「浮かない顔ですね、ハルフォードさん。そんなにあの子と、二人きりになりたかったのですか?」
「あはは、そうですね。でも」
前を歩く院長に付き従って、薄暗い回廊を歩きつつ、夏らしい中庭と噴水を眺める。夏の陽射しにきらきらと、水が反射していた。名も知らぬ聖人の像がそびえ立っている。
「意外と楽しんでいる自分に驚きました。彼女もデートを楽しんでくれてるといいんですけど、まぁ、それは望みすぎかな……」
夏の午後がそうさせるのか。それとも神聖な場所で、自分の罪を考えているからなのか。薄っすらと憂鬱な気分になってしまった。するとふと、前を歩いていた院長が立ち止まる。その黒い後ろ姿を見つめていると、知性の滲んだ深い声が朗々と響いてきた。
「あの子には婚約者がいるそうですよ。聞いている限り、あまり相性は良く無さそうですが」
「はは。どうなんでしょう? それは。彼女は少しだけ、婚約者のことが好きみたいで。振られっぱなしですよ、俺は」
泣きそうになってしまう。
(自分が望んで犯した罪のくせに。……浅ましい)
それでも幸せになりたいと、そう望むのか。亡き叔父の声で再生された。あの人はそんなことを言ってなかったのにと考えて、苦笑してしまう。この手に刻まれた感触も何もかも、背負って生きて行ける。多分、俺は器用な人間だ。悩むことはあまり好きじゃない。
「彼女が一瞬で、俺のことを好きになってくれたらいいんですけどねぇ~。何か良い方法知りません? 院長様?」
「まぁ、ふふ。そんなことを聞かれるとは思いもよりませんでしたよ、ハルフォードさん」
こちらを振り向いた修道女の青い瞳が、きらりと愉快そうに煌く。エディはにっこりと甘く微笑み、夏の陽射しが射し込んでいる回廊にて、院長と向き合っていた。
「私は貴方がここに、懺悔でもしに来たのかと。てっきりそう思っていましたよ、ハルフォードさん?」
「まさか。……懺悔だなんて、そんなおこがましいことは出来ませんよ。院長様」
そこで愉快そうに笑って、目元を拭ってこちらを見上げてくる。ざぁっと、爽やかな風が吹いてこちらの首筋を冷やしてゆく。
「少しは物の道理を理解なさっているようで、安心いたしました。一つ、いいことを教えて差しあげましょうか?」
「何ですか? 彼女の情報ですか?」
「そうですね、おそらくは誰も知らないことでしょう」
青い瞳を遠くさせて、明るい中庭を眺める。その横顔を見つめたあと、中庭に視線を移す。多分手伝って欲しいことは無くて、あれは俺を呼び出すための口実で。
(何か、いい情報が手に入ったらいいんだけど。彼女とは長い付き合いだと聞くし)
そのままじっと静かに言葉を待っていたら、おもむろに院長が口を開く。
「あの子の誕生日には。テディベアを贈るといいですよ、ハルフォードさん」
「テディベア? 一体どうして? 子供っぽくないものをその、贈ろうと思っていたのですが」
「どうもあの子はそれが憧れで、欲しかったみたいですから」
「はぁ。テディベアが……? 憧れ」
あまりよく分からず、間抜けな声が出てしまう。院長のアウラは気にした様子も無く、こちらを微笑ましい表情で見上げてきた。少しだけ背中がむず痒くなってしまう。それは孫を見るような眼差しだったから。
「あの子は七歳の誕生日に、父親からテディベアを贈って貰う予定だったと。そう、約束して貰ったのだと」
「ああ。……それは」
それはどれだけ辛いことなんだろう。愛する人と約束を交わして、果たされないままに、自分だけがずっとずっと、その約束を覚えている。ふいに過去の彼女の声が蘇ってきた。
『アンバー。あのね……』
自分の姿と重なってしまって、苦く笑ってしまう。その甘い声を咄嗟に打ち消した。俺の全ては彼女の為にあるから。いいんだよ、レイラちゃん。君の全てを許せるから、何もかもを。
「だから、来月の誕生日に贈るといいですよ。定番のテディベアを」
「定番のテディベア、ですか? ええっと。リボンが赤色とか、そんな感じのを?」
「会社名を教えて差し上げますよ。あと商品名も」
「是非とも教えて下さい、院長様……!! 少々お待ちを。メモを取りますね!」
さっと、ポケットから、いつも使っている本革手帳を取り出した。これは美しい紫色の小さな手帳で、彼女に関する情報を書き込むもの。
(うーん。この前はレシートを拾ったことがばれちゃったからな。もう少し慎重に動かねば)
紫色のボールペンを握り締めて、わくわくと、院長のお言葉を待っていると。何故か笑って、体を震わせつつ教えてくれる。たまに人に笑われてしまう時があって、不思議に思う。そんなに俺は、おかしな顔をしていただろうか。
「何だかよく分かるわ。連れてきた理由が。ええっとね、あの時言っていたのはね」
「ほうほう。リボンの色はどうしましょう? あとテディベアの顔つきは? 何がいいですかね?」
「ううん、そうですねぇ。テディベアの顔つき。まぁ、個体差があるからね……」
二人でひそひそと話し合って、いつもの手帳に書き込んでから、腕時計を確かめる。
「ああ。もう、こんな時間だ。彼女が不安がっているので戻りますね! 俺」
「ああ、そうでしょうね。いつの間にかこんなに時間が経ってしまって。それでは戻りましょうか。ハルフォードさん」
彼女の下へ帰りたくて、足の裏がそわそわとしてしまう。来た道を引き返して、前を歩く院長を見てふと、疑問が湧いてくる。
「院長様。その、彼女が。懺悔をしに来ていると言っていましたが。テディベアの話もその時に?」
「ふふっ、私達聖職者は、懺悔の内容を口外してはならないのですが」
少しだけ顔を伏せて歩いていた。午後の浅い陽射しを受けて、くたびれた黒い布が揺れている。
「ですから、これは恋に悩める若者への助言です。そして」
そこでまた、ぴたりと立ち止まって、愉快そうな青い瞳で見上げてくる。
「あの子には幸せになって欲しいのです。……手に出来た筈の宝物を手に入れて欲しい。ただ、その一心でお話しました」
「大丈夫ですよ。俺が彼女を幸せにしますから、院長様」
そうでありたい、そんな自分でいたい。狂気に飲み込まれぬよう、傷付けぬよう。たとえ彼女が、俺のことを好きになったとしても。もう、思い出すことは無いけれど。俺と積み重ねてきたものを、全部全部。そのことを考えると、胸の奥が酷く痛んだ。俺だけが些細なことをよく覚えていて。
(彼女が、冬が好きなのも。積もりたての雪が好きなのも、何もかも。寒い朝にはココアにマシュマロを浮かべて、溶けてゆくのを、寝台で眺めていたいのも)
全部全部俺だけが覚えていて、彼女だけが忘れてしまっているけれど。でも、大丈夫だ。生きて行ける。
(彼女が早く、俺のことを好きになってくれたらいいのに)
好きになって、好きになって、レイラちゃん。俺のことを早く好きになって、レイラちゃんと。
(君は何もかも忘れてしまったけど。でも、大丈夫だ。それは君のせいじゃないから。大丈夫だ)
早く俺のことを好きになってよ、レイラちゃんと。頭がおかしくなるほど、何百回も唱えていて。今もこの頭は彼女のことを考えているし、この足は彼女の下と向かう。でも、大丈夫だ。大丈夫。まだ大丈夫、自分をコントロール出来る。大丈夫だ。
「ふふっ、それでは。まずは婚約解消して貰う所から、始めないといけませんね?」
「あはは、本当に。……彼女を幸せにする権利を、隣に立つ権利を。手に入れる所から始めたいと思います、俺」
そう笑って話すと、皺だらけの顔で微笑んで、また前を向いて歩く。修道院の回廊は静かで、中庭の噴水が目に眩しかった。




