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“魔術雑用課”の三角関係  作者: 桐城シロウ
第一章 彼と彼女の始まり
6/122

5.従者の意味を辞書で引け

 








「それでは皆さん、レイラ様がアーノルド坊ちゃんとエディ君のどちらを好きになるのか、この俺と賭けでもしてみませんか?」




 突然朗らかな声が響き渡って、その場の一同は静まり返った。とても幸いなことに、当の三人は席を揃って外している。もしかしたらこの腹黒い従者兼秘書はそれを()()()()狙ってくれたのかもしれない。



 ただ知っての通り、このジル・フィッシャーは平気でそんなこともしでかしてしまう男だった。この男は下手をしたら、当人達の目の前でそういうことを言ってしまいかねない。四十二歳という年齢が見当たらない、明らかに三十二歳程度の地味な顔立ちが、にっこりと爽やかに笑う。



 この地味な男が、実は苛烈な性格だということは周知の事実である。よって一同は緊張に手を震わせ、熱心に手元の書類を眺めた。その黒い文字の羅列が、頭に入ってくるかどうかは別として。



「いえね、俺は勿論、アーノルド坊ちゃんに賭けるつもりですよ?」



 ぎっと、ジルが主人の椅子を引いて優雅に腰掛ける。そんなことは誰も聞いていない、聞いていないのに賭けをするのは決定事項なのか。勿論、誰もそんな命知らずなことを質問出来なかった。



 本日のエオストール王国は、残念ながら雨が陰気に降り続けている。ざあざあとまではいかないものの、先程からぽつぽつと、雨が降っているのが聞こえてくる。部署の蛍光灯が、ぼんやりと辺りを照らしていた。いつもは樫の木が見える窓も、水滴に曇っていてあまりよく見えない。




 一応雨は雨でも、外回りに行かなくてはならないのだが誰一人として行かなかった。あの真面目なレイラ嬢は外回りに行こうとしていたのだが、例によって彼女にしつこく纏わり付いている“火炎の悪魔”が雨ならではの恋愛イベントを()()()期待していたので、可哀想な彼女は即座に事務仕事をすると宣言していた。



 そんな彼女たちが席を外していたのは幸いだった、しかし。



 今ここに日常魔術相談課の、()()()()()()()()()休むことも無く出勤しており、全員が書類仕事をしていることはただの不幸である。




「……あの、一つ質問してもいいっすか?」




 果敢にも手を上げてみせたのは、二十四歳のトム・キンバリーだった。しかしながら早くもその勇気は、砂のように崩れ落ちてしまいそうである。スキンヘッドに平凡な顔立ちの、いかにも冴えない黒い瞳の青年だった。



「はい、なんでしょう? 俺に何か質問ですか、トム・キンバリー君?」



 くるりと爽やかな笑顔を向けられて、トムがびくっと両肩を揺らしている。常に人当たりが良く、にこやかな癖に、奇妙な威圧感を漂わせていた。「ほら、頑張れよ」とでも言いたげに彼のバディ、黒髪のマーカス・ポッターが肘でつついている。



「えっ、ええっと、そのですね、ジルさんの本来のご職業は何かなぁと、」

「俺? 俺はですね、君も知っての通り、アーノルド様の従者ですよ? それがどうかしましたか?」



 爽やかにそう言い切られ、トムはそこで呆気なく降参してしまった。それでもいつもの彼にしては、よくよく頑張ったほうである。



「……トム君は、ジル君が大事な主人を賭けの対象にしてしまってもいいのかと、そう訊ねているのではないか?」



 壮年の男らしい、威厳のある低い声が部署に響き渡った。彼のなけなしの勇気を拾って、見事に問題を提示してみせたのはライ・ロチェスターである。齢四十六歳の彼は白髪混じりの灰髪に、猛禽類のような青い瞳を持っていた。



 がっしりとした体躯に、その厳しい顔立ちはマフィアか政治家かといったものだったが、幼い子供が泣いて震えだしそうな外見とは裏腹に、とても温厚で優しい人である。ちなみに独身で、黒猫のミミちゃんが唯一の癒しだった。



「僕もライおじさんと同じく、そう思うかなぁ。でも、レイラちゃんがエディさんとアーノルド様のどちらを好きになるかは、気になるところだよね~」



 ぽややんと、声変わりを済ませた成人男性らしくない、甘い声が響き渡る。ライのバディでもあるこの彼は、二十四歳のアラン・フォレスター。天使のような金髪巻き毛に青い瞳の美青年で、彼は“魔術雑用課の天使”との異名で呼ばれており、主に中年女性からの支持を得ていた。




「だからさ、僕としてはさ、って、ああー……」



 アランがつるりと、飲もうとしていた珈琲入りのマグカップを落としてしまった。途端に黒い液体がデスクの上に広がって、大事な書類を浸してゆく。慌ててライが立ち上がり、呆然とその様子を眺めてから、隣のアランを振り返った。



「だ、大丈夫か? アラン、どこか火傷などはしていないか?」

「うん、大丈夫だけどごめんね? 僕がうっかりしていたせいで、書類が水浸しになってしまって……」



 はずみで濡れてしまった白い指先を、アランが悲しげに揺らしている。ライがさっと自分のポケットから、可愛い黒猫柄のハンカチを出して、彼の指先を拭き出した。



「いいんだよ、そんなものは。書類ならば私が後で魔術で復元しておくし、お前は別に何も気にしなくていいからな? アラン、本当にどこも火傷していないな?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう、ライおじさん。いつも僕が迷惑ばっかりかけてしまって、ごめんね……」

「何を言う、アラン。怖い顔の私がリオルネ都民の皆さんにも、他の部署の職員さん達にも怖がられずに済んでいるのは、お前が私のバディになってくれたお陰だからな? 何も気にすることは無い、お前に怪我が無くて良かった」



 彼の心温まる優しさも、アランがついうっかり何かをしでかしてしまうのも、日常茶飯事である。それなので、周囲の人々はそれについて気にかけることはなかった。



「……でもさぁ、ジルさん? ()()超が付くほど真面目でお堅いレイラ嬢がさぁ、婚約者である部長のアーノルド様を差し置いてさぁ、あの“火炎の悪魔”を好きになったりするもんなんですかね?」




 誰にでも生意気な態度の、ジェラルド・オースティンがふんと鼻を鳴らす。海草のようなぼさぼさの黒髪に、冷え切った紫色の瞳の彼は二十七歳。彼の隣に座っているバディである、エマ・ブラウンもそれにつられて声を発した。



「それはぁ、エマもそう思っていた所なのですよ? エマの大事な大事な、可愛いレイラちゃんはぁ~、あの冷酷非道の“火炎の悪魔”を好きになったりなんかしません! ぷんぷん!」



 豊かな赤茶色の髪に深緑色の瞳を持つ、美しいアンティークドールのような彼女は二十六歳。隣のジェラルドとは幼馴染で、派手な外見と同じく男遊びも激しい。相手に貢がせてはあっさりと捨てている彼女は、思い詰めた元恋人の対応を全て、ジェラルドに任せている面倒臭がり屋さんだった。



「エマ、別にレイラ嬢はお前の物なんかじゃないだろ? お前のそのさ、レイラ嬢に対する異常な執着って、一体どこからやって来るもんなの? たまに俺は怖くなるんだけどなぁ」

「ううぅ、レイラちゃんはエマの大事な可愛い妹分なんですぅ~、ああああああ、今日もまたレイラちゃん成分が足りません、後でレイラちゃんの黒髪をくんかくんかして補給しなくてはぁ~……」



 その発言を聞いて、ジェラルドが嫌そうに顔を顰めている。



「うぇっ、やめておけよ? その膝に抱えてる不気味な呪いの人形の匂いでも嗅いでろ」

「絶対に嫌ですぅ! 後でレイラちゃんの匂いをたっぷり嗅ぎます!」



 エマが都民から解呪を任されている、呪いのビスクドールをぎゅっと抱きしめた。ちなみにこのビスクドールには、夜な夜な冷蔵庫の食料を漁って、それらを全部平らげてから、途轍もない悪臭を三日間に渡って放つ呪いが組み込まれていた。



 人体を脅かさない軽度の呪いは法律で禁じられていない為、魔術を使えない者達は()()()()()()呪いを利用している。



「うふふふふ……レイラちゃんはね、いっつも私の重たい愛情を一身に受け止めてくれるし、初めて出会った時から今の今に至るまでいっつも私に優しくしてくれるの……」



 暗く呟いてみせたエマに、腕の中のビスクドールも反応して、カタカタと揺れ始める。その様子を見て、ジェラルドが青ざめた。



「っ怖い怖い!! そんな不気味な人形を抱えて言うのはよせよ、エマ!? レイラ嬢もレイラ嬢でなんだかなぁ、お前のことを甘やかしすぎじゃないのか?」



 人形を抱えて突っ伏してしまったエマの頭を、ジェラルドがわしゃわしゃと撫で始める。幼馴染というよりかは、年の近い従兄妹のような関係性の二人だった。そんな二人のやり取りを見て、ジルがにっこりと微笑んで話を続ける。



「ええ、確かにレイラ様はジェラルド君の仰るとおり、超がつく程の真面目な御方ですよ?」



 このまま黙っているか、忘れてくれるかと思ったが、どうやらそういう訳にもいかないらしい。我らが上司、アーノルド・キャンベルはその鋭利な美貌とは裏腹に、短気な所もあるが基本的に温厚である。それなりに愛想が良く、数多の部下が飲みの席でやんちゃをしても、寝ぼけていたとしか思えない仕事でのミスも、深い溜め息を一つだけ吐いて「今後は気をつけるように」とだけ伝えて、黙々と後処理を始めるような男だった。



 簡潔に言ってしまうと、アーノルド・キャンベルは皆から慕われていた。(ただし一部例外を除いて)



 比較的温厚な彼も、自分の恋愛の行方を賭けの対象にされていると知ったら? 言うまでもない。あの彫刻のように恐ろしく整った顔立ちは、途端に凍り付いてしまうだろう。かの盲目の聖女サフランも、そのような愚行をお許しになるとは到底思えない。おまけに皆、酒も入っておらず素面だった。




「だからこそ、そんな真面目なレイラ様がアーノルド坊ちゃんと、エディ君の狭間で揺れてどちらを最終的に選ぶのか、非常に愉快な賭けになると思うんですよね~。かなり盛り上がるとは、そう思いません? 皆さん?」




 あんたの血はそれでも赤いのか、それとも従者の意味を知らないとでも言うのか。一同は黙々と熱心に仕事をしていた、心の叫びで仕事の効率はガタ落ちだったが。従者の意味を辞書で引け、とは今ここにいる職員が同時に思ったことである。



 それにアーノルドが熱心に、レイラ嬢を見つめていることは周知の事実だった。彼は彼女を妹のような存在だと常々言っているが、強がりであることはよく理解している。他部署の男性職員からもそれなりの人気を集めている、可憐なレイラ嬢。アーノルドはレイラ嬢が男性職員に話しかけられる度に、あからさまに不機嫌な顔となる。



 以前なんて、レイラ嬢が他の男性職員と楽しそうに笑っていただけで、何も無い床で転びつつ、顔を真っ赤にして駆け寄っていた。そんな以前でも余裕が無かったのに、今では悪魔の登場で更に余裕が失われている。そんな状況をもっと有効活用しようというのが、ジル・フィッシャーの提案だった。



「ちなみに俺はアーノルド坊ちゃんに二千ドル賭けようかと思っています。どなたか、エディ君に()()()()のお金を賭けたいという方はいらっしゃいますか?」

「はぁい、はーい! このジーン・ワーグナー、かの戦争の英雄“火炎の悪魔”に千ドル賭けたいと思いまーすっ!」



 あまりの金額に目がくらんだのか、それとも面白そうだとお祭り気分で挙手してみせたのか。お調子者のバディを、隣のミリーが慌てて引き止める。



「ちょっと、ジーン!? アンタはまた、そんな風に余計な事に首を突っ込んだりして! というか少しはアーノルド様とレイラちゃんに悪いとは思わないの!? それに、今月はピンチだってさっきも言ってたじゃない!」



 ミリーがジーンの両肩をがくがくと揺さぶっていたが、その効果はあまり無さそうだった。



「なぁ、どうするよ? 相棒。どう思う? 俺達も参加した方がいいと思うか?」



 同じく隣のバディに話しかけたのは、マーカス・ポッター。トム・キンバリーと同年代である、平凡な黒髪に茶目の冴えない風貌の男だった。ひそひそと小声で話しかけたのは、多少の罪悪感からだった。



「お前はどうしたいんだよ、マーカス?」

「そりゃあもちろん、金欠な上に近頃は退屈に殺されそうだぜ。だけどなぁ、命が惜しいだろ?」

「それはそうだが、あのいけ好かないジーン・ワーグナーが一人勝ちでもしてみたら?」

「そいつは到底許せんな、あの金髪アホ王子にだけは先を越されたかねぇよ、これで決まったな?」

「ああ、決まったな。俺も全くの同意見だよ、マーカス!」



 王子様風のジーン・ワーグナーは女性職員からの人気はあっても、男性職員からの人気は皆無に等しかった。あのアーノルドでさえも彼女を嫌っている。同性愛者の癖に女だからなどという大義名分を振りかざして、他の女性職員の体をべたべたと触り「悔しかったら君達もやってごらんよ」というのが彼女の口癖だった。



 それに一番腹立たしいことに、レイラ嬢を含む全員がそれを照れながらも受け入れている。いつかセクハラで訴えられてしまえ、というのがアーノルドを含む男性職員全員の本音だった。



「それじゃあ僕は、エディさんに五百ドル賭けようかな? ライおじさんもどう? 皆と一緒に遊んでみない?」

「えっ、いや、あの、アラン? 遊ぶと言ってもただの遊びではないぞ? それに、アーノルド君達の恋愛の行方をそんな風にして、お金を賭けるのはちょっとその、良くないと思うんだが」

「んー、それじゃあ、集めたお金は僕たちじゃなくて、レイラちゃんへの結婚祝いにしない? 負けた方がね、賭けた分だけのお金を出して、買った方がお祝いの品物をそのお金で選びに行くの」

「ああ、それはいい名案だな、アラン! それならそれで、レイラ嬢も喜んでくれるだろう」



 それまで黙って、周囲の様子をにこにこと眺めていたジルが、あからさまに嫌そうな顔となる。彼は自分のお楽しみを台無しにされるのが嫌いだった。しかしそれでも、元部長であるライに逆らう気は無いらしい。



「あ~、いいですねぇ。それじゃあ、ライさんとアラン君の仰るとおり、集めたお金はレイラ様とアーノルド坊ちゃんへ横流ししましょうかねぇ~」



 全然良くない口調だったが、流石の周囲もそれは黙殺することにした。この男が自分の意見を曲げるのは、滅多に無いことなので数で押すしかない。しかしながら既にしれっと、自分の主人が勝つと決め付けている。



「いいわねぇ! それならレイラちゃんも喜んでくれるだろうし、私もエディ君にちょっとぐらい賭けようかしら?」

「え~、なんだよ、ミリーちゃん! さっきはあんだけ反対してた癖に~……」

「それはアンタが面白半分で言うからでしょうが! 私だってたまにはこういう事をして楽しみたいの!」

「いだだ、分かった、分かった、俺が悪かったから、ごめんってば……」




 ミリーにぎゅっと頬をつねられて、ジーンが不貞腐れた表情となった。それでも日頃から何かと人に構って欲しいジーンは、どことなく嬉しそうである。



「そんじゃあ、俺らも賭けるかぁ、なぁ? エマ?」



 ジェラルドが椅子の背もたれによりかかって、気怠げに問いかけた。それに彼女が一つ頷いて、ぎゅっとビスクドールを抱きしめる。



「エマはあのクソ悪魔の方に賭けます、アーノルド様は死ねばいいと思いまっす!」

「相変わらず、レイラ嬢の婚約者であるアーノルド様への憎しみが酷いな、お前は……。アーノルド部長のことが嫌いな女なんて、お前一人ぐらいじゃないのか?」

「ジーンちゃんもそうですよーだ、でもエマはジーンちゃんもあんまり好きじゃないの、私からレイラちゃんとの時間を奪いやがって……!!」



 凄まじい形相で、歯軋りを始めたエマに対して。少し離れた席からジーンが声をかける。



「え~? 俺はエマちゃんのことが好きなのに悲しいなぁ、今度俺と二人でお茶でもしに行かない?」

「腐れ外道!! エマはレイラちゃんとしかお茶に行きません! 奢ってくれるなら別ですけど!」

「一体どっちなんだよ、エマ……ジーン、お前もお前でいい加減に懲りろよ……」



 はぁ、と草臥れたように溜め息を吐いた後で、ジェラルドがさらっと爆弾発言をした。



「それじゃあ、俺は部長のアーノルド様に賭けようかな? ここはひとつ、部下らしく、」

「ってんめぇ!! ジェラルド、よくも私の前でそんなことが言えたもんだな!?」

「いだだだだっ、痛い痛い!! 急にいつものマフィアモードになるなよ、エマ! それ、完全に裏社会の人間の掴み方だからな!?」



 隣のエマに黒髪を掴まれて、ジェラルドが悲痛な声を上げる。ただ先程から何度も申し上げるとおり、これもまたいつもの光景だった。よって二人の微笑ましいじゃれ合いを、ジルがあっさりと無視して続ける。



「それでは、特に大して何の面白味はありませんけど。賭けに勝った方が結婚祝いの品物を選びに行く、それでその代金を、賭けに負けた方が全額負担する形でよろしいでしょうか、皆さん?」



 従者らしからぬ余計な一言が入っていたが、なるべく意識を逸らすことにした。この男の言うことに、いちいち批判を入れていたら永遠に話が進まない。



「ああ、それは良い提案だな、ジル君。そういう事ならばこの私も参加しよう、エディ君に三千ドルぐらい賭けようかな……」

「ライおじさんにしては思い切った金額だね? もっと、少ない金額を賭けるかと思ってた」

「ジル君もジル君で、部長にそれぐらい賭けるらしいからな。それに何よりも、こういったおめでたい出来事にはそれ相応の金額でお祝いしたいんだよ、アラン」

「そうだねぇ、僕もレイラちゃんとエディさんの結婚式に参加するのが楽しみだなぁ~」



 ほややんと二人の未来に思いを馳せたアランに、トムとマーカスが慌てて声を上げる。



「ちょっと待って欲しいっす、アラン君! それじゃあ、俺らの負けが確定しちゃってるんで!」

「そうだぜ、アラン君! 俺らは無敵の色男にそれなりの金額を賭けるつもりでいるから!」

「レイラ嬢が落ちるのも時間の問題っすよ、何せアーノルド様は初対面の女性にも惚れられて、」

「ん? 何が時間の問題だって? 俺が席を外している間に何か問題でも、」

「「うわあああああぁっ!?」」



 そう、トムとマーカスの席は一番出口に近かったのである。一同は素知らぬ振りで仕事に戻り、突然現れた部長のアーノルドからそっと目を離した。彼らは迷える子羊。後のことは自分達で何とかして頂きたい。



「びっ、びびびびびっくりしたぁ! ちゃんと声をかけて欲しいっすよ!」

「そっ、そそそそそうですよ、いきなり後ろから声をかけないで下さいよ!?」



 二人の尋常ではない驚きように、アーノルドが面食らったように両手を上げて制する。ぱちぱちと、美しい銀灰色の瞳が瞬いていた。



「あ、ああ、俺が悪かった。お前達がまさか、そんなに驚くだなんてな……」

「あーっ、もう、びっくりしたぁ! はーあ、心臓に悪いったらありゃしないよ、本当!」

「お、おい、マーカス、ちょっとお前それは流石にまずいんじゃあ……」



 仲良く不審な発言をしたトムとマーカスに、流石のアーノルドも鋭く目を細める。



「なぁ、お前ら。一体何の話をしていたんだ? まさか、俺に話せないようなことじゃないよな?」



 部署がしんと静まり返った。いつの間にか立ち上がって、澄ました顔で珈琲を淹れているジルには、何の助けも期待出来そうに無い。顔色を悪くして押し黙る二人の背後で、アーノルドがそれはそれは美しくにっこりと微笑む。



 ごくりと、マーカスが喉を鳴らして唾を飲み込んだ。彼らは自分の浅はかさを呪いながらも、ぎこちない笑顔で振り返ることが出来た。



「は、はははは……いや、何、特に大した話じゃないっすよ、アーノルド様……」

「そう、そうですよ、正しくトムの言う通りですよ、はははは……」



 もう少し何かあるだろう、とは向かいのライが頭を抱えて思ったことである。同じく隣のアランも、可哀想な物を見る目で彼らを眺めていた。



「……へえ? それならそれで、俺にちゃんと言えるよな? だって、大したこと無い話だもんな?」



 その声はひたすらに甘く、彼の熱狂的なファンが聞いていたら気絶していただろう。少し離れた所ではジーンが突っ伏して笑いを堪えており、隣のミリーに頭をぱしんと叩かれていた。



「じ、実はですね……」



 ここで何を切り出すというのだ、まさか本当のことを言ったりしないよな? マーカスがトムを見つめて、何の策も無いことを理解した。それじゃあお前が何とか言えよ、俺にだけ全部押し付けるなよ、と無言でトムが伝える。「頑張れ、頑張れ!」と向かいのライが、心の中で必死に応援していた。



「……お前ら、まさか、俺とレイラの婚約について何か言ってた訳じゃないよな……?」




「ナイス、その勘違い!」とは、この場にいる全員の叫びだった。アーノルド部長には少々天然な所があった、その勘はあまり鋭い方ではない。頭の回転の速さと、その場の状況を読む力はまた別物である。それっ、今の内に畳み掛けろと言わんばかりに、二人がぐるんと振り返って声を張り上げる。



「だっ、だだだだって! アーノルド様が悪いんじゃないですか、いつまで経ってもあの可愛いレイラ譲と結婚したりしないからっ! いつまでほっとくつもりですか!?」

「そっ、そそそそうっすよ! 彼女もいない、独身の俺らに悪いとは思わないんすか!? あの可愛いレイラ嬢が俺らの目に毒なんっすよ!」

「そうそうそうそう! だから俺らがこうやってレイラ嬢の豊満な胸についてもっ、あっ」



 勘違いを固めようとするあまりに、言ってはいけないことを口走ってしまった。少なくとも、目の前の人物にそれだけは言ってはならないことだった。あっと、マーカスが間抜けな声を漏らしたっきり、再び部署がしんと静まり返る。



 遠く離れた席で、エマが自分のボールペンをへし折っていた。隣のジェラルドはそれを見て、すっと両目を閉じる。何も見なかったことにしようと、これしきで動揺する自分を叱責していた。



「……なるほど。なるほど、つまりお前達は仕事をするべき昼間の職場で、猥談をしていたと? はあ、なるほど。しかもそれが自分の上司の婚約者についてだと……なるほど」



 なるほどって四回も言った、超怖いとはマーカスの心の声だった。トムはひたすら自分のことを棚に上げて、隣の相棒を激しく罵っていた。この頃になると最早、アーノルドは慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。ただし、その鋭い銀灰色の瞳はちっとも笑っていない。



「まぁな? ()()()()レイラは天使のように可愛いから、そんな話をしたくなる気持ちも分かるんだけどな?」



 分かるが許すつもりはないと、その美貌にはっきりと刻まれていた。彼も彼で、レイラ嬢に対して兄のような気持ちを抱いているのか、よくこうして兄馬鹿のような発言をする。それはやはり、愛する女性に向ける温度では無いような気がするなと考えて、マーカスとトムの二人は必死に現実逃避をしていた。



「そっ、それはひとまず一旦置いといてっ、はいっ! 部長はいつになったらレイラ嬢と結婚するんですか!? 早いところ式の日取りだけでも決めておきませんか!?」

「そうっすよ、一体、アーノルド部長はいつになったらレイラ嬢と結婚、」

「その結婚は絶対に反対、この俺が何が何でも絶対にレイラちゃんと結婚してみせるっ! とうっ」



 ばぁんと、そんな声と共にドアを開いて“火炎の悪魔”ことエディ・ハルフォードが登場する。颯爽と現れた彼は、長く鮮やかな赤髪を揺らして、むんとした表情で仁王立ちしていた。



「っそれを言うのならば、私は何が何でもエディさんとは絶対に結婚しません! そいやっ!」

「あだぁっ!? ねぇ、なんで!? なんで今俺の膝裏を蹴り飛ばしたの、レイラちゃん!?」

「エディさんがアホ臭い事を言うからですよ、あと邪魔! 早く部署に入って下さい!」



 その言葉を聞いてエディが、不思議そうな表情で聞き返す。



「レイラちゃんってもしかして、かなりの照れ屋さんなのかな……?」

「今すぐ名誉毀損で訴えられたいんですか? それともその赤い髪を、バリカンで刈り取られたいのでしょうか?」

「たっ、大変申し訳ありませんでした……!!」



 賑やかに現れた二人を見て、一同がほっと安心したように深い溜め息を吐く。これで当面の危機は脱した、良かった。



「あ? なんでこんな邪魔臭い所にぼーっと突っ立ってるんだよ、腹黒陰険イヤミ虫!」



 不機嫌そうな顔で両腕を組んでいるアーノルドに、エディが早速噛み付く。その背後ではレイラ嬢がもう一度、彼の膝裏を蹴り飛ばすかどうかで、真剣に頭を悩ませていた。



「……ああ。悪かったな、つい。このトムとマーカスの二人が何やら、()()()()婚約者の胸について、熱心に意見を交換し合ってたみたいだからなぁ」

「へっ? わ、私の胸についてですか……?」



 動揺したレイラがエディを移動させて、のそのそと二人の前に現れる。もはや後ろは振り返れない、アーノルドがいるからだ。それよりも何よりも、横に立つレイラ嬢を見るべきではなかった。可憐な紫色の瞳が、すっかり困惑しきって、彼らをまじまじと見つめている。



(わあああああああっ! そりゃないだろ、アーノルド様! そりゃないだろ、アーノルド様!! 同じ男としてそれは一番言っちゃダメなやつ! 絶対に言わないで欲しかったやつ!!)

(うわあああああああ、どうしようどうしよう、軽蔑されるやつ! どうしようレイラ嬢に明日からなんて言えば、それ誤解だから! 誤解だから!! アーノルド様の馬鹿! ハゲて!)



 蒼白な顔をした二人が何の言葉も発せずにいると、それまで静かだったエディがぼそりと呟く。



「お二人は確か、恋人もいない、寂しい独身男でしたっけ……?」



 誰が寂しい独身男だ、と精神的なゆとりがあれば言い返すことが出来た。しかし残念ながら、いつも陽気な“火炎の悪魔”は、見ているこちらが青ざめる程の真顔になっていた。



「今日の仕事終わりにでも、俺と一緒に飲みに行きませんか? ちょうど先日、()()()良さそげな飲み屋を見つけたんですよ……」



 マーカスの肩をぽんと叩き、エディが淡い琥珀色の瞳を見開いている。



「それ、もっと愛想良く言って!? いつもだったら普通に嬉しかったやつ! 今は死ぬ予感しかしない!」

「ぶ、部長ー!! 悪質な嘘吐かないで欲しいっすよ、これ! 下手したら俺たちが殺されるやつなんで!」



 あわあわと背後の部長を振り返ると、そこにもう彼はいなかった。素知らぬ顔で珈琲を飲んでおり、ふてぶてしく書類を斜め読みしている。いつの間にと二人は、救援隊に気付かれなかった遭難者のように愕然としていた。



(あの野郎! 悪質な嘘を吐いた挙句に、自分の席で優雅に珈琲を飲んでやがる!)

(うわああああ! もう絶対にお前なんかに金を賭けたりしねぇからな!? うわあああ、どうしよう、ひとまずこの状況どうしよう、ここはもう優しいレイラ嬢に全力で縋るしかないな……!!)



 かくして二人の男をほんのちょっぴりだけ不幸にしつつ、“魔術雑用課”の賭けも合わせてスタートした。レイラ嬢とアーノルドとエディ、彼らの三角関係の行方を賭けの対象にして。この後の彼らが、自分の上司をちょっとだけ嫌いになったのも無理の無い話だった。






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